10−2 異変
翌日の朝一番。第六十六魔導官署員総出で、とある現場へと向かっていた。空は雲一つないが、十一月の陽気はどこか心元なく外套を羽織っていてもやはり肌寒い。
ふわりと足元から、一際冷たい風が吹き上げる。
ここは御剣を流れる小太刀川の土手である。いわゆる生活用水として用いられていたが、先日の御剣襲撃事件の際に土手の一部が破壊され、せき止められてしまったのだ。しかもそれが一か所や二か所ではない。その為、土木業者は猫の手も借りたいという状況に陥っており、白羽の矢が立ったのが第六十六魔導官署である。
「ま、まじっすか? この寒い中、川の中に入るんですか!?」
「さむーい」
「冷え性、なんですが」
三色娘は不満をこぼしている。気持ちは分からないでもないが、こういう仕事も回ってくるということは分かっていた。
「大丈夫ですよ、このくらい。綴歌さんは、火を焚いておいてくれますか?」
「承りましてよ」
あらかじめ用意しておいた薪を綴歌は組み上げる。周囲に燃え移らないように背の高い雑草を払い、石を並べるあたり手慣れている。
「さて、じゃ、やろうかね」
「はい」
華也と六之介は靴を脱ぎ捨て、長靴に履き替える。当然だが、この世界にゴム製のものはないため、獣の皮を加工して作ったものだ。ある程度の浸水は防げるが、長時間の浸かっていればすぐに水浸しとなる。それでも二人は一切躊躇うことなく泥水中に入っていく。
「うわ、冷たいな」
「もう十一月ですからね」
「華也ちゃん、水温上げてよ。温泉くらいに」
「この水量ですよ!?」
からからと笑いながら、幼い子供がじゃれ合うように円匙を突き立てる。粘土質であるためか、かなりの重量がある。ちょっとした筋力トレーニングになりそうだ。
せき止められていた水はすぐに濁水へと変わり、足元が見えなくなる。
「転ばないように気を付けてね」
「大丈夫ですよ。小さい頃から田んぼとかよく入って……きゃあ!」
「あーあ、言わんこっちゃない。ほら、手を貸すから……あれ足抜けな……」
どぼんと大きな音を立てて、泥水に飛び込む。すね程の深度であるため、おぼれることはない。ただし、繰り返すが今は十一月。気温は十度になるかならないかであり、髪がたなびくほどの風が吹き抜けている。つまり。
「あああああああ、寒い!」
「綴歌ちゃん、火! 早く!」
二人が悲鳴を上げれば、綴歌は眉間にしわを寄せる。
「貴方たちねえ、もう少し先輩らしい威厳を……まあ、らしいといえばらしいですが」
用意していた手拭を放り投げ、ため息を一つ。そして、川べりで動かない三人を睨む。
「ところでお三方、先輩が働いてるのに見ているだけとは良い身分ですわね?」
魔導機関は縦社会である。先輩であり上司でもある人間の言葉は絶対だ。
三人は慌てて長靴に履き替えると、勢いよく川の中へと飛び込んでいった。
「では、戦闘訓練をしましょうか」
魔導官署の裏手にある空き地に皆で集まる。それぞれの魔導兵装を模した機材を手にしている。
「待ってました!」
「こういうのをやりたかったのよねえ」
「運動は、あまり……」
紅音は籠手型、翡翠は棒型、藍は小刀型の魔導兵装である。徒手空拳、棒術、魔術を用いると予想できる。
「こちらは異能は用いず、あくまで魔導のみとしましょう。六之介様はどうします? 瞬間移動の方ですけど」
「ああ、使わない使わない。魔導だけの訓練もしておきたかったしね」
戦闘能力はともかく、魔導に関しては未熟どころではない。魔導を行使できるようになって二か月と経っていないことを考慮すれば当然と言える練度ではあるが、そんなものは現場では理由にならない。一刻も早い成熟が必要だった。
「では、私と紅音さん、綴歌さんと翡翠さん、六之介様と藍さんという事にしましょう。あ、綴歌さんは間違っても異能は用いないでくださいね。即終わってしまうので」
時間停止能力は、いわずもがな、対人で最強だ。六之介が対応できたのは経験が二割、運が八割である。当然綴歌もそれは分かっているのだろう、当然とばかりに適当な返事をした。
