12−7 傍らで
「ふいー、きっついなぁ!」
汗をぬぐいながら、恵は包帯を置く。
『昏睡病』の治療はすぐに完了した。この世界に静脈注射という技術は既に確立してあったため、療法と用量を伝えるだけで十分だった。薬は十分に量があり、この先、パンデミックでも起こらない限り問題ないだろう。
彼女を悩ませているのは、昏睡病ではなく八坂大災における怪我人の治療だった。薬の効能も高くなく、種類も少ない。検査機器もアナログなものばかりで、骨が折れる。
「お疲れ様です」
そういって茶を差し出すのは、飯塚亜矢人だった。
「ありがと。んで、どうだった?」
「仰る通りでしたよ。まさか、昏睡病の微生物を媒介するものが虫だったなんて」
硝子瓶には、人差し指の爪ほどの羽虫が入っている。
「トリパノソーマの媒介するので有名どころはサシガメやハエだからね。多少、性状は違えども大きく変わってはいなかったか。でも親から子に受け継がれる可能性もあるよ」
「ご安心を。これはハネガメというんですけど、梅雨時に産卵し、年が明ける頃には死ぬ虫です。メンゲレがトリパノソーマを回収したのは夏頃なので、産卵の時期は過ぎている。これ以上の増殖はあり得ないでしょう」
此世の総本山は掌握してあり、遺跡からの盗品は全て回収した。こんなものをつくる設備も残っていない。勿論クリスベクターの生産工場も押さえてあり、解体工事が進んでいるだろう。ただ、メンゲレを確保できなかったことが心残りだ。
此世の本山は全国に無数にある。どこに逃げたかは予想できず、動きを待つしかないだろう。
「そいつは良かった」
「……貴女はメンゲレと同じ『管理者』だというのに、随分雰囲気が違いますね」
「まあ、そうだろうね。私は民間の出だから、どうしても甘さが出るのさ」
窓の外を見ると、左腕を吊った空色の髪をした少女が走っている。
「……あの子は」
「鏡美華也。稲峰君と同じ魔導官署に勤めていた娘ですよ。彼がそちらに戻ったのも、彼女を助けたかったからです」
「……こんなことがあるんだね……ああ、運命ってものがあるんなら、随分と残酷だ」
その言葉の意図は分からない。ただ恵は遠い目をしながら空を見上げる。
あの子が、こちらの世界にたどり着いた理由を察する。六之介は会いたかったのだろう。記憶を消されて尚、偽りであっても家族に。だから、彼女のいる場所に、たどり着いた。異なる存在であっても、その面影を求めて。
「……げほっ」
慌ててマスクを装着する。少しず身体を順応させているが、やはり長時間曝露しているのは毒になるようだ。
この世界の神様は、まだ私を受け入れてくれないらしい。
「ちょっと押さないでくださいな!」
「私は怪我人ですよ! そちらこそ!」
大騒ぎし、押し合いへし合いながら病院の通路を歩く。看護師から叱責され走るのはやめたが、それでも早歩きを維持している。
先ほど、急増された野外病院の医師から六之介が目を覚ましたとの連絡を受けたのである。
八坂大災から二週間が経過しており、六之介は目を覚まさなかった。最後に見たのは、五体不満足となり、全身を包帯で覆われたあまりにも痛々しい姿。医師も意識を取り戻すことは絶望的と口にしていた。けれども、二人はあきらめなかった。毎日彼の病室を訪れ、一日の出来事を、街の復興の様子を、事細かに伝えていた。
その思いが通じたのかどうかはわからない。けれども、六之介は目を覚ました。
同時に取っ手をつかみ、押す。扉は思った以上に軽く動く、重なるように転ぶ。
「きゃあ!」
「ぐえ!」
華也に潰された綴歌がうめく。容姿とは対照的な汚い悲鳴に部屋の主は笑う。
「あはははは、ひどい声」
呵々とした笑う様に綴歌は胸をなでおろした。植物人間になる恐れすらあると聞いていたが、杞憂に終わったようだ。もうこれ以上、仲間がいなくなるのは御免だった。
一方で華也は大きな違和感を覚えた。
