7-11 正義のミカタ
八坂に到着し、三日が過ぎていた。空は相変わらず高く、青く、どこまでも爽やかに澄み渡っている。近隣の河川では涼を求めた老若男女が屯しており、歓声や笑い声が聞こえてくる。なんとも穏やかで和やかな八坂の光景である。意図せずとも頬が緩んでしまいそうな空気の中に黒く淀んだ場所があった。響くのはかすれるような音と単調な声。否、声というより音、不自然なまでの単調さと無機質さで奏でられる振動の連なり。
「……大問二の一」
平坦で、抑揚は無い。ただその奥から疲労感、焦燥感がにじみ出ているようだった。
「ろ」
「二」
「は」
「三」
「い」
「四」
「い」
「五」
「は」
一切の間髪もない問答。阿吽の呼吸といえば聞こえはいいかもしれないが、さながら機械同士のやりとりであり気味が悪いといった印象の方が強い。
「……お見事、全問正解ですわ」
「……そう」
声帯にべっとりと泥がへばりついたように鈍重に喉元が動く。目の下には黒墨のような隈が浮かび上がり、頬もこけ、いつもならば一部の乱れも見られない紅髪は四方に撥ねている。普段なら洒落気の着物を纏う彼女だが、皺だらけでつぎはぎのある紺色の作務衣といういで立ちは何ともみすぼらしかった。
「おーい、持ってきたぞ、これだな?」
「ああ、どうも」
「なんなんだこれ。ひどい臭いだが」
「茶の成分からカフェインを抽出した簡易的な睡眠抑制薬です。そしてもう一本の黄色いのは水溶性の栄養素を可能な限り溶かしたもので、計算上これを湯飲み三杯分飲めば一日の養分を補給できます。ちなみにカフェインは利尿作用があるので仮に寝落ちしても尿意で目が覚めます一石二鳥です」
「お、おう」
一息に吐き出された呪文のような言葉の羅列に瑠璃の頬が引き攣る。
「その、稲峰六之介、だ、大丈夫か? 目が……というか、全体的にやつれてないか?」
「でしょうね。なんというか、こんな試験をつくる人間に対する怒りも覚えなくなりました。悟りを開いたと言っても過言ではないでしょう。物凄く穏やかな気分で」
「そうか……その、なんだ、頑張れ」
毎年の国試問題は全国の魔導機関教育学部教務課に属する者たち、およそ三百人の手によって作られる。一人当たり百題。指示された分野で適した内容で問題をつくり統合する。それらを教育学部の上位層の者たちが吟味し、選別する。出題範囲は大きく変わらないが、過去問と全く同じものはほとんど出ないことが魔導官国家試験の特徴である。
見るからに不味そうな液体を一気飲みしながら咳き込み、六之介は鉛筆を握り、手を動かす。その動きは拙く、風に揺れる柳のようにも見える。筆圧も随分と弱くなっているようで、紙面を這う線は蜘蛛の糸のように細い。
六之介に付き合っている為であろう、綴歌も同様である。髪を整えることもなく、化粧っ気もない。学生時代の彼女を瑠璃は知っているが、ここまでやつれた様相を見たことは初めてである。
受験生であれば、多少の艱難辛苦は乗り越えねばならぬ。本来の魔導官職はそれ以上があるのだから。と頭では分かっていても、やはり放ってはおけないのが瑠璃の性格だった。どんな事柄でも、尽力する人間に手を貸したくなってしまう。たとえそれが本人の為でなくてもだ。
「……ふむ、筑紫綴歌、ちょっと休憩がてら、教鞭を振るってこい」
「はい?」
唐突な指示に声が裏返る。
「見て、指示出して、答えを読み上げるだけってのも飽きたろう。ちょうど三限目から五年生が実技授業だ」
「ですが……」
ちらりと六之介を見る。
「あたしが代わってやろう、ってことさ。気分転換に身体を動かしてくるといい」
本当なら六之介にもそうしてやりたいのだが、生憎時間がなく、そんな余裕はない。ならばほんの少しでもその疲れを取ってやろうと考えた。
「行っといでよ。リフレッシュは大事だよ、すごく」
やつれ切った顔色からの言葉は説得力がこれでもかというほど詰まっており、思わず頷く。
「わかりましたわ。場所はどこでしょうか?」
「第三訓練場だ。ぼっこぼこにしてやってくれ」
