7-12 正義のミカタ
そして、ついに試験前日の夜を迎えた。どこかで虫達が求愛の合唱をしている。それに耳を澄ませながら、八坂の街並みを眺める。
御剣とは異なる、自然と融合した様な景観。多くの学生街が軒を連ね、構成された街並み。流行を、最新の技術をいち早く取り入れる、日ノ本の中心。これが観光であったのなら良い思い出となったであろう。心行くまで楽しめたであろう。
だが生憎、そうではない。この旧宿直施設から出たのも二度三度、それどころかこの部屋から出たことも厠以外はほぼない。完全な引きこもりだ。その上、やることは勉強、勉強、勉強。さすがに気が狂いそうだった。しかし、それも終わりだ。やっと解放されるのだ。
結論から言えば、試験範囲をすべて網羅することは出来なかった。抑えることが出来たのは八割ほど。二割は基礎のみを頭に入れただけだ。とはいえ、これは予想通りだった。そもそも五年かけて学習することを一週間でやれるはずがない。どうしても抜けは出る。大事なのは、どこを抜くか。
魔導機関から示されている習得範囲には、大別すると二つがある。一つは『知識』が問われるもの。これが試験の大半を占める。小細工は効かない。こればかりはとにかく反復し、頭に叩き込むしかなかった。もう一つが『応用』だ。つまりは計算、推測、考察が求められるもの。網羅のできていない、否、しなかった範囲はこれである。
前者は主に選択問題であるため、正か誤かの二択だ。しかし、後者は違う。満点は取り辛いが、零点ということもない。最低限の基礎知識から出題された条件を元に、正解に近付ければ合格点は取れる。必要最低限の知識でも、考察と推察が出来れば及第点以上を取ることは出来るのだ。
「ふう」
大きく息を吐き出す。
やれることはやった。後はそれを発揮するために早めに眠ること。なのだが、ほぼ徹夜に慣れてしまったためか、あるいはカフェインが残っているためか、眠りにつけずいた。どうにも落ち着かず、窓枠に肘を乗せ黄昏る。
心地よい夜風の中、気配を感じた。風に紛れて何か、上空より迫る存在を感じ取り、見上げる。藍色の夜空、雲の裂け目に清冽は星が瞬く。その中を外套をたなびかせる存在がいた。
目と目が合う、と言っていいのかは分からないが、初日に遭遇した、仮面の怪人がそこにいた。
「おっ、とととと」
重力に引かれるまま落下してきたと思いきや、怪人は窓の外で、姿勢を保つとふわりと浮遊する。小さく波打つよう浮かぶ怪人と窓越しに向かい合う。
「……飛べるのか」
「ふふん、我はなんでもできるのさ」
偉そうに腕を組む。仮面の下ではさぞ自慢げな顔をしているのだろう。
「お前、今日なんか一回り小さくないか?」
前回は自分の眼線よりやや低い位置に頭があったはずだが、今回は胸の位置にある。
「ああ、背格好で正体を悟られるわけにはいかんからな。毎回変えているのだ」
「そんなこと出来るのか」
「ふふん、我はなんでもできるのさぁ!」
さらに自慢げである。調子に乗らせるような発言に内心舌打ちをする。
「それにしても、貴殿、随分とやつれてはいないか? 顔色も悪いな」
「不快な存在と出会ったからじゃないの」
「?」
思い切り首を傾げられる。嫌味と知って無視したのか、本心なのか、それは分からない。
「んで、何しに来たんだよ、正義の御方」
「なに、一仕事終えた帰りさ。帰路で偶然見知った面があったのでな」
「また身勝手な正義を振りかざしてきたのか」
「いいんだよ、我は正義なのだから」
これが押し問答になることは分かっていた。
「貴殿はどうしてそうまでして、正義を嫌う? 一つの正義の観念が存在して、困ることでもあるのか?」
「……そうじゃないさ。ただ、何かを人に押し付けられることが嫌いなだけだ」
「ふむ、だが、貴殿が生きるのは人の世。そこで生きとし生けるものは、皆何かしらを押し付けられているだろう」
「……それは……」
法律でも、規則でも、習慣でも、文明の中で生きる上でそれらから逃れることはできない。
「それは良くて、我の正義は好まないか」