六之介に関して、この世界において誰よりも詳しいという自負がある。悲惨な出生から、凄惨な人生を送ってきたことを知っている。だからこそ、本人は無意識であろうが、彼の笑顔
には影があった。しかし、今は違う。あまりにも無邪気過ぎるのだ。まるで、過去を全て清算したかのような。
「お二人さんは何の用かな?」
「そんなものお見舞いに決まっているでしょう」
「自分に? へえ、それは嬉しいな」
やはり、奇妙だ。物言いが彼らしくない。
「『どこの誰とも知らない』けど、ありがとう」
「……え?」
今何と言ったのか―――。
「記憶喪失か」
御剣中央病院の二階の一室に、雲雀、亜矢人、恵が座っている。
「それと多少の精神年齢の退行もある」
「治せるのか?」
雲雀の問いかけに、恵は首を横に振る。
「この世界の設備じゃ絶対に無理。それに、これ以上あの子の頭を弄り回せば今度こそ死ぬ」
こんこんと扉がノックされる。開けばまだ若い看護師が恵の助言を求めに来ていた。
出ていってよいかと雲雀たちをちらりと見る。
「構いませんよ。患者を優先してください」
亜矢人が返すと、早足で部屋を飛び出す。
仮にも元医療従事者。患者を放っては置けないのだろう。
「あの雌はどうする?」
「雌って……とりあえず、魔導機関で監視するよ。二十四号と一緒にね」
一人であろうと二人であろうと大した違いはない。加え、祁答院八雲を保護する上で、魔力が希薄となる部屋を創ってある。恵を保護するなら、そこしかないだろう。
それともう一つ。
「稲峰君はどうする?」
「そんなの決まってだろうが、愚問にもほどがあるぞ」
「……つまり、彼は外すと。ま、仕方ないか」
「ああ。左腕はない、脚も歩くのがやっと、右目は見えない、超能力も使えない。もう二度と戦える身体じゃねえよ」
魔導官としては長期療養中として扱うが復帰は絶望的だろう。
「となると行き先か。元いた村は……ちょっと辺境が過ぎるな。もう少し都市部で、頻繁に医者にかかれるような……」
「鏡美のとこしかねえだろう」
つまりは『早稲』。大都市ではないが、八坂に隣接する緑豊かな豊穣の土地である。
そして鏡美華也は、そこを収める豪族の令嬢でもある。財力も十分だ。
「なるほど。本人はどうだろうか?」
「後で聞くつもりだが……あいつのことだ。無理やりでも引っ張っていくだろうさ」
その発言には強い確信が宿っていた。
立ち上がり、窓越しに御剣の街を見る。一部崩壊した街並みが痛々しい。
「いきなりお前に署長をやってくれと頼まれたときは何事かと思ったが……」
その表情は見えない。けれども、こんな弱々しい雲雀を見るのは『八年前』以来だった。
「君は……強過ぎる。優秀過ぎる。何でもこなせてしまう。だからこそ……下の者たちを見てほしかった。誰でもが君のようにできるわけじゃないと知ってほしかったんだ」
「そうだな、ああ、当たり前のことだな。だが、それを理解できていなかった」
「ただ、今回のことは僕にも非がある。眉月仄のことは完全に見落としていたし、此世への対応も遅かった。もっと早く対策を講じていれば、これほどの被害は出なかった」
確かな証拠が出るまで、動かない。当たり前のことであるが、今回に関しては首を傾げてしまう。
違法な武器を製造していること、民間人を誘拐していること、彼らを用いて人体実験をしていること。上げればきりがない。ただ、そこに此世が関与しているという確固とした証拠がなかった。各地の本山で分割して行い、かく乱していた。こちらにあったのは祁答院八雲の証言のみ。その結果、篠宮五樹という若き魔導官を死なせてしまった。
「ひばりん、おそらく今後から此世との戦いは激化するだろう。だから」
「ああ、分かっている。前線に出せ。もう誰も死なせん」
それは自らに言い聞かせるようだった。
「それと、亜矢人、これを」
懐から書類を取り出した。




