11−11 彼方にて
夢を見ている。
真っ暗で、冷え切ったここは小さな借家だった。日に灼けた畳が敷かれたリビングと汚れの目立つキッチン、小さな箪笥にテレビ。質素で、こじんまりとした空間に私は寝転がっている。煙草と酒の臭いがする。ぼんやりと天井を眺めていると、声が聞こえてきた。
「どうして産んだのか」
後悔。
「何故産まれたのか」
憤怒。
「何故育てなければならないのか」
怨嗟。
人はどこにもいない。だが確かにその声は聞こえてくる。耳を塞ぎたくても体は動かない。
この家に染みついた声が、反響する。
「死んでしまえばいい。消えてしまえばいい。そうすれば金もかからない。人目を気にし、親のふりをする必要もない。食事だって、掃除だって、ずっと楽になる。少子化対策の補助金の為に置いているが出費の方が大きい。それに…………ああ、本当に―――産まれてこなければ良かったのに」
視界が反転する。
「あああああああああっ!!」
身体が芯まで冷えきっている。がたがたと奥歯が鳴り、自身を抱きしめる。
「私はいらない子じゃない私はいらない子じゃない私はいらない子じゃない、私はいらない子じゃない、私はいらない子じゃない……」
そうだ、違う。絶対に違う。私は母親からの愛情は受けていた。父はいなかったけれど、その分母親は愛してくれた。
一緒に買い物に行った、公園に行った、絵を描いた、テレビを見た、歌を歌った。それらが私が愛されていた証だ。私の中にある大きな繋がりだ。
あんなものはただの幻聴だ。母の声ではない。
時計を見ると十六時半を少し回ったところだった。朱色の日差しが差し込み、ぼんやりと室内を明るく染めている。部屋着は汗でじっとりと湿っており、不快感しかない。
汗だけでも流そうと、部屋を出ると何やら声が聞こえてきた。だが祖父母のやりとりではなく女性二人の声。
階段の途中で足を止め、耳を研ぎ澄ませる。祖母のものと、もう一つは懐かしい、深く記憶に刻み込まれたものだった。
「……っ、あなたは……っ……い!」
「うるさ……、だったら……ない!」
今にも火が付きそうな怒声のぶつかり合いだった。お互いが一歩も譲ることなく、互いの言葉を食い合っている。
思わず固まってしまうほどの喧騒の応酬だったが、それは五分ともたずに終焉を迎える。硝子の割れる音と扉が叩き付けられる音がした。どすどすと床を踏み抜かんばかりに近寄ってくる気配に思わず身を隠してしまう。
そっと陰から除くと、金色と言うべきか茶色と言うべきか、形容しがたい髪色をした女性が廊下を歩き去っていった。肌は荒れ、化粧もしていない。寝間着のようなよれた服装で、憤怒の感情を垂れ流している。
姿は変わり果てていた。記憶の中にあるイメージとはまるで合致しない。それでも、あの人が間違いなく母であると察する。
玄関の扉が開かれる音がした。追いかけなければならない。聞きたいことはたくさんある。だが、こんな下着同然の恰好では外に出ることもままならない。急ぎ自室に戻り、適当な服を身に纏い、飛び出す。
住宅街の中心は迷路のように複雑な道をとなっている。右に行ったのか左に行ったのか。アスファルトで固められた舗道に足跡など残っているはずもなく、ただ勘のみで走り出す。
道は直線であり、遠くまで見通すことは出来る。しかし、日の落ち始めた時間帯では限界がある上に、帰宅ラッシュとも重なっている。人が予想以上に多い。
おぼつかない足取りで走る。右に左にぶれながら、何度も転びそうになりながら、手足を動かす。
呼吸が苦しい。肺が燃える様に熱い。それでも動けたのは、知りたかったからだろう。
夕闇の奥に、先ほど見た姿があった。
「ぉ、……!」
口から出たものは声にすらなれず、ただ掠音となるだけ。喉に分厚い膜が張っているような錯覚すらある。
それでも無理に、肺を押しつぶすように空気を押し出し、声帯を震わせる。