「じゃあ、いっきまーす!」
紅音がぶんぶんと大きく手を振る。その様は歳不相応で可愛らしく、つい頬が緩みそうになる。しかし、それを寸前で堪え、表情を引き締める。これは訓練である。だが、遊びではない。後輩に経験値を蓄積させ、死なせないようにするためのものだ。任務と同等、あるいはそれ以上に大事な役目なのだ。
「いいですよ……来なさい」
柔らかな雰囲気が一変する。皮膚を刺すような緊張感に、紅音は一瞬身体が強張る。
鏡美華也という人間については知っていた。二年先輩であり、非常に優秀な成績をおさめ、性格は柔和であり世話焼き。憧れの女性として、男女問わず人気のあった人物。欠点があるとしたら、性根の優しさゆえに、対人戦闘が不得手―――と、瑠璃先生に聞いていた。というのに。
別物じゃないですか。
華也の夕焼け色をした瞳が、今では血の色に見える程の威圧感に冷や汗が流れる。
紅音は対人戦が好きだった。昔からやんちゃであったこともあるが、お互いに全力でぶつかり、上下関係を決めるというシンプルさが故である。負けず嫌いという性根、そして運動能力の高さがかみ合わさり、七十七期生の中でもトップの対人成績を収めている。自分よりも遥かに大きい相手、魔導を得手としている相手、複数人にも負けたことはない。故に、確固たる自信が紅音にはあった。
「どうしました? 来ないのなら」
右側に赤い閃光が走る。放出の魔導だった。外れると分かっていても、思わず視線を向けてしまう位置への攻撃。
「こちらから行きますよ」
声は、左から。
「っ!」
咄嗟に上げた両腕に鈍い感触。幸いにも防御は間に合ったが、その重さに驚愕する。攻撃を受けたのは手首だというに、肘にまで鈍痛と痺れが広がっている。強化の魔導を発動しているとはいえ、これほどの一撃を受けた記憶はない。
「だあああ!」
それでも臆することなく右手を握り、振りぬく。不浄に対して非効率的な殴打は決定打を与えるものではない。前衛にて、敵の注意を引きつけるためのものだ。不浄の攻撃は多種多様であり、刻一刻と変化する。それに対応するために鍛え上げた拳は、人間の反応速度の限界に迫るものだ。
しかし、その拳は空を切る。ほんの少しだけ首を傾けただけの、最小の動きで躱された。それが意味するものは。
「なっ!?」
攻撃範囲、拳の大きさ、速度、曲がり方。全てが分かっていなければ為し得ない芸当。当然、初手からやれるものではない。
「え? ああ、紅音さんの身長、体重、魔導兵装は事前から知っていましたし、構え方、目の動き、筋肉の流れを見れば十分に予想は出来ますよ」
難しいことではない。さも当然のように、あっけらかんと言ってのける。あまりの練度の差に、笑いがこぼれそうになる。
――――これが現役の魔導官か。
勝てないことは分かった。ただ、だからと言って一方的にやられることは御免だ。
絶対に、実習中に一矢報いてやるという意思を宿しながら、拳を強く握りしめた。
一戦目。
射殺さんとばかりに迫る棒をいとも簡単に弾く。続く、薙ぎ払いを防ぎ、一瞬で距離を詰め、旋棍を首元に突き付ける。
「攻め方が単調すぎますわ。上下左右だけではなく、もっと緩急をつけなさい」
二戦目。
「改善しようとする意志はよろしい。前動作が露骨ですが、及第点としましょう。ですが足元がお留守です。いかなる動きにも対応できるように、体重移動を常になさい」
三戦目。
「形成の魔導はよろしいですが、他がお粗末過ぎます。強化の魔導は基本でしょう? もっと安定して維持できるようになりなさい」
四戦目。
「ちょ、ちょっと休ませてくれませんかあ?」
整えられた髪はぐちゃぐちゃ、顔は汗だく、魔導官服は泥だらけだった。
普段からの艶めかしい雰囲気は消え失せ、飾り気のない酸素を求めるだけの荒い呼吸を繰り返す。
「つ、筑紫先輩は、異能特化って聞いたんですけどぉ……」
「ええ、そうですわよ。現に大したことはないでしょう?」
その言葉に、翡翠の眉が歪む。
これで、大したことがないというのか。
学校では負けなしということはないが、充分に優秀とされる成績を収めている。それなのに手も足もでない。
