7-6 正義のミカタ
他愛のない話を綴歌と交わしている時であった。
「……ん?」
何か声がした。甲高い、刺すような声。学生たちの喧騒に呑み込まれ、明瞭には捉えられない。
「どうかしまして?」
「いや、なんか、悲鳴みたいな……」
暖簾の下から上体の反らし、通りを覗き見る。男同士、女同士、男女混合で徒党を組みながら行きかう若者たち。その間から、一人、二十歳そこらであろう濃い眉毛が特徴的な青年が勢いよく飛び出してくる。声の主かと思ったが、違う。先ほどのものは明らかに女性であったはずだ。
青年は山城の前に差し掛かるのと、六之介が身を乗り出すのは、全く同じタイミングであった。
「ぐふうっ」
青年の腕が六之介の胸元に直撃する。短い苦悶の声と共に、六之介の身体が不自然にねじれる。
遅れて、桜色のショートカットの女性が現れる。学生の証である色刺繍のない魔導官服を身に纏い、汗を流している。小柄な体躯としなやかな四肢のためか、猫科の動物を思わせる。
「待てえええ、下着泥棒!」
地獄の底から響くような声、鬼気迫る表情である。髪を振り乱し、身体をぼんやりと青く発光させている。女性が走り抜けると同時に、たなびく魔導官服、さらに言えば、その金属製の釦が六之介の額に直撃する。べちりという何とも痛々しい音と共に、六之介は突っ伏す。
「っ! っっ!」
声にならない悲鳴。額を押さえながら、もがく。
「り、六之介さん! ち、治療しますわ!」
慌てて回復の魔導を発動する。六之介の額は出血こそはしていなかったが、痛々しく腫れ上がり、内出血を起こしている。
致命傷ではないため、十数秒で腫れは治まった。傷跡が残るという事もない。とはいえ、頭部である。その痛みは尋常ではなかっただろう。
治療は一分としないうちに終わる。展開の魔導は苦手ではないが、他人を癒すのは随分と久しいため、柄にもなく力が入ってしまった。
「これで大丈夫でしょう……六之……」
治療を受けた六之介は、幽鬼さながらに立ち上がる。屋台からの逆光でその顔は見えない。しかし、陽炎のように空気が歪んでいる。
「六之介さん……?」
尋常ではない様子に、綴歌の顔が引き攣る。まるで負の感情に支配されたかのような様相だ。
「……ろす」
「へ」
「……ころす」
ぼそりと、しかし、確かな感情がこもっている。
「ちょ、ちょっと待った、六之介さっ!」
その場から消え失せる。
「……本気ですの、あの人……」
普通の魔導官や民間人なら何も気にはしない。口だけで済むのは容易に想像できる。が、生憎、今この場にいたのは稲峰六之介である。本気、あるいは正気を失えば殺人を犯すことは十分に考えられる。恐ろしいまでの不安定さと狂気、否、兵器としての本能を有しているのだ。
殺人などに手を染めれば、魔導官になることは出来ない。
「…………だ、大丈夫、です、わよね? うん」
今から追いかけようにも、綴歌はどちらに行ったかなど分かろうはずもない。そもそも瞬間移動をされたら、追跡など不可能だ。今は、六之介の良心を信じよう、そう麦茶を一口含んだ。
「はい、お待たせ……ってあれ、六之介くんは?」
「あー、野暮用です、すぐに戻ってくるとは思いますけれど」
「そう? 伸びちゃわないといいんだけど」
ことりと木製の蕎麦椀が置かれた。
八坂の学生街を疾走する影がある。
「はっはっ、はっ……しまった、まさか見つかるとは……!」
逸見透は汗をぬぐいながら、建物の角で呼吸を整える。商店街から三本ほど離れた通りにある廃倉庫は、薄気味悪く、夏であるというのにどこか肌寒い。
先日、同じ班の人々と賭け将棋を行った。初めの内は鉛筆や筆、手帳であったが、熱が上がるにつれて財物はより高価により貴重なものへとなっていった。酒が入っていたせいもあるのだろうが、最終的には金銭を駆けての勝負となった。序盤はこちらが押していたが、ほんの少しの油断を突かれ、形勢は一変。どうにか攻勢に転じようと策を練ったが、時すでに遅し。今日一番の大勝負で、逸見透はあえなく散った。その代償は、あまりにも大きかった。
その場の勢いで賭けた金額は、今月の借部屋代だったのだ。日雇いの仕事で稼ごうかと思ったが、都合のいいものは見つからない。どこもかしこも夏季休業のためか、学生で手が足りていた。友人に借りようにも、多くが帰省してしまっている。私財を売りさばこうにも、雀の涙にしかならない。その上、家賃の支払いは明日までと来た。このままでは住処を失ってしまう。この炎天下の中、野外で過ごすことだけは避けたい。
そこで、ひらめいた。
魔導官学校の男性間では、ある順位付けをしていた。それは、同学年の異性に対するものであった。顔の良さ、性格の良さ、成績、家柄、身体付きなどを――どこから集めたか定かではないが――まとめて、点数化したものである。つまるところ、この順位が高い女子ほど、男子にとって理想的かつ人気があり、想望の対象なのである。
では、その上位の女子の手持ちの品を何らかの手段で入手し、売りさばけば金になるのではないか。そんな下種な手段を思いついたのである。当然、犯罪である。見つかれば学校から追い出される可能性もある。それを理解しつつも、追い詰められた人間の行動力は凄まじかった。
