10−10 異変
その異変は、七香村という場所で起こっていた。
それに気が付いたのは、隣にある『朝日町』に住む人々だった。その地に駐在する魔導官、稲瀬睦美信兵は十年もの歳月をこの町で過ごしていた。
役場につとめる稲瀬和雄と結婚したのは六年前。現在でも仲睦まじく、愛する二人の息子、三人の娘に囲まれ、幸せな日々を送っている。生まれ故郷は別だが、この地で骨を埋めるのは間違いないだろう。
通い慣れた八百屋で夕飯の食材を選んでいると、店主が慌ただしくこちらに駆けてくる。
「睦美ちゃん睦美ちゃん」
「どうしたの、山中さん」
もう六十近い山中ハルは噂話が大好きであり、無数の情報網を駆使しあらゆる事柄を仕入れてくる。普段であれば、子犬が産まれた、お隣さんが笑い茸を食べたなど、微笑ましいようなものだが、今日の内容は異なっていた。
「なんだかね、七香村のお客さんが最近来ないのよ」
七香村は朝日町の隣にある集落であり、香草の栽培、販売を主な商いとしている。決して生活に欠かせないというものではないが、娯楽としての需要があるのは確かである。
「ああ、確かにそうかも。行商人さん、しばらく見てないなあ」
毎日のように見かけていたのに、ここ一週間ほど目にした記憶がない。
「でしょう? だからね、もしかしたら不浄なんじゃないかって」
確かにその可能性はある。しかし、降臨現象が確認されていない。頻出期の直後故に、どこからか流れてきたのであろうか。
「うん、わかった。すぐにでも見てくるね」
確認をするだけであるならば、上からの指示を待たなくてもよいだろう。
七香村は車で二十分ほどの距離にある。決して遠くはないが、徒歩だとやや骨が折れる距離である。朝日町魔導官署に所属する運転手を車内に待たせ、七香村を一望できる高台に上がる。ひんやりと肌寒い風が吹き、紅葉が揺れる。どこかで鳥のさえずりが聞こえる。
穏やかでのどかないつもの景色だ。しかし、違和感があった。
畑だ。丁寧に植えられ育てられた秋野菜、カボチャやゴボウを始めとするものが『収穫されていない』。多少は残すということは十分にあり得る。しかし、これは完全に放置と言って良いだろう。いずれもが食べ頃、もしくはそれを過ぎている。冬を前に食料の備蓄をしないなどあり得ない。
坂道を駆け下りると、ますます違和感が際立つ。
静かすぎた。
昼過ぎ、村人たちが午後の仕事に繰り出す時間だ。だというのに動きがない。
まさか本当に不浄だろうかと一瞬冷や汗が流れるが、魔力量は正常であり、抵抗の痕も見られない。戦闘があったとは考えにくい。
この村には何度も訪れたことがあるが、これほどまでに寂寥に包まれていることは初めてだった。
周囲に注意しつつ、村長の家へと急ぐ。
「村長……村長? 入りますよ?」
玄関は施錠されていなかった。これ自体は珍しいことではない。
立て付けの悪い扉を開くと、そこに広がっていた光景は―――凄惨でも壮絶でもない。生活の色がそのまま残っている。ただ、そこに熱も色もない。氷の中にあるような静けさをたたえていた。
「村長!」
睦美よりも二回りほど小さい老齢の男性が土間で倒れ込んでいた。慌てて駆け寄り肩に手を当てれば、彼がこと切れていることが分かった。家の奥では、村長の伴侶も置物のように転がっている。生死を確認するまでもない。
幸い、夏場ではないため腐敗はない。虫も湧いていなかった。
二人を抱え、そっと布団に並べる。本来ならば警察の仕事かもしれないが、放っては置けなかった。
いったい何が起こったのか。二人とも六十を超える高齢であった。いつ寿命を迎えてもおかしくない。しかし、だからといってこんなことがあり得るのだろうか。
どちらかが先に倒れたのならば、当然、片方が介抱するだろう。だが、それが見られなかった。考えられることは三つ。殺害されたか、夫婦仲が険悪であったか、同時に亡くなったか。
殺されたという可能性だが、それはないだろう。まず外傷がない。毒という可能性もあるが、喀血や苦しんだ痕もない。
夫婦仲が険悪であった可能性。どちらかが先に亡くなり放置していたが、そのうちに自身も、というものである。これも考え難い。まず村長の夫婦仲はよそ者から見ても良好であったし、何より人が亡くなり、姿を見なくなればちょっとした話題になるほど小さな村である。
となれば考えられるのは、三つ目。同時に亡くなったというものだろう。
「……いや、ちょっと待て」
自身の思考に戸惑う。決して頭の良いわけではない。それでもおかしい。
亡くなっているのは村長とその奥方であり、七香村の中心人物だ。当然、一日姿を見せなければ家を訪ねる人はいるだろう。だというのに放置されている。何故だ。まさか村人総出での犯行だというのか。否。そうであれば死体は隠すはず。
ざわざわと胸の奥で蠢くものを感じる。
慌てて村長の家を飛び出し、隣の家に入る。やはり鍵はかかっていない。そして、広がる光景は。
「……嘘でしょう。まさかそんな……」
一軒、また一軒と同じことを繰り返す。そのたびに睦美の顔はだんだんと青ざめていく。
気が付けば、日は陰り、空が血のように赤く染まっていた。どこかで烏があざ笑うように鳴いている。
浅い呼吸を繰り返しながら、頭を抱える。
こんなことが、あり得るのか。
「みんな……死んでる……!」
七香村の総人口は八十九人。その全員が変わり果てた姿となっていた。




