7-5 正義のミカタ
魔導官予備試験というのは、必要な手続きさえすれば誰でも受けることのできる試験である。年齢も性別も職種も関係がない。また、毎年三月に行われる本試験とは違い、魔導による実技試験が存在しないというものも大きな特徴だ。この試験は本試験を受けられない者たち、すなわち、先天的に魔導を使えない、あるいは身体的な障害を持っている者たちのみ限定として設けられたものであったが、それが長い年月をかけ変化をした。
本試験より半年も早い理由として、魔導を用いる実技試験を執り行わないという事が大きい。本来、人間と言うのは外部からの情報を内部へ取り入れる手段が五つあるが、内部から外部へ伝えるものは一つ、筋肉のみである。魔導とは筋肉の別の、外部への伝達手段といえる。魔導は訓練を受けていなくてもある程度は使えるが、それは混濁したものなのである。赤、緑、青、これらを完璧に分別し、制御出来なければ、魔導官にはなれない。そして、これを習得するというのは、膨大な時間を要する。試験の期日が早いというのは、その魔導を行わなくてもいいというための措置である。
またこれだけではなく、本試験と予備試験の出題範囲は同じであるが、その深度が異なる。本試験でなら一を覚えればいいことを、予備試験では三あるいは四まで尋ねてくる。これも実技試験がない分であった。
「……だからって、ふざけんなって思うよね」
「全面的に同意しますわ」
二階に設けられた松雲寮よりも一回り広い和室で、煎餅座布団に腰を下ろし、鉛筆を握る六之介。そしてその傍らで、出題範囲の選別を行う綴歌がいる。
出入り口から見て、左一面は本棚になっており、歴代の教科書がきれいに並んでいる。埃もなく、定期的に掃除がなされているようだ。畳はやや傷んでいるが、ささくれているわけでもなく、生活する分には問題ない。押し入れにしまわれていた布団には、今頃、物干し竿の上で刺すような日光を浴びているころだろう。
直射ではない、穏やかな日差しにそよりと爽やかな風が吹き込む。このままごろりと横になってしまえればどれだけいいか。鉛筆を起用にくるりと回し、肩を落とす。
卓上に置かれた教科書には隙間なくびっしりと文字が並んでおり、見るだけで気が滅入ってしまいそうになる。
「綴歌ちゃん、これ終わるかな」
「……それは不合格で散るという意味の『終わる』?」
「いや、そうじゃなくて」
さらりとえげつないことを言う。とはいえ、この文字通り山のようになっている教科書を見れば、そう思うのも致し方ない。
「そうですわね……私自身が貴方の立場でしたら、諦めますわね」
「あ、やっぱり?」
「匙を投げるというわけではなくってよ? 単純に考えてあと一週間、百六十八時間で、睡眠時間、食事時間などを限界まで差し引いて百三十時間前後。そして、残っている教科書は三十冊。平均して百五十頁のものを四時間と少しで終えること、その上、合格にはその中身をほぼ全て記憶することが求められます。可能だと?」
彼女の論理的な思考は好きである。百五十頁の教科書を四時間、つまりは一頁をおよそ百秒、見開きで二百秒以内に終わらせなければならない。図面が多いなら良いが、中には隙間なくびっしりと文字だけが書かれているものある。速読が出来ればいいが、生憎、不可能だ。
「……無理だよねえ」
「ええ、無理ですわ」
せめて二週間あればまだ勝機は見えたのだが、如何せん、これは辛い。
「ま、でもだからって諦めるわけではないのでしょう?」
「まあね。さすがに職を失いたくないし」
「私も貴方にいなくなられたら寝覚めが悪いですしね。やれることはやりますわ」
そう言いながら、教科書の一頁を丁寧に読み進めながら、赤鉛筆で波線を引いていく。彼女の出題範囲の予想はかなり的確であるらしく、先ほどまでこの部屋にいた瑠璃も舌を巻いていた。優秀な生徒であったとは聞いていたが、本当だったようだ。
「お昼はどうします? 何か買ってきましょうか?」
「いや、昼はいらない。朝と晩だけ、あとは間食にしよう」
昼食を食べている時間すら惜しい。
「分かりましたわ。では夕食まで、あと七時間、お互い頑張りましょう」
「ありがとう、助かるよ」
静寂の中、鉛筆の擦れる音だけが小さく聞こえていた。
だが、それも長時間は続かない。滞りなく動いていた手が次第に緩慢となり、遂には止まる。
リンと風鈴の音が涼やかに響く。それを打ち消すような叫びが木霊した。
「何が、不浄形態学じゃこんちくしょおおー!」
「分かります、分かりますわ!」
不浄形態学とは、文字通り、今日に至るまで発見され捕獲、あるいは駆除された不浄の身体的特徴、性状、および元となった生物の部位に関する学問である。
「生物学と生理学と機能形態学が入り混じっていることに加え、具体的な答えがなく、あくまで論理的な予想をさせる教科とかふざけてるだろう!? しかもこれが記述問題で出題されるだと?」
不浄と言うのは、既存の生物とは全く異なる形態をとっている。
生物と言うのは生存するという上で極めて合理的な形を為している。環境、食性に適応し、時に、外敵から逃れるために対極ともいえる場所に適応し、進化していった結果である。それらが複雑に入り混じったものが生態系であり、世界が構成される。