「お……、お、母さんっ!」
ちゃんと声になっていたであろうか。届いたであろうか。
塀に手を突き、身体はくの字に折れている。深呼吸を試みるも身体が思うように動かず、浅い呼吸を繰り返すだけとなってしまう。視界はちかちかと点滅する。
すっと夜に呑まれた。
一つの影に覆われている。
おそるおそる、祈るように頭を上げると、じっとこちらを見ている母の顔があった。
「……あんた、麻耶?」
怪訝で、懐疑的な物言いだった。
無理もない。髪は膝まで伸び、ろくな手入れもしていないため枯草のようになっている。一年近く外に出ていない肌は幽霊のように白く、夕陽の中で不気味に赤く染まっている。鏡を見ることもほとんどないが、最後の記憶では頬がこけ、隈はひどかった。人に見せられるような顔ではないことは確かだろう。
それでも分かってくれたことへの喜びに、顔がわずかに朱に染まった。
「う、うん、そう!」
「ふうん」
しばしの無言。何を話そうか、何から切り出そうか。追いかけることに必死で、何も考えてはいなかった
「あの、聞きたいことが……」
「なに?」
どこか刺々しい物言いだった。急いでいるのかもしれない。
「その、卒業式の日に、どうして来なかったのかなって……」
悪夢の始まったあの日。周りが両親に手を引かれ、楽しそうに歩いている中、たった一人で帰った記憶。今にも桜の咲き出しそうな陽気だというのに、ひどく寒かった。
「仕事」
ぼそりと口にした後、雑に手櫛で髪を直す。
「そ、そうなんだ……帰ってきてくれなかったのは、なんで?」
「そんなの決まってるじゃん、支援金が安くなるから。中学からは国から貰えるお金が減るの。しかも、教科書やら部活やらで余計たくさんの金使うし」
胸に見えない刃物が突き刺さったような痛みが走った。
声を出そうとするが、乾いた息が出るだけで言葉が紡がれることはない。
「それにタイミングが良かったのよね。ちょうど一緒に住まないかって誘われてたし……もっとも、ただの屑だったからフってやったけど」
吐き捨てる。その顔は醜悪の一言に尽きる。
記憶の中にある母親の顔と合致しない。幼い頃に見た彼女の顔は、もっと優しく穏やかだったはずだ。たおやかに笑い掛けながら、頭を撫でてくれたはずだ。
「聞きたいことはそれだけ? じゃあ、私は帰るから。あんたはそっちで暮らしてね」
その言葉は恐ろしく軽い。まるで紙切れ一枚を貸し出すように、なんの未練も感じさせない。
「ま、待って! わ、私、私も……」
記憶の中にあるものとは違う。それでも母親だ。間違いなく私の中にある幸福な思い出は彼女とのものだ。祖父母が可愛がってくれないわけではない。しかし、どうしても距離を取ってしまうのは、母と共にいたいが故。共に暮らしたい人はこの人だけであるためだ。
お金がかかるのならば働こう。このご時世、どこでも人は不足している。生活費程度であればきっと―――。
その懇親の願いを、たった一言が切り捨てた。
「いらない」
非情にて無情だった。残酷なまでの鋭利さを孕んだ一言は、麻耶の胸に突き刺さる。
踵を返し、見向きもしない。
「もう世話するのも飽きたし。一回子育てをやってみたかったけど、面倒なだけだったし」
そう言い残し、小さく消えていく母の背中を凝視していた。だがその目は虚ろであり、生命の色を感じない。
脳内で反響するのは、最も恐れていた言葉だった。そして、自らが否定し続けたものは一瞬にして真となり、自らの存在を飲み込む。
気が付けば、膝をついていた。日は沈み、切れかけの街灯が細かく点滅している。人はなく、世界はほの暗い闇に包まれていた。
かたりと音がした。木の音であり、ゆっくりと近付いてくる。
振り向けば、こちらを見下ろしている同居人の顔があった。
「うわ、ひどい顔」
「……」
一言目に貶された。
「何があったか知らんけど、遠目だと幽霊にしか見えなくて怖い。帰るぞ」