「ただの我儘だけど、そうだな。個人に押し付けられるのは、気分が良くない」
しばしの無言。だが睨み合っているというわけではない。不思議と穏やかな時間だった。自然と口が開く。
「自分は、今まで人に言われたことだけをやってきた。大した自我も持たず、善悪の区別もない。ただ言われたことを淡々と機械の様にやってきた。自覚はなかったが、押し付けられた、強いられていた。どうしても、それを思い出してしまう。だから、誰かに言われたから、命じられたからで動くのは嫌だ。そして何かに縛られることも、嫌だ。自分は、自分でありたい。何をするのか、自分で決めたい。そして、選んだことが正しいと言いたいんだ」
口にして、気恥ずかしくなる。まるで駄々をこねる子供の様な言い分だ。
怪人は、ふむと小さく呟き、顎と思われる位置に人差し指を当てる。
言い返されるか、無視されるか、嘲笑されるか、激昂されるか、いずれかが訪れると身構えていた。しかし、どれでもない。正誅仮面の行動は予想の外にあるものであった。
「よしよし」
ふいに伸びた腕に身体が反応しなかった。殺気なり敵意があるのならば話は別だったかもしれないが、その動きは緩慢で暖かかった。一切の露出のない腕が伸び、優しく頭を叩かれる。子供をあやすような穏やかな動きに、身体が硬直し、振り払うこともできない。
何が起こっているのかという混乱に瞠目し、息継ぎをする魚のように口が動く。
「な、なに……?」
「ああ、いや、なんだか貴殿がひどく哀れに見えてな。例えるならば……」
腕が離れ、怪人は小さく唸る。
「そうだな……そう、捨て犬だ」
「す、捨て犬?」
「そうだ。大した愛情も受けず、ただ悪戯に芸だけを仕込まれ、大した理由もなく捨てられた、飼い犬だ」
うむと納得したように大きく頷く。
ぞわりと肌が粟立った。怒りではない。一種の恐怖、あるいは薄気味悪さだった。そう涼風唯鈴とのやりとりであったような、心の奥底を見過ごされているような感覚。
「なんだよ、それ。誰が、なんで……」
「どうして貴殿は、常に縛られていると考えるのだ。我には理解が出来ぬ」
怪人は窓の桟に腰を掛ける。敵に背中を見せることなどあり得ない。戦う意思はない。ただ話したいだけという意思が感じられた。
「人間は自由なものだろう。どこで生きるか、誰と生きるか、何をして生きるか、どうやって生きるか、そんなものは個々で決めればいい。多少のしがらみなど案外どうとでもなる。蹴り倒すなり、避けて通るなり、飛び越えるなりすればいい。人間は、生きようと思えば生きられる。何故ならば、現世は人間によってつくられ、人間のために存在しているのだ。生きられない道理はない」
演説をするかのように両腕を大きく広げ、眼下に広がる街を掴む。
「しかし、だ。人間が生きる上で、どうしても障害となるものがある。それは、人間の観念だ。価値観は、思考は異なる。一方にとって善でも、他方にとっては悪などいくらでもある。生きる人間が多ければ多いほど、それは多様化し、複雑に絡み合っていく。これが厄介だ。これのせいで涙が流れる。苦しみが存在してしまう。我は、それが嫌だ。だからこそ、正義が必要だと考えた。それが人々の苦しみを一つでも減らせる方法だと考えた」
それ故に、自身が基準となる。『正義の御方』となって、観念となる。それが怪人の野望。
「だが我は、これを押し付ける気はない」
「は?」
何を言っている。自身が基準となって、善悪を区別する。怪人が善と判断すれば善に、悪とすれば悪になる。そんな白を黒とするようなことを強いるために、この怪人は動いているのではなかったのか。
「押し付けるだのなんだのは、そもそも貴殿が勝手に言いだしたことだろうに。そもそも貴殿は視野が狭い。我が裁くのはごくごく一部だ。目に留まった、手の届く範囲だけだ。人並み外れているとはいえ、人間だからな。限度はある。それこそ不老不死の神にでもなれれば良いのだが、生憎、そんなことはできん」