魔導官学校四年生女子順位付け、第三位、須崎萌香。桃色の髪と茶色の猫目が特徴的で、人懐こく、溌剌としている。男女ともにわけ隔てなく接し、友人も多い。成績に難があるが、その性格が故か、仇にならず、むしろ愛嬌となっている。
寮は男女別であるが、どこにあるかは把握していた。それとなく女子に聞けばどのあたりに住んでいるのかは分かった。あとはやることは簡単であった。基本的に学校の授業は行動であるが、木曜日、すなわち、今日の最後の授業である体育だけは違う。男子は長距離走、女子は水泳だ。長距離走の際、隙を見て抜け出し、寮に侵入、須崎萌香の衣類を盗み、売りさばく。雑な作戦ではあったが、今は時間がない。無茶でもそれをするしかなかった。
作戦は順調だった。少なくとも須崎萌香の下着を入手し、寮を出るまでは。
不運であったのは、その日、いつもは長引く水泳の授業は早く終わったこと、そして、空腹のためいち早く帰路についていた彼女と遭遇してしまったことだ。
おかげで、学校敷地内を必死で駆け回るはめになった。なんとか逃げおおせたものの、下着泥棒の存在は広く伝達されただろう。
今考えてみれば、友人の家にしばらく厄介になればよかったのではないか。しかし、それは後の祭りであり、事態は覆らない。
汗をぬぐい、顔を擦り、変装用のつけ眉と鬘を取る。証拠隠滅のため、これらは燃やさなければならない。地面に投げ捨て、燐寸に火をつける。汗が染み込んでいるためか、なかなか火が付かない。一本、二本と擦ると燐の臭いが強くなる。
「くそ……」
三本目に手をかけた時であった。ざっと靴の擦れる音がした。勢いよく振り返ると、そこには一人、白刺繍の入った魔導官を纏う男がいた。夕闇の中、その表情は伺えない。しかし、何か尋常ではない雰囲気を醸し出し、冷たい汗が頬を伝う。
「…………おまえだな」
「え?」
ゆらりと一歩歩む。
「自分に、ぶつかった、下着泥棒とやらは、お前だな」
ここまで来るのに、何にぶつかったかなど覚えてはいなかった。逃げること、隠れることだけしか頭になかった。しかし、ふと冷静になると、右手に何か違和感があった。鈍痛とでもいえばいいのだろうか。何かを殴ってしまった後のような、鈍く重い感触。
「い、いや、知らない。知らないぞ!」
とはいえ、この人物がそれに対して怒りを覚えているのなら、白状は出来ない。今は何としてでも盗品を売りさばかなくてはならないのだ。
もう一歩近付くと、その表情が見えた。無である。怒りも憎しみもない。しかし、眼だけが異様にぎらつき、じっくりと嘗め回すように逸見透を見ていた。
「おまえ、嘘を、ついたな……?」
「な、何を根拠に?」
「視線が泳いだ声が上ずった心拍が早まった呼吸が乱れた」
呪詛のような物言いに、思わず後ずさる。現役の魔導官というだけで確実に格上の相手、それが全力で怒りをぶつけてくる。その恐怖は並大抵ではなかった。実戦でなければ味わえないような死の恐怖。それに直面した逸見透の行動は、早かった。
「すみませんでしたああああああ!!」
ひざを折り、地面に額を擦りつける。自尊心の欠片もない動きに、六之介の手が止まる。
「逃げるのに必死で! ぶつかるつもりはなかったんです!」
「…………」
「どうしても! どうしても、金が必要で!」
途中からは最早泣き声に変わっていた。鼻水を啜りながら、叫ぶ姿に六之介は小さくため息をつく。空気が一気に軽くなる。
「……そう」
「すみません、ずびばぜん……!」
しばしの無音。屋台通りの喧騒が遠く聞こえ、どこか近くで虫が鳴いている。感覚は鋭敏となっており、一秒が異様に長く感じられる。
ぼそりとした声がした。
「もう、いいよ。なんか、疲れた」
呆れかえった、もしくは、徒労か。重みのある物言いだった。だが、それに逸見透は顔を勢いよく上げ、輝かせる。
「……はあ、下着泥棒でも人殺しでも何でもいいけど、自分に不快な思いをさせるな。ただでさえストレスがたまっているんだ。いつ爆発してもおかしくはないんだぞ」
「はい、申し訳ありませんでした! 以後気を付けます。魔導官様には指一本触れません!」
「調子のいい性格をしていそうだな、お前……まあ、どうでもいいや。目障りだから、消えて」
六之介は踵を返した。遅れて、逸見透が立ち上がった。
ここで正義の味方でもあれば、下着を返すように言うところだが、生憎六之介はそんなものではない。害がないのなら、犯罪でもなんでも勝手にやればいいという思考の人物だ。
その時、倉庫内に第三者の声が響いた。
「ふははははははははははは! そうはいかんぞぅ!」
声の方向へ視線を向ける。
廃倉庫の梁の上、月光を浴びながらそれは立っていた。銀色の御面にはどこか笑っているような口元、複眼を思わせる大きな淡黄色の双眼が造形され、鮮やかな赤い襟巻がたなびいている。白地の忍者服のようなゆとりのある上衣、下衣には複雑な赤い模様が入っている。変声機でも用いているのか、老若男女をごちゃまぜにしたような声色はひどく不気味で、性別や年齢は推測できない。背丈は小柄であるようだ。露出はないが、筋肉質というわけではなさそうだった。
そんな怪人、奇人、変人の類が腕組をしながらこちらを見下ろしている。
「な、あ、あれは……!」
逸見透が後ずさり、壁にもたれかかる。
アレがなんなのか、知っているようだった。
「ねえ、何なの、あ」
皆までは言わさない。怪人は声高らかに前口上を発した。




