11−14 彼方にて
自らの異変に気が付いていた。
始まりは、夏祭りの夜から。耳よりも奥、脳よりももっと奥、記憶の底にある深淵から声が聞こえてくるようになった。それは言葉ではあるけれど、何を意味しているのか分からない。断片とでも言えばよいのだろう。初めのうちは気にもしていなかったそれは少しずつ、徐々に形になり積り固まっていく。
―――最終試験開始まで残り、二十七時間二十三分四十一秒。
時間はだんだんと短くなっている。初めの頃の五分の一以下となっている。これが零になればどうなるのか、そもそも試験とはなんなのか、何もわからない。ただこれが自分にとって避けようがない物であり、そして大きな禍根を生み出すものであるという予感があった。
夏は過ぎ、残暑も和らいでいた。蝉の声に変わり、鈴虫たちが鳴き出した頃に。
悩みの種であった麻耶が積極的にコミュニケーションを取る様になったことで、家族と言う歯車がかみ合う様になっていた。言葉がこぼれれば誰かがそれを拾い、動きがあれば誰かがそれを支える。それは当たり前のことかもしれないが、容易なことではない。
「……ク、ロク!」
虎徹の声に、六之介は我に返る。また意識がどこかへ飛んでいたようだ。
瞬きすらせずに、ぼんやりと将棋の盤面を眺めていたせいでひどく目が乾いていた。
「どうした? 眠いのか?」
「……いや、そういうわけじゃないんだけどね」
「……そうか? なんかお前、最近変だぞ。ぼうっとしてるっていうか」
他者から見ても明らかに、六之介の様子はおかしかった。
今までは何をするにしても、人並み外れて敏い子供だった。周囲に気を配り、怠けたがりのようで実はよく動く。
「……変な話をするんだけどさ」
「おう」
「なんか、時間が見えるんだよね」
「……は?」
虎徹の手の中で回っていた駒が動きを止める。
「現在時刻とかじゃない。なんか、制限時間みたいな……」
―――最終試験開始まで残り、四時間十分一秒。
制限時間は今日の終わりであるようだった。
「……あー、その、なんだ」
「うん、まあ、そうなるよね」
虎徹の態度は当然と言える。彼は医療従事者でもオカルティストでもない。ごくごく普通の元会社員である。こんなわけの分からないことを聞かされても、首を傾げるのが精いっぱいであろう。
「……今日はお前がうちに来て一年になる日だ。ケーキでも食って、早く寝ろ」
周子の声がした。夕飯であるとのことらしい。
将棋の盤面はそのままに立ち上がる。角度を変えて見るとなかなかの攻勢である。全体的に隙は無く、穴も見られない。今宵、ついに念願の初勝利になるかもしれない。
夕飯は、もう何がなんだかよく分からないものだった。
ケーキに、カレーに、焼き鳥に、ハンバーグに。とにかく、一度でも自分が好きだと言ったものが食卓いっぱいに並んでいる。大食らいな虎徹もわずかに顔を引きつらせ、麻耶に至ってはどこから手を付けていいのか分からないとばかりに箸が止まっている。そんな中で周子は胸を張り、得意げな笑みを浮かべている。
「ふふん、張り切ったわ」
「……婆ちゃん、作り過ぎじゃあ……」
「何言っているの。今日は六之介が我が家に来て一年目。豪華にやらなきゃ。はい、食べて食べて」
「い、いただきます」
半球状に盛られた白米の上になみなみとカレーが注がれ、手渡される。きっと何の変哲もない普通のカレーなのだろうが、大きめの具材とほんのり甘口の味は六之介の好みであった。咀嚼している様子をじっと見られる。
「ん、美味しいよ」
周子が破顔する。
それからあれよあれよと小皿に盛られ、手渡され、気が付けば卓上は平らに片付いていた。
決して大食漢ではない六之介にとっては、もはや許容限度を超過していた量だったが、あれほど嬉しそうな周子を目の前にすると断ることもできなかった。
「……吐きそう」
今にも破裂しそうな腹部をさすりながら天井を眺める。四日分は食べた気がする。
こんこんと扉がノックされる。虎徹や周子はノックなどしない。つまりは。
「麻耶?」
「入るよー」
寝間着姿の麻耶が入ってくる。その手には水色のかわいらしい小袋が握られていた。
気恥ずかしそうに視線をそらしながら、それをずいと差し出してくる。
「これは?」
「……まあ、その、お祝いと……感謝の気持ちっていうか」
わずかな重さと、硬質な感触がある。球体、あるいは多面体が無数に連なっているようだ。
びりびりと破ると、麻耶が悲鳴をあげた。
「ちょ、ちょっとここで開ける、普通!?」
「え、だめなの?」
「だって……恥ずかしいし……」
そうは言いながらも、部屋から出ていく気配はない。
彼女の言葉を無視し、袋から取り出す。それは緑系統の石を主として構成されたストラップだった。光沢や重さ、透明度から見ても安いものではあるまい。ただ一つ気になる点があった。商品にしては包装が拙すぎること、そして、注意深くみれば結び目に粗があること。
「……手作りか?」
麻耶が小さく首肯し、慌ただしく口を動かし始める。
「へ、下手なのはごめん! おばあちゃんと一緒に作ったんだけど、私、あんまり器用じゃなくて、その……」
必死に取り繕おうとするあたり、彼女の自信のなさが現れている。
「何を言う。よくできているじゃないか、多少の拙さはあるが、些細なものだ。大した出来だろう」
蛍光灯にかざせば、透明感のある緑がきらりと輝く。
「そ、そう?」
「ああ。ありがとう……だが、どこにつけようかな」
「スマホとか」
「持ってない」
「ええ!? そ、そっか……じゃあ、今度買いに行く?」
「……そうだな、便利だろうし」
麻耶からの贈り物を、そっと握る。
嘘偽りなく、本心から『嬉しい』と感じた。元々は、祖父の頼みから始まった関係である。柊麻耶という存在は知っていたが、全く興味はなく、いてもいなくても何ら影響のないものとして捉えていた。だが、こうやって毎日のように顔を合わせ、言葉を交わしているうちにそれは少しずつ変化していた。
「……うん、妹がいたらこんな感じなのだろうな」
「は、はあ?」
「麻耶のことだ。駄目な妹」
「だ、駄目って……というか、妹って……」
がっくりとうなだれる麻耶を見て笑う。本当に表情豊かになった。薄暗い部屋で膝を抱え、現実逃避を繰り返していた少女だと、誰が信じるだろうか。
麻耶は夏休みが明けてから学校にも通いだしていた。最初は戸惑うこともあったようだが、うまくやれている。多くの新たな出会いが彼女にとって、よい影響を与えているようだった。
野太い音が廊下から聞こえてきた。巨大な壁掛け時計が、零時を指した証左であった。
それと同時に、異変が始まった。