ほんの少し悔しそうに、投げ出された脚を壁に打ち付ける。決して厚くない木壁は乾いた音を立てる。
「観念というものは、意図せずに付与されるものだ。人間が産まれ、育つ過程で自然と身につくものだ。我が目指すのはそれだ。ほれ、お天道様が見てるから悪さはするな、なんてのがあるだろう。別に法律や規則としてあるわけではない。だが、それを当たり前としている人間はごまんといるだろう。我の目標はそれだよ。今は、種をまいている段階さ。我の振る舞いが、我が何を正義とみなすか、それが広まり、人々の心で芽吹き、ほんの少しでも悪への抑制力となればいいのだ。それこそ、あれだな、『悪さをすると正誅仮面がくるぞ』なんて言われたら万々歳だな!」
呵々と笑う。開き直っているという風ではない。この怪人は、本気なのだろう。本気で自身の振る舞いを、価値観を観念にまで昇華させようとしている。
そんなことは、可能なのだろうか。不可能だと思う。しかし、断定はできない。なぜならばそれを行った人間はいないのだ。誰も意図的に観念を確立させたものはいない。絶対にできないかどうか、分からない。
「とと、話がそれたな。貴殿のことであったな、すまぬ」
体重移動のみで跳ね、再度中空を浮遊する。蒸し暑い月夜の晩、外套が風に舞い踊る。
「貴殿を繋ぐ鎖はない。命じる者もいない。だというのに、どうも心の奥底で存在しない鎖に繋がれているように見える。聞こえもしない命令に抗っている様に見える。はっきり言って、滑稽だ」
未だに、縛られているというのか。こちらに来て二年以上。前の世界の事など考えることもない。思い出すことも、ない。
――――違う。
思い出さないのではない。思い出さないように『している』のではないか。嫌なものであるから、汚らわしいものであるから、蓋をしている。必死で、その蓋を抑え込んでいるだけではないのか。ずきりと頭が痛む。
「縛られるだの押し付けられるだの、そんなものは貴殿の被害妄想だ。いつまでも何を引きずっているのだ。もっと軽く構える……否、構える必要もない。自然体でいてもいいんじゃないか?」
「自然、体?」
「ああ。外だけではなく、内側……心からだ。力を抜き、思うように生きてみるといい。生きることは縛られることではない。自由に、ありのままに動けばいい。生きることは苦痛もあるが、楽しいものなのだぞ」
生きることを『楽しい』と思ったこともなかった。死ぬことが嫌だった、だから生きていた。泥を啜り、他者を踏み台にしてきた。生きるために従順を装ってきた。だが、もうそんなことは必要ないのだろうか。
「貴殿は言っていたな。自分で決めたことが正しいと言いたい、だから、他の正を強いられたくないと。そんなもの誰でもそうさ、自分が正しいと思っている。それでいい。人間はそうやって生きてきた、歩んできたのだからな。貴殿は貴殿らしく、あるがままに、心のままに生きてみよ。ああ、ただし、悪さはせんようにな。貴殿の選択が我にとっての悪ならば、誅するやもしれんぞ?」
声色は男性とも女性ともつかず、やはり気味が悪い。しかし、その話し方は諭すようで、包み込むような優しさがあった。この無機質な仮面の下では、笑みを浮かべていることが想像できる。
「さて、そろそろ我は行こう」
「ああ。そうかい」
「早寝早起きを心がけるがいい、夜更かしは悪だぞ!」
「うるさい、自分で選んで起きてるんだ。とやかく言うな」
ごうと風が凪いだ。横からではなく、地面から天空へと吹き上がる上昇気流。仮面の怪人の外套がはためく。
「また縁があれば会うこともあろう!」
大きく咳払いをし、腕を組む。
「では、さらばだ!」
同時に、怪人は風と同化する。舞い上がり、深い夜空の藍に呑まれ消える。どういった異能なのかは分からないが。これも能力の一つなのだろう。
「……さて、と」
大きなあくびが出た。どれほどの時間を怪人と過ごしていたかは分からないが、程よい眠気が押し寄せてきている。
布団に潜り込むと、ゆるゆると意識が遠のいていく。
ああ、こうやってしっかり眠るのは久しぶりだ。




