7-8 正義のミカタ
正誅仮面と睨みあう。赤と銀色の某巨大異星人と似た仮面はどこを見ているか判断が付きにくく、それ故、えにも言えぬ不気味さがあった。
「では、はじめようか」
長くはない睨み合いを、怪人が破る。
その言葉と共に一瞬で姿が消える。同時に六之介の全身の感覚がぼける。輪郭が空気に溶けていくような、自分が自分でなくなるような、認識していたものが気付かぬうちに変貌していたような、不協和音を全身が感知する。
「これは……」
経験のある感覚であった。これは、綴歌の疑似的な時間停止の感覚だ。彼女の異能は、一定の範囲に存在する生物の知覚を妨害し、時間の停止を錯覚させるもの。
考えるよりも早く、瞬間移動を発動させ、その場を離れる。と、六之介がいた場所を正誅仮面の拳が通り抜ける。膂力など微塵も感じさせぬ小柄な四肢は風切音と奏でる。
「ほう、驚いた。反応したか」
「ふん、馬鹿にするな」
まさか綴歌と同じ異能を持っているとは。これは偶然であるのだろうか。実は怪人の正体が綴歌であったということがあり得たりするのだろうか。
「……ないな」
まず身長が違う。そして、口調。あの中途半端なお嬢様喋りをしていないだけとも考えられるが、アクセントや発音の仕方が彼女のものではない。異世界の言語を習得したという経験故に、そういったものに対して敏感であった。
「うーむ、基本的にこれは不意を突けるのだがな。まあ、いいか。では『次』だ」
次がどういう意味を示すのか。いやでも思い知らされることとなる。
怪人が構え、拳を繰り出す。空手の動きに近い。しかし、六之介との距離は二十メートル近くあり、当然拳は届かない。はずだった。
「!」
胸部から広がる衝撃。思わず呼吸が止まる。赤い光はなく、放出の魔導ではない。錯覚を疑ったが、胸部より広がる痛みは紛れもない本物である。
「今のは『衝撃波』だな。では」
消える。今度は、感覚のぼけがない。つまり、時間停止ではない。声は、背後からした。
「『高速移動』だ。効子の引力と斥力を利用したものでな」
「ぐっ!?」
砂塵を纏いながら振りぬかれた脚を、かろうじてそれを防ぐ。鈍い熱が腕を襲う。十の子供にも満たないような体躯とは裏腹に、恐ろしく重たい。肉を貫通し、骨まで響く痛み。鉛でも仕込んでいるのではないかと疑いたくなる。
「おお、見事見事。では『これ』はどうだ?」
放出の魔導によって、屋根に設置されていた貯水槽が射抜かれる。蒸し暑い中、降り注ぐ水しぶきは心地よい。しかし、それは一瞬のみ。
「あっつ!?」
飛沫は蒸気となって、中空を舞い消えていく。沸き立つような高温に、六之介は思わず悲鳴を上げる。六之介の瞬間移動は空間と空間を入れ替えるものだ。そのため自身のみを安全圏へ動かすことは出来ない。どうしても高温の水を、蒸気を巻き込んでしまう。
発動した異能。これは紛れもなく、華也と同様の『温度変化』。
「うわああ、我にもかかったあ! あっつい! 逃げろ逃げろ!」
間抜けな悲鳴と共に、ぬるま湯となる。が、間髪置かずにそれは変わる。
「よおし、こっちならいいだろ」
ばたばたと走り、怪人は水の当たらない場所に避難する。
まるで緊迫感のない動きだが、それが恐ろしかった。まるで底が見えない。否、相手がどういった存在であり、何故無数の異能を有しているのか掴めない。戦闘をする上で、敵を理解する事は必要不可欠だ。呼吸、利き腕、利き足、能力、なんでもいい。一つでも多くの情報を得て、対策を練る。それが当たり前であるというのに、この怪人の事がまるで分からない。
今度は何をしてくるのか、身構えると、ぬるま湯となった滴が頬を伝わり、口腔に流れ込む。
「!」
思わず、跳ね上がる。口腔を、舌を支配するのは閾値など関係なく縦横無尽に暴れまわる限界まで高められた、暴力的な味。
「……うわ、苦! いや、辛!? 甘!?」
口に入り込んだ水の味が、舌の上で変化する。珈琲を何倍にも濃縮したような苦味、火を吐き出してしまいそうな辛味、一瞬で歯が溶けてしまうのではないかという異常な甘味。
