9−25 友
鏡美華也という人間についての印象を問われれば多くが、清楚、嫋やか、穏やか、心優しいといったものを挙げるだろう。それは間違いではない。実際に彼女は、他者に対し分け隔てなく常にそういった振る舞いをしている。それは決して意図したもの、欺くための物ではなく、まぎれもない彼女の素顔である。
だが、人間は決して一面のみの生き物ではない。二面、あるいはそれ以上の面を持っている。華也も例外ではない。
ただ、おそらくその一面を見た者は友人であり長い付き合いのある筑紫綴歌だけであろう。
荷台いっぱいに油を準備した綴歌が駅前に戻ると、悪臭いが流れてきた。何度嗅いでも慣れぬ生理的な嫌悪感をもたらすこれは、まぎれもなく死臭であった。それも一人や二人ではないだろう。おそらくは十人以上のもの。
同僚の姿を探すと、駅舎の一部が爆ぜる様に崩れた。飛び出してくるのは斑鬼灯とその背中に乗る華也だった。体毛を片手で掴んだまま、赤熱した槍を突き刺しては深く抉っている。刃だけでは分厚い脂肪で臓器にまで外傷を与えることは出来ない。故に彼女は、おそらくは駅舎を構成していたと思われる二メートルほどの鉄棒を得物とした。
槍といっても、その太さは人間の手首程もある。そんなものを突き刺せば不浄と言えどもただではすまない。
「―――ッ!!」
苦悶の声が響き渡る。背中にしがみつく華也を振り落とそうと躍起になっているが離れる様子はなく、それどころか不浄の動きを利用して槍を押し込む。
斑鬼灯が身体を大きく揺さぶった時、華也の顔貌が見えた。
あれは魔導官となって半年ほどの事件だっただろうか。地方の寒村で『人間の不浄』と戦ったことがある。降臨現象による不浄化ではなく、生まれ持っての高魔力による奇形という稀少な事案であり、魔導官としての倫理観が試されるような、新人魔導官が受け持つにはあまりにも重い事件だった。
その時に、彼女のあの『顔貌』を見た。
眼を見開き、犬歯を剥き出しにし、眉はつりあがる。朱色の目は残光を引き、全身は強化の魔導で燐光を帯びている。お手本のような構えからの、華麗ともいえる動きではなく、荒々しく粗雑な力任せな動きだった。
陽炎を突き刺し切り傷を負わせると、その傷が癒えぬうちに貫手突き、二の腕まで差し込み、背から飛び降りる。
しばしの沈黙の後に、斑鬼灯の背から赤い光が迸り、その勢いで吹き飛ぶ。
魔導機関車で用いられる『効子結晶』を不浄の体内に押し込み、自身の魔力を与えることで放出の魔導を発動させた。密閉された空間で行き場を失った魔力がその場で暴発を起こしたのである。
飛び降りた華也は獣のように四足で着地する。全身のバネで衝撃を殺す。
ちらりと一瞬綴歌を見ると、指さす。その先には建設中の歩道橋がある。
「承りました!」
綴歌の了承を確認し、敵を見据える。背部の脂質が吹き飛び、擂鉢状に抉れていた。
苦悶の声をこぼしながらも、敵はいまだに健在である。再生速度も著しく、やはりこの程度では決定打にはなりそうもない。
それは分かっていた。だからこそ、敵の意識を完全にこちらへ向けさせたのだ。
「――――――!」
不浄が吠えた。そして、身体を起こす。正球形に近い形状から手足が生えていた姿が変わる。ごきりと鈍い音がし、正球形から楕円形へ。短い足には関節が現れる。長かった腕はそのままであり、地面に手が届いてしまっていた。異形ではある。しかし、先ほどのものと比べれば人型に近いと言えるだろう。
ゆらりと不浄が傾いた。倒れるような不安定さで、そのまま止まることなく体重を乗せ拳を振るう。轟音と共に舗装された道路が崩れる。
二足歩行という不安定な形状は、おそらくこのためのもの。
「あえて、ですか……!」
重心を上げ、自らを不安定にすることで、初速を、そして一撃の威力を向上させている。加え、そのゆらりとした既存の生物とは異なる動くは予測が困難だった。
ちらりと綴歌を見ると、歩道橋に油瓶を並べていた。準備が完了したか否かは怪しいが、これ以上の戦闘はこちらが不利になる可能性が極めて高い。魔力には余裕があっても、体力は違う。このまま継戦するのは危険だ。
駆け出す。
距離を離しすぎないように、そして近付きすぎないように、適度な距離を保つ。
咆哮が轟き、華也の後を追いかける。
やはり四足の時よりも早い。両腕を振り回しながら障害物を払いのけ、真っ直ぐに疾走する。
「綴歌さん!」
歩道橋の上で力強く頷く。
強化の魔導をより大きく発動させると、頬を掠める風がより一層強くなり、髪が流れる。斑鬼灯との距離が開きだす。
橋を潜り抜けると、全身を襲う気怠いような違和感があった。幾度となく経験した感覚だ。
これは紛れもなく。
灼熱が背後より伝わってきた。振り返れば囂々と燃え盛る斑鬼灯の姿。
綴歌の異能により動きを止め、その間に大量の油を落とし、着火した。
「―ッ、――――――――ッ!!」
不浄は自らの炎をかき消そうともがき転げまわるが、自身の脂質が故に消えることはない。
何とも言い難い悪臭が広がっていく。
「ちょっとそこまで暴れられるのは困りますわね」
いつの間にか背後にいた綴歌が、指をぱちりと鳴らす。すると不浄の足元から無数の紐が形成され、拘束する。どう相手が動くか、想定済みであったようだ。
「さすがですね」
「ふふん、そうでしょうそうでしょう」
動くこともままならず、ただ伏せたまま黒煙が昇り続ける。残酷な光景かもしれない。しかし、こうしなくてはならないのだ。
不浄は人間にとって脅威であり、相容れぬ存在であるのだから。
およそ二十分、炎は燃え盛り続け、不浄はぴくりとも動かなくなった。絶大な生命力を持っていても、皮膚、筋肉、臓器、血液を失い生命を維持できなくなったようである。
鎮火の事を考えていたが、幸いにも五分ほど前からぽつぽつと雨が降り出している。これならば大きな火災になることもないだろう。
「それにしても、他の魔導官は何をやっているんでしょうか?」
「もう一時間以上が経つのに現れないとは……怠慢ですわね」
三十分もせずに応援が駆けつけると踏んでいたが、いつまでも経ってもそれは現れない。
情報が行っていないのか、それとも不在であるのか。もしくは何らかの事態に巻き込まれているのか。
どんという音がした。
「……何ですか、今の」
「さあ……ですが、街の中から……」
正体は分からない。しかし、直感的にそれが良いものではないと二人は感じていた。




