11−10 彼方にて
窓をコツンとたたく音がした。
虫が体当たりでもしているのではないかと思ったが、二度三度をその音は続いた。虫が近寄るような光を発していないはずだ。
薄気味悪さを感じながらもカーテンを開くと、窓の外に人の姿があった。
「あ、起きてた」
驚きを通り越し、絶句である。悲鳴を上げなかったのは、その人物を知っていたからだろうか。
稲峰六之介。祖父母が養子として受け入れた同い年の少年。
「……な、何? 何で窓から……」
喉から出たものは、嗄声だった。無理もない。発声したのは何週間ぶりであろうか。
「『開けるな』って書いてあったからね」
確かに扉にはそういう看板を下げてある。だからと言って、わざわざ窓から入ってくるものがいるとは思わなかった。
そもそも私の部屋にベランダはない。垂直な壁だけのはずであるというのに、どうやってこの姿勢を維持しているのであろうか。
「……」
「……」
お互いに無言が続く。動いたのは六之介だった。
「この姿勢を維持するの辛いからそっち行っていい?」
「……まあ、いいけど」
ここで断る程、鬼ではない。
六之介は震える腕で部屋に文字通り転がり込む。窓を見ると僅かな窓の桟に指先の痕が残っている。こんな僅かなものにしがみついていたというのか。
「落ちるかと思った……」
「……何の用?」
「……いや、別に。特に用件はない。ただ爺ちゃんに君と話をするように言われただけだ。何か話題はないか?」
この男は何を言っているのであろう。勝手にやってきて話題を提供しろというのか。
「……ない。帰れ」
「むう、そうか……なら仕方がない。次からは話題を提供するとしよう」
一人納得したように呟くと、六之介はまた窓から身を乗り出す。そして勢いよく壁を蹴ると二メートル近い距離を跳ぶ。
どんな身体能力をしているというのだろうか。
だが今はそんなことはどうでもよい。
「……来ないでほしいんだけど」
その呟きは、星一つない夜空に吸い込まれていった。
六之介は毎晩現れるようになった。
「今日は車酔いの話だ」
肥料、SLに続くテーマは『車酔い』であった。六之介は夜な夜な窓から現れては、選択の意味の分からない、全く繋がりのないテーマで話をする。伏線があるわけでもない。決して話が上手いわけでもない。ただ情報をたらたらと流すだけのもの。ただその情報は無駄に深く、よどみなく出てくるものだからつい口を挟めずに聞いてしまう。
「あの、さ……」
今回は先手をうつ。
「ん?」
「……前から言っているけど、興味ない」
「む、では、麻雀の」
ふるふると首を振れば、六之介も察する。
「駄目か、では何がいい? リクエストは?」
「……うん、もういいから……」
「そう言ってもな、爺ちゃんに頼まれたわけだし」
無下にするわけにはいかない。あの勝気な人物が頼み込んできたのだ。
「そもそも、なんでそんなテーマなの? 普通自身の事を話さない?」
「ああ、自分は記憶喪失なんだよ」
さらりと言ってのける。その単語を二度三度と口にし、漸く認識される。
「き、記憶喪失?」
「うん。なーんにも分かんないの」
そんな漫画みたいなことが起こりえるのだろうか。だが、嘘を言っているようではない。
「そ、そう……なんだ」
「うん、だから君と境遇は似てるとか言われてもすっきりしないんだよね、同じ『孤児』でもさ」
息が詰まる。
『孤児』。両親のいないみなしご。トラウマがフラッシュバックする。誰もいない家は、じっとりと薄暗く、抗えない肌寒さに包まれた場所。待てども待てども、両親は訪れず、食料も水もない、電気もつかない、金もない、頼れる相手も友達もいない。震えながら、飢えながら待つ地獄。
「……ち、がう……私……私は……っ」
「違わないでしょ? まあ、お互い幸運だよね、保護者が出来たわけだし、ご飯美味しいし」
へらへらと笑う。
「……どうして、そんなに笑えるの? 辛くないの?」
「んー、今が幸せならいいんじゃないの、過去なんてどうでもさ」
理解が出来ない。
「それは、きっと……」
「過去が分からないからって? それもあるだろうね。でもさ、一番大きいのは付き合い方じゃない?」
「……付き合い方?」
「うん、過去との付き合い方。自分はまともに付き合う気ないからね。過ぎたこと、忘れたことをうだうだ考えて仕方ないでしょ」
完全に対極だった。私は過去と共にある。忌まわしい記憶が背中にへばりつき、呪いを放っている。だが、それでも過去を切り離すことが出来ない。理由は分かっている。両親にとって、私が『いらない』存在だったと認めたくないのだ。僅かに残る温かな思い出が、鎖のように私と過去を縛り付けている。
「……うる、さい……」
「はいはい、黙りますよっと。さて、じゃあこの辺で失礼しますかね」
そそくさといつも通りにベランダから自分の部屋へと帰っていく。こちらの事など知ったことではないのだろう。
心を乱すだけ乱して、知らんぷりだ。
しんと静まり返った室内では、秒針の音だけが聞こえた。