急激な味の変化に頭が混乱する。それ以上、今起こっていることが信じられなかった。
「ん? ちょっと甘すぎか? 我はこのぐらいがいいのだが」
「ぐ……舌が、馬鹿になりそうだ……」
何度も唾を吐き出すが、ねっとりと残った甘さは消えない。唾液が蜂蜜になってしまったようだ。
「……お前、その力は……どういうことだ」
「どう、とは?」
「……異能というのは、一人一つ、極々稀に二つを持つ程度だろう。お前は……」
教科書にはそう書かれていた。そして、古今東西、異能を二つ以上持ったものは存在しなかったはずだ。
時間停止、衝撃波、高速移動、温度変化、味覚変化、あるいは成分変化。確認できただけで五つ。これは異常な数である。
「ふふん、新たな価値観となるべき存在が並大抵のはずがなかろう? そうだ、どうせならもっと面白いものをみせてやろう」
怪人が一歩、横に動く。すると、残像のように二重に見える。それは目の異常ではなく、はっきりとした像となる。二人が四人に、四人が八人へ。気が付けば倉庫内は正誅仮面で埋め尽くされていた。怪人が口を開く。
「これは『分身』の異能」
「それに『質量付与』を掛け合わせたものだ」
「すなわち、質量を持った分身」
「ふはは、怖かろう! しかも、それぞれをある程度動かすことが出来る!」
ゆらゆらと柳のように揺れ動きながら、同じ姿の人間が立ち並ぶ姿は薄気味悪い。
「やかましい。分身であろうと質量があろうと、本物は一人だろう!」
方向、声量から推測する。分身であろうと質量があろうと、人体の構造を完璧に再現しているわけではない。あくまでも分身。ならば発声の出来る存在が本体だ。
一斉に襲い掛かってくるのであればともかく、ほとんど立っているだけの存在ならば脅威とはならない。恐れず、それでいて迅速に目を動かし、観察する。
「見つけた!」
襟巻で喉元は隠れており、声帯の動きは見えない。しかし、人並み外れた聴覚が伝えてくる。声はあきらかにそこから出ていた。怪人の群れを瞬間移動で飛び越え、群れの外れにいる本物に大きく拳を振りかぶる。
「……ああ、一つ言い忘れていた。実は異能はもう一つ発動させていてな」
「!?」
拳は虚しく宙を切り、分身は幻のように消え去る。そして、登場したときのように梁の上に正誅仮面が一人残る。その腕には抱えられた逸見透の姿があった。意識を失っているのか、抵抗する様子はない。
「『音源操作』という異能だ。あっさりと掛かったな。まだまだ甘い」
「……っ」
そうであった。この怪人の狙いはあくまで、下着泥棒。自分ではない。狙うのならば、あの男であったと舌打ちをする。目の前の怪人の能力に翻弄され、その目的を思考の外に追いやってしまっていた。
完全な失態だ。
「ふふ、精進せよ、若人よ。さらだば!」
言い間違いを残して消えた。かに、見えたがすぐに戻ってくる。
「……さらばだ!」
照れたように仮面の頬を掻き、修正する。
今度こそ本当に消える。廃倉庫内では水滴の滴る音だけがする。
結果だけ見れば一方的にやられているのだが、それに対する不快感はない。むしろ、多少とはいえ動いたことで、溜まっていたものを吐き出せたような気までする。とはいえ、なんとも言い難い徒労感があるのは事実である。
ぴちゃんと音がした。舌に残っていた甘味はもうないが、錯覚を起こした脳が塩分を欲しがっている。
「かえろ……」
大きなため息と共に、その場から消えた。
「――――その、大変言いにくいのですが」
屋台に戻った六之介は、卓上に置かれた蕎麦椀を見ながら固まる。びよびよと伸び、ぶくぶくと膨れ上がり、綿のようになった衣の浮かんだ蕎麦だったものがある。汁はもう見えず、ほとんどが吸われてしまっている。再度注文しようにも、海老がもうないという。
無言で椅子を引き、腰を落とし、箸を手に取る。
「綴歌ちゃん」
「は、はい」
肩を落とし、三倍近くなった蕎麦をぐちゃりと噛み締める。どこからとは言わないが、塩分を摂取しながら、それがすぐさま流れ出ている。
「自分、この街嫌い」
ろくな思い出が、出来そうにない。