使用している魔導兵装は棒、長さは二メートル近い。一方で綴歌の用いている旋棍は三十センチあるかないかといったところだ。戦場でリーチは絶対の武器である。刀で槍に打ち勝つには三倍の力量が必要とまで言われているほどだ。
だというのに、まるで勝てる気がしない。攻撃を当てるという段階にすら至っていない。なんせ綴歌は呼吸の乱れはおろか、汗すらかいていないのだ。
一際大きく深呼吸をする。
筑紫綴歌。魔導官学校第七十五期主席。筆記試験、実技試験において頂点を取り、最速で昇進を果たしている魔導官の1人。発現している異能は時間停止能力という、史上稀に見る強力なものである。加え、基礎身体能力も高く、魔導にも長けている。つまり、一切の隙が無い―――と瑠璃先生から聞いていたが、偽りはないようだ。
紐を取り出し、髪を後ろでまとめる。
このまま負けたままというのは、性に合わない。一撃、加えて見せる。
「もう一戦、お願いします」
「おー、やってるやってる。おお……凄いねえ」
目の前のだらりとした男性は、紅音と翡翠の戦いを見ながら感嘆したような声を漏らしている。
「はあ、まあ、あの二人は戦闘向きですからね」
「へえ……おお、綴歌ちゃん鮮やか。上手いなあ、今の」
翡翠の突きを流れる様に躱す様は、見惚れる程に優雅である。ただ。
「……あの、私たちはやらないんですか?」
どうにもこの稲峰六之介という先輩からやる気のようなものが感じられない。もっとも、私自身もこういった荒事は好まないけれども。
「ん、やるの? 君、こういうこと好きじゃないでしょ?」
「……どうして、そう思うんです?」
「対人訓練するよって言った時に、一瞬視線が泳いだからね。ああ、この子は対人が苦手なんだなと」
眠たげな眼で、ぼんやりとしている印象を抱いていたが、その認識を改めなければならないようだ。
「……肯定です。すみません、どうも私は身体を動かしたり、戦うことが苦手でして……」
まぎれもない事実だった。座学は本学年で常に満点近くを収めているが、実技、つまり戦闘訓練では最下層にいる。
「強化の魔導が得意なんじゃないの?」
「はい。持続はするんですけど、出力が上がらなくて」
強化の持続時間は学年の平均でも五分ほど。しかし、藍は三十分近く維持できる。それは十分な長所であるのだが、欠点として最大出力が著しく低く、不浄との戦闘がほぼ不可能と言われる程だった。
「なるほどね。短距離が駄目で、長距離走が得意なタイプか。うーん、確かにそれは不浄と戦うのには向かないか」
「そうなんです。私としては魔導官学校で学べば改善すると思ったんですけど、てんで駄目で。なので資格取得後は、教育部か開発部に行きたいなと思っているんです」
総司令部という選択肢もあるが、興味があるのはこの二つであった。
「なるほどね。自分の実力、能力を鑑みることができる子は好きだよ。ただ、国家試験には実技があるからね。ん? 再来年だから傾向変わるか」
「はい。来年度から実技試験は試験官との戦闘になるんです」
その時点で気が重い。魔導を見せるだけであれば問題はないのだが、戦闘は苦手だ。間が悪すぎる。もう二年早ければ良かったのに。そう思わずにはいられなかった。
六之介は顎に手を当てしばし考える。
「まず、戦える方法を考えようか。対人をするよりもそれが先決だね」
「いいんですか?」
「うん。そういう相談を受けるのも先輩の仕事」
柔軟性ある人物という印象を受けた。そして案外、無気力に見えても良い人なのかもしれない。我ながら安直だと苦笑する。
「ま、先輩って言っても正式に魔導官になって二か月なんだけどね」
「……は?」
「魔導とか使い始めて一カ月半だし」
「え? え?」
「魔導兵装なんて貰ったの二週間前だったりするし」
「ちょ」
「でも、対人戦闘経験は誰よりも豊富だよ。自分がされたら嫌な戦い方を教えよう。ああ、その後で魔導訓練にも付き合ってもらうよ、自分のね」
この人に任せて大丈夫なのだろうかという不安が、藍の中に芽生えた。