使い物にならなくなってもしりませんわよと綴歌らしい勝気な一言を残し、彼女は部屋を後にした。
「さて、と……おい、稲峰六之介、ちょっといいか?」
「なにか?」
「なに、ご褒美……みたいなものか」
瑠璃が手を伸ばしてくる。六之介は座布団に腰掛けている状態であるというのに、立っている瑠璃と大した身長差がなく、白色に限りなく近い瞳孔と視線がぶつかる。細いが、しっかりと筋肉の付いた瑠璃の手が頬に触れ、両手で包む。
同時に彼女の身体が淡く発光する。
「……これは」
「ふふ、どうだ凄……ぐっはあっ!」
瑠璃は悲鳴と共にひっくり返り、悶絶する。
彼女とは裏腹に、六之介の顔色は目に見えて変化する。落ち窪み、やつれ切った目には精気が宿り、灰色となっていた顔色に朱がさす。自身も身体の変化を感じ取っていた。
「う、ぐぐぐぐっ、これほど疲れが溜まっていたとは……ちょっと予想外だ……」
「先生、これは……」
「『分配』の異能だ……これは文字通り、『配り分ける』力。つまりお前の疲労をあたしが受け取った形であるが……」
「そんな異能もあるんですね……」
「うむ……うぐあ、しかし、身体が重い……お前、ろくに寝てないな、これは……」
瑠璃は目元をごしごしと擦る。
予備試験まではあと二日である。もう三日前から最長でも二時間の睡眠しかとっていない。はっきり言って身体的にも精神的にも限界寸前であった。だがこれならば。
「……よし、あと少し乗り切れそうです。ありがとうございます」
「う、うむ、あたしは先生だからな。頑張っている子の味方なのさ。それに……」
綴歌が腰掛けていた椅子に瑠璃が座る。足が床に届かずぶらりと揺れる。ふうと大きく息を吐き出し、天井を仰ぎ見た後、六之介を双眼が捉える。
「……すまなかったな」
「え?」
「試験の件だ。掛坂雲雀が謝ることはまずないだろうから、代わりにあたしが謝ろう。こんな急な要件をぎりぎりまで伝えられず、すまなかった!」
ぺこりと頭を下げる。
「別にいいですよ。瑠璃先生が悪いわけじゃないですし」
彼女に非はない。むしろ感謝しているくらいだ。大量の過去問を始め、寝床に食事、その上、多少の講義までしてくれたのだ。瑠璃の立ち位置、すなわち、魔導機関教育部の部長であるということを考えれば、多忙であるのは間違いなかろう。だというのに、しっかりと面倒を見てくれた。
「だがなあ、ほら、身内の不手際のせいだから、どうもな」
「身内?」
署長と親族か何かなのであろうか。容姿は似ても似つかない。性別から身長まで見事なまでの対極だ。
「ふふ、身内と言うのも妙な表現かもしれないが、友人というのも違和感があるし同僚だと少々距離があるしで、こういう言い方をしているんだ。あたしと掛坂雲雀は魔導學園……いや、魔導官学校時代の同期でな。ついでに言うと、同じ班だったんだ」
「へえ、そうだったんですか……あれ、たしか、涼風さんも?」
剣祇祭の最中に、そんなことを五樹から聞いた気がする。
「ああ、そうだ。涼風唯鈴も同期で同班だ。そうか、剣祇祭であいつと会っていたんだったな」
「なんで知っているんですか?」
「涼風唯鈴が面白そうな玩具を見つけたと言っていたからさ。あいつが他人に興味を持つなんて珍しいから、つい色々聞いてしまったんだよ」
玩具だと思われていたのか。
一時だけ共にした姿を思い出す。人当たりの良さそうな外観や口調とは裏腹に、名状し難い不気味さを内包した人物。今までそういった女性を嫌と言うほど見てきたが、あれは明らかに別格だった。底知れぬという言葉がしっくり来る。心の奥底に、深淵へと続く闇を持つような女性。
「掛坂雲雀も涼風唯鈴も、基本的には人間嫌い……ではないのだが、ちょっとあいつらは変わり者だからな」
「署長もですか」
確かに毒づくことや罵倒を飛ばすことはあるが、涼風唯鈴から感じたような闇を感じることはなかった。
「ああ、うまく隠してるだけさ。本質的にはあの二人は同じだよ。一見するとまともで頼りになるんだが……内心で他者を見下して、小馬鹿にしているような奴らだ。なまじ実力と才気、求心力がある分たちが悪い」
