10−12 異変
松雲寮にて。
月光は曇り硝子によって散光し、柔らかく室内を照らしている。耳朶をくすぐるように鈴虫が鳴いている。心もとない光量の電灯の下で、六之介と華也は二人並んで書物と向かい合っていた。
「それで、ここの文は……」
紙面にはずらりと並んだ英語の文章。華也が趣味で買っている海外の雑誌である。最近知ったことであるが、この世界では海外との交流は全くと言っていいほど行われていないため、これらの大半が遺跡から発掘された本の写しであるという。
海外との交流がない最大の理由は、不浄の存在が大きい。沖合には地上よりもはるかに強大な不浄、それこそ鎧嘯クラスの化物がうようよと生息しているという。そのため船による交易すら行うことができないのだそうだ。
赤鉛筆を片手に単語の和訳、形容詞の働き、主語の変化を記述する。
こうやって英語を教え始めて、どのくらいになるだろうか。アルファベットの読み書きから始まり、文型と単語に入り、ついには文章に入った。なじみのある言語であるならば、触れ合う機会の多い言語であるならばともかく、この世界で英語は稀少である。だというのに確実に習得している。
才能がある、と一言で片づけてしまうのは楽であるが、あまりにもお粗末な賛美である。勿論才能はある。しかし、それだけではないのは共に生活していれば良く分かる。彼女は努力を怠らなかった。一つ一つの知識を宝物のように扱い、頭の中へ丁寧に取り込んでいたために他ならない。
「華也ちゃん?」
反応が遅いなと、隣を見れば珍しい光景が見られた。瞼を落とし、舟をこいでいる。腹も膨れ、入浴をした後、睡魔に襲われるのはおかしなことではない。ただ彼女はいつもこの時間を楽しみにしており、玩具を目にした子供のように表情を輝かせ、積極的に取り組んでいた。それゆえに、珍しかった。おそらくは初であろう。
「疲れているのかな……」
先日まで臨地実習生の面倒を見ていた。その後にも休む暇もなく、不浄討伐、街の修繕などに追われていた。若いとはいえ、限界はあろう。
このまま放っておけば、十一月の気候で風邪をひいてしまうだろう。布団は既に敷いてあるため、そちらに移そうと手を伸ばした。
「はっ!」
びくりと肩が揺れ、華也が覚醒する。
「あ、起きた?」
「あれ? ……あああ、ひょっとして寝てしまっていましたか!?」
「うん」
「す、すみません! せっかく……」
「ああ、いいよいいよ。ここの所、働きっぱなしだもんね。今日は休もう」
本来は六人以上で回す魔導官業務を三人で行っているのだ。当然、疲労は溜まる。署長も上に人員の補充を要請しているようだが、飯塚亜矢人による新体制発足から、魔導官の絶対数が足りておらず簡単には動かせないと言う。だが、それを責めるわけにはいかなかった。そもそも不足の原因は、旧体制で不足していた地方の魔導官を増員、そしてより広範囲にわたる配置したことであるが、これによって地方の魔導官の殉職率、不浄による被害者は半数以下にまでなった。これほどまでに結果を出されては、こちらからは何も言えなかった。
魔導官学校の生徒数の増員はされているため、次第に充実はしていくだろう。今は辛抱の時、というわけだ。
「うぅ、面目次第もないです……」
がっくりと肩を落とす。相変わらずの真面目さである。自分であれば、合法的に休めると内心で喜ぶであろう。
「たまにはしっかり休まないと」
「休んでいるつもりなんですけどね……」
「つもりじゃダメでしょうに。ほら布団に入った入った」
そう促すと、はあいと子供が駄々をこねるような返事。
毛布と掛布団を掛けると、華也がじっとこちらを見ていた。
「何?」
「あ、いえ……ただ、雰囲気が変わったなあと」
「そう?」
「はい。とても、穏やかになったというか……柔らかくなったと思います」
「そうかなぁ」
「そうですよ。以前はどこか他人事というか、心ここにあらずというか、当事者であっても斜めに構えていたような気がします。ですが今は、物事を正面からしっかりと受け止めているような気がするんです」
自覚はない。しかし、付き合いが長く傍らで自分を見ていた者が言うのだ。きっとそれは真実なのだろう。
「ちょっとは人間らしくなったかな?」
自虐するような言葉に、華也は真っ直ぐに向き合う。
「はい、六之介様は、もう……人間で……」
皆まで言わずに、瞼が落ちる。それでも彼女の本音は伝わった。
言葉と思いを噛み締める。
「……ありがとう」
聞こえはしないであろう。だが、それでいい。聞かれるのは照れくさい。
距離が近付けば、面と向かって言えない言葉が増えていくのだから不思議だ。この感情が、きっと人間たる証なのだろう。
