7-9 正義のミカタ
「ふうー、すう……」
大きく息を吐き、吸い込む。鼻腔をくすぐるのは、土と緑の香りであった。
懐かしい、久しく感じていなかった故郷の空気に心が穏やかになるのを感じる。最後にこの地を訪れたのは、今年の正月であるから、八か月ぶりとなる。手紙でやり取りをしていたため、恋しさは感じないが、それでも家族の顔を見られることは嬉しかった。
駅から出る。自宅までは距離はあるが、故郷の風を感じたいがため、歩くことにした。手荷物も少ないため苦にはならない。
景色はそのままであった。姉と来た喫茶店も、兄と買い物をした書店も、迷子になった通りも、全てが記憶の中にあるまま。御剣で見られるような近代化はなされていない。というのには理由があった。
ここ、『早稲』は日ノ本全土における近代化の原形となった街であるのだ。着工されたのは二十と余年前であり、現在では多くの大都市で用いられている路面電車が運用されたのはここが初めて、街全域の道路舗装もここが初めてだ。早稲で試行され、利便性の認められたものが各都市に輸出されるといってもいいだろう。
この街がそういった対象となったのには理由がある。それは八坂と密接な関係にあるという事だ。かつて日ノ本全土に國があり、権力を争っていた時代、早稲と八坂は隣国として協力関係にあった。
広大な土地を有し、非常に穏やかな気候である早稲では飢饉というものとはまるで縁がない、豊穣の國であった。そのため早稲は兵糧を売ることで戦禍から民を守っていた。しかし、それは八方美人ともとられる行動であった。現に、兵糧を求める各國から攻め入られることが次第に増していった。人口は多かったが、あまりにも広大、それでいて凹凸の少ない地形はこれ以上なく攻め入りやすいことが原因でもあったという。
そんなとき、救いの手を差し伸べたのが隣國、八坂であった。当時の八坂は貧しく、他國に攻め入り勝利することで、奪い、勝ち取り、食いつなぐという、綱渡りのような方法で國を存続していた。八坂の統治者が早稲に要求したものは、民と兵の腹を膨らませること、ただそれだけであり、その見返りとして、早稲の防衛を打診した。早稲の統治者はそれを快諾、両國に同盟関係が築かれた。
それからの八坂は、水を得た魚であった。洗練された屈強な兵たちは腹が満たされたことでより強く、逞しくなった。次々に他國を打倒し、吸収、統治、発展を繰り返した。そして、時は流れ、争いは終わった。日ノ本は争いではなく、帝都の呼びかけによって統制され、都市となった。
時代の移り変わりによって、全てが変わっていった、ように見えた。しかし、一つ変わらなかったものがある。それが早稲と八坂の関係なのだった。
早稲の近代化は、そもそも近代化という目的で行われたのではなかった。八坂は、都市内で産まれた新たな技術や製品をまず早稲に流した。それを効率よく、市民が平等に使えるように都市を改造していったものが、今の早稲である。そして、それを羨んだ各都市が羨み、望んだ結果が現在日ノ本全土で行われている都市の『再開発』なのである。
また、現在でも食料品を八坂に輸出しており、八坂で食されるものの六割は早稲産であった。
駅周辺を抜けると、建物は一気に小さくなる。まるで自分が巨大化してしまったような錯覚を受ける。
平屋が増え、緑が増え、土の匂いが強くなる。すぐ先に広がるのはどこまでもなだらかな田園風景だった。背高く育った稲穂が風に揺れ、緑の海原のように波打つ。長い髪が風に舞い、空と同化するようにたなびく。
行きかう車はとうとう無くなり、時折牛車や馬車が横切る様を懐かしく思いながら、およそ一時間の道のりを歩んだ。
華也の前には巨大な長屋門がある。決して真新しいものではなく、丁寧に補修の為された跡が無数にある。門をくぐると、広がる日本庭園。この家の次男であり、兄の誠司は庭師となるべく修行をしている。おそらくは彼の手によるものであろう、やや歪な植木に微笑ましさを覚え、玄関を開く。
「ただいま帰りましたー」
大きく声を出す。靴があり、玄関に鍵もかかっていなかった。留守と言うことはないだろう。
荷物を置き、靴に手をかけた時であった。奥からバタバタという荒々しい足音がする。直角に曲がっている廊下、その壁を足蹴にし、速度を一切殺さず、華也に向かっていく人影があった。それは一定の距離まで近づくと、思い切り床を蹴り、宙を舞った。
「かああああああああああやあああああああああああああああああああ!!!」
「うぉえ!?」
そのまま華也に抱き着き、勢いあまって押し倒す。そのまま両腕と両足で彼女を締め上げる。
「おお、華也ぁ! 愛しの妹、よく帰ってきたなぁ! よ~しよしよしよし!」
まるで飼い犬にするよう彼女に頬摺りをし、猫撫で声を発する女性。顔つきは華也とよく似ているが、空色の髪は肩まで、そして橙色の瞳。紺色の作務衣姿から女性らしい華やかさは感じられない。
「ゆ、由香姉様、く……くるし……」
文筆業をしているというのに、いったいどこにこんな力があるというのか。万力の如き力で締め付けられる。
魔導官としての力を発揮すれば、払いのけることは決して難しくはなかったが、親族にそんなことはできない。
「いい加減離しなさい」
第三者が現れる。藍色の髪と涼やかな黄色の瞳をした意志の強そうな青年であった。ごつんと鈍い音と悲鳴が重なる。
「一臣兄様……」
「ぐうう、いってええ、何をする、糞兄貴!」
「実の妹を絞め殺す気か」
「実の妹をぶっといて何を言うか!」
「口で言っても分からないだろう」
青年は大きくため息をつき、眉間を押さえる。
「まったく……本当にこんなのが嫁にいけるのか……? 花村家の方々にご迷惑が……」
「うっせーなー、向こうから結婚を前提に付き合ってくださいって言ってきたんだ。迷惑も何もあるかってんだ」
ふんと鼻息を荒くする。
「……ええっと」
「む? ああ、すまない。大丈夫か、華也」
「はい、ありがとうございます」
爽やか笑みを浮かべながら差し出された手を取る。
鏡美一臣。鏡美家の長男であり、次期当主である。すらりと高い背丈に程よく付いた筋肉、柔和かつ整った顔立ち。品行方正、清廉潔白。本当に血のつながった人間なのだろうかと疑ってしまうほどの傑物。親族からの信頼は勿論の事、都市長や権力者たちからも一目置かれた存在であった。
「よく、帰ってきたな……っ」
そんな兄なのだが、実は涙もろいと言うことを家族のみが知っている。ほんの少し涙腺を刺激するような物語は勿論の事、一度試しに感動の超大作という謳い文句のされた小説を読ませたときに三日間ほど自室から出てこなかった。
「あー、兄貴泣いてるー」
「泣いてなどいない」
「あー、嘘ついたー」
「嘘などついていない」
涙もろさを頑なに認めない一臣とそれをからかう由香の兄妹漫才を見ながら笑う。相変わらず仲の良い二人であった。
「まあいい。華也、長旅ご苦労だったな。少し休むと良い。何か菓子でも持ってこよう」
「ありがとう、一臣兄様」
「あ、私もー」
「兄を顎で使うものではないぞ」
口ではそう言いながらも、一臣は朗らかな笑みを浮かべた。