求心力というのは、確かに分かる。自分が掛坂雲雀に惹かれているのは事実である。黙っていても、何気ない行動でも不思議と人を惹きつける魅力を感じる。
「ふふ、まあ、似たような学生だったあたしが言えた事ではないのだがな」
「そうなんですか?」
彼女のも他人を見下したりしていた時期がある、ということだろうか。ほんの数日の付き合いだが、まるでそんな気配は感じられない。見た目は幼女だが、世話焼きで優しく、知的な女性という印象だ。
「ああ。自慢だが、あたしは滅茶苦茶頭が良かったからな。教員を見下している節が少なからずあったのさ。今考えれば最低の生徒だな」
苦笑する。
「そうだ。七年前の過去問あるか?」
辞書並みの厚さの本が畳の上に高く積まれている。その中から瑠璃にに言われた一冊を手にし、渡す。瑠璃は目次を見ることもなく頁を捲る。
「あったあった。ほれ、これ」
開かれた頁には表が描かれていた。それは上位層の成績を示したものであるようだ。そして、その頂点に全科目満点の者が二名いる。名前が隠されているが、予想は出来る。
「これの満点二人のうち一人はあたしだ。もう一人は現魔導官総司令」
「へえ……って、三位もすごいですね。五百点満点で四百九十五点……同着二人が四位は四百八十点。六位からは四百点ですか」
かなりの開きがある。一位から四位までが優秀であったということなのだろうか。昨年の過去問集の同じ頁を開く。そこでの一位は三百九十八点である。一昨年の一位は四百二点、その前年は四百十点、その前は三百九十六点。全体を平均すれば四百点前後がその年の国家試験における最上位なのだろう。だからこそ。
「先生の年だけ異常じゃありませんかこれ」
明らかに突出している。問題を見てみるが、決して簡単と言うことはない。例年通り、あるいはそれよりも難しいくらいの問題が整然と並んでいる。昨日この年代の問題は解いた。たしか三百十点でぎりぎり合格ラインだった記憶がある。
「異常だ。この年は良くも悪くも、奇跡の世代だったのさ。一位の飯塚亜矢人は魔導機関創設史上最速で総司令に、あたしもそうだな。三位は現魔導官総司令の妹、飯塚亜矢音、魔導機関研究開発部の部長をしている。同着四位は、掛坂雲雀と涼風唯鈴だ。掛坂雲雀は遊撃魔導官として名を知らぬ者はいないし、涼風唯鈴は史上最年少で皇家直属魔導親衛隊の長になっている」
つまりは現在の魔導機関の頂点にいるのがこの年代の人物たちということか。出世の速さでも、やはり異常だ。いったい何があれば、どうすればこんなことが起こるのだろうか。
「……でも、それで『良くも悪くも』なんですか?」
「成績は良かったんだがな。性格と言うか、うん、人間性が駄目だった。飯塚亜矢人は、まともだったんだが完全にあたしたちに呑まれていたからな。あたしは自分こそが絶対だと信じていたから勉強するにしても完全に独学、授業中は別の事やっていた。飯塚亜矢音は超引っ込み思案で内気で陰気だったから、ふっと自殺でもするんじゃないかと担任は肝を冷やしたろう。掛坂雲雀と涼風唯鈴はそもそも人の話など聞かなくても、何故か何でもできたから、真面目や真剣なんてものとは完全に無縁だった」
「それは、その……」
「はっきり言っていいぞ」
「では遠慮なく。自分が担任ならぶちのめしてますね」
「あははははは! だよなあ? あたしでもそうする!」
確かにそれは良くも悪くも、だ。今になってみれば皆が重要なポジションにいるのだから『良くも』かもしれない。しかし、当時の他の学生たちからすれば最悪の環境だっただろう。
不真面目だというのに、成績だけは良いなど、面白いわけがない。
「おっと、時間がないのにすまなかったな。つまらない昔話をした」
「いえ、いい息抜きになりましたよ」
「それはよかった。さて、じゃあ、再開といこうか。分からないことがあったら聞くといい。なんでも答えてやろう!」