「さて、と」
立ち上がる。宿直の交代時間である二十二時が迫っている。
足音を殺し、寮を出る。夜空を見上げれば、満天の星が煌めいている。異世界であっても星空は変わらないようで、オリオンが座している。ただ、この世界ではきっと名前もないのだろう。
ちょうど魔導官署と寮の間で綴歌と出会う。
「夜勤お疲れ~」
「どうも。宿直は任せますわ」
ひらひらと手を振り別れる。
御剣の街はしんと静まり返っている。そこには誰もいない。けれども人の気配があるのは、生活の匂いが染みついているせいだろうか。
魔導官署に近付くと、ぼんやりとした灯りに目が止まる。電灯の消し忘れだろうか。
階段を上がり、扉を開けば、署長席に腰を下ろす人がいた。
「署長?」
「ん、おお、六之介か。どうした?」
「それはこっちの台詞ですよ。帰ってたんですか」
「さっきな。半日くらい休憩して、また出ていく」
相変わらず忙しいようだ。執務室の適当な席に腰を下ろす。
「もっと早く帰ってきてくださいよ。臨地実習中とか大変だったんですから」
「うっせーなー、俺だってサボってたわけじゃねえっつーの」
山のように積まれた焼き鳥を食べている。こんな時間でも胸やけなどはないのだろう。
「一本ください。そうなんですか?」
「おう、一本と言わずに食え。ああ、隣の野田が行方不明だったろ? あれを八坂の病院に搬送したりな。他も……まぁ色々とな」
嫌味たらしい男とはいえ、いなくなったと聞いた時は驚いた。しかし、無事であったようだ。
「まったく、やることが多くてかなわんぜ。遊撃しかやる気なかったってのによ」
「そうなんですか?」
「ああ、署長勤めるのもまだ三年目だからな……ん、四? どうでもいいか」
「じゃあ、それまではずっと遊撃魔導官を?」
「ああ、卒業してからずっとだな。あっちこっちで不浄と戦うだけの楽な仕事だったんだがな」
それは本来激務であるのだが、どうも感覚が異なるようだった。
「どうして署長に?」
「あの阿呆……亜矢人にな、やってくれと頼まれたんだよ。断ったんだが、どうしてもとさ。あいつにも考えはあるだろうから、たまには引受けてやるかとな」
罵倒は聞こえなかったことにする。
「なるほど、そういう」
「だが後悔している。面倒臭過ぎる」
雲雀はもも肉を噛み千切りながら、大きくため息をこぼす。
決して長い付き合いではないが、執務やデスクワークには向かない印象を抱いていた。その理由が分かった気がする。
この男からは、常に闘争の臭いがするのだ。きっとそれは染み込んだ得物や土、血液に由来するのだろう。化けの皮の奥に、隠しきれない本性が見え隠れしている。
「あ、そうそう、ちょうどいい。お前、『二十四号』って知ってるか」
「ぶっ!」
唐突に放り投げられた単語にむせる。
番号付けされた名前は、来訪者のものに違いない。
「げほっ……に、二十四号? それって、たしか『此世』に」
「おう、先日捕まえた。今は魔導機関で監視している。随分と貧弱らしい」
「ま、まあ、あれは戦闘用ではないので」
「違うのか?」
「ええ、あれは『超能力を付与する』もしくは『超能力を強化する』能力を持っている奴ですよ。こっちに来たのもあいつの影響が大きいですね」
エクステンダーは二十四号ありきの装置だ。
向こうでの最後の実験は、指定された座標への瞬間移動を行うと言うものである。結果的にそれは失敗し、まさかの異世界転移をしてしまったわけである。
「ほう。ってことは、今後、此世側で超能力付与は起こりえないのか?」
「いや、それはないでしょう。超能力付与は外科的手法でも可能ですからね。ただ頭を開けることが必要になるので、生産数は落ちますかね」
此世の目的が魔導機関の壊滅であるならば、異能を有さない彼らは手段を択ばないだろう。ましてや、魔力に依存しない力など喉から手が出るほど欲しいに違いない。
「それはそうと、二十四号はお前を好いていたぞ。命の恩人だからとかなんとか」
「あー、そうですか。命の恩人……恩人ねえ」
「何か気に食わないのか?」
「いえ、ただこの世界の人間ならともかく向こうの人間の言葉って信用してないので……それに、恩人と言われても、自分は上からの命令に従っただけですし」
エクステンダーのために、捨て駒であった二十四号を回収せよ。
その命令に従っただけである。個人的な思いは何もない。
「近々お前を八坂に送るかもしれん」
情報を引き出すのなら、対等な立場の存在の方が良いだろう。もっとも二十四号が大した情報を持っているとは到底思えないけれども。