不浄はそれから完全に外れた存在である。例えば、鵺だ。狸の胴体に、虎の手足、蛇の尾、猿の頭。仮にこんな生物が進化の果てに誕生したとする。では、この鵺の元となったものは何か考える。多くは『狸』あるいは『虎』と答えるだろう。常識的に考えれば、そうなるのは然りだ。しかし、答えは違う。
あの鵺は、『蛇』の不浄だったのだ。狸の胴体も、虎の手足も、猿の頭も全ては蛇の身体から生じた部位。擬態と取れなくもないが、自らの意思を持つように動く四肢と胴体は、あまりにも異質すぎる。蛇足ともいえる部位だった。
不浄形態学とは、その発生を推測する学問である。この科目の厄介なところは、既存の常識が当てはまらないところである。六之介の叫び通り、必要なことは予想、あるいは前例から推測する知識である。
「綴歌ちゃん、あんなのどうやって解いたの?」
「ヤマを張ったら当たりましたわ。狼の不浄に関して、過去の魔導官による報告書の内容を覚えてそれっぽいことを書きましたの」
「うっわ、まるで参考にならない……」
はあと深いため息をつき、くしゃりと頭を掻く。
二人がいるのは学生商店街の屋台通りだ。一日の終わりであるこの時間帯には、数多もの屋台が立ち並び、食欲をそそる香りが立ち込める。
影が長く伸び始め、随分と薄暗くなっている。それに合わせるように、学び舎から解放された学生たちが心地よい喧騒を生み出しながら現れ始めていた。本来は夏休みの時期だが、四、五年生は該当しないそうである。また、一部の学生は帰省もせずに八坂で過ごすこともあるという。
「ここですわ」
脚が止まる。濃緑色の暖簾をかけ、四人座るのがやっとであろう程に小さな屋台だ。『蕎麦処、山城』とある。こういう店主との距離が極端に近くなりそうな店に入ることは抵抗があったが、綴歌はなんてことはないと、暖簾をくぐる。
「あら、いらっしゃ……綴歌ちゃん!」
四十代半ばほどで、鼠色の髪をし、割烹着と三角巾を身に着けている小太りな女性がいた。深い皺の奥にある双眼は、人の好さが滲み出ているように穏やかである。
「お久しぶりです、女将さん」
「あらもう、本当に久しぶりねえ。あ、座って座って。何? いつ帰ってきたの?」
恵比須顔で、頬は上気している。本当に嬉しくてたまらないといった様子である。綴歌は軽く頬を掻く。
「あー、ちょっと所用でして。一週間程、八坂で過ごしますの」
「あらー、そうなの! で、隣の男の子は、コレ?」
女将さんが小指を立てる。一昔前の仕草である。
「あいにく。その手の人間ではありませんわ。ただの同僚です」
「なあんだ、つまらない……綴歌ちゃんはいい子なんだから、ちゃんとした人を見つけなきゃ駄目よ? うちの旦那みたいなのは駄目だからね?」
「もう、女将さん、うるさいですわ! そういうのはまだいいんですの、今は仕事が楽しいんです! それと、お品書きくださいな!」
まるで母子のような二人を見て微笑ましくなる。なるほど、行きつけの店であったというのは事実であり、この二人の間には確固たる絆があるように見える。
「ふふふ、はいはい。どうぞ、ええと」
「あ、稲峰六之介です。どうも、うちの綴歌ちゃんがお世話になってます」
「ちょっと! うちのってなんですの! お世話って!」
噛み付く彼女に女将さんは豪快に口を開けて笑う。綴歌はむすりとしながら、品書きを返却する。
「あら、みないの?」
「私は、狐蕎麦と決めてますもの」
店長、いつもの、というやつであろうか。
「うーん、自分は……女将さん、何かおすすめはあります?」
「そうだねえ、ああ、今日は良い海老が入ったからね。天麩羅蕎麦なんかはお勧めだよ」
「じゃあ、自分はそれで」
「あいよ。少々お待ちを」
この世界の飲食店に言えることだが、食品は注文を受けてからつくるという事が主である。冷凍食品やインスタント食品などいうものはない。そのため、待ち時間がどうしても長くなる。
「前々から思っていたんですけれど、貴方、食べることが好きですわよね、意外と」
「ああ、そうだね、好きだよ。美味しいものを食べることが嫌いな人はいないでしょ?」
「それはそうですわね」
確か綴歌の趣味は食べ歩きであった。通じるものはあるのだろう。
「それに、前の世界ではろくなもの食べてなかったからね」
「と言いますと」
「粥ってあるじゃない? あれを米粒が見えなくなるまで砕いて、粘度上げて、薬剤いれまくったやつとか食べてた」
栄養素はこちらの比ではなかった。親指程の大きさで、一日分のエネルギーは賄えるほど効率的な食糧であり、戦場では最適だろう。ただ、食感は粘土、臭いは薬、味はゴムと最悪であった。せめてもの救いは、とんでもないほど腹持ちが良かったことだ。あれを朝昼晩と食べていたら、確実に病んでしまう。翆嶺村で滋養の為と差し出された、鹿肉を食べた時は驚いたものである。
「うへえ……不味そうですわね……」
「『そう』じゃないよ。不味いんだよ、本当に。人間の食べるものじゃないね、あれは」
食料と言うものをアレしか知らなかったというのだから、どれほど雑な扱いをされてきたのか考えたくもない。ただ、自分は能力値が高かったため、まともな方であったという。最下層にいた超能力者は、文字通り残飯、あるいは栄養剤の点滴だったと聞いたことがある。
「嫌な記憶だね。忘れよーっと」
「ふふ、そうですわね、それがよろしいかと」




