対峙の時
真っ暗な階段では自分のしゃくりあげる音とハエが耳元を飛ぶ音しか聞こえない。
梓は踊り場まで上り、二階の廊下が見えるとほんの少し希望を取り戻した。月明かりで階段よりも廊下はほんの少し明るい。その分だけ。
おかげで階段を駆け上る位は出来た。踊り場から一気に二階へと駆け上がる。何処からか低い、うなり声の様なものが聞こえてくる。もう梓は止まれない。ここで止まれば恐怖で動けなくなってしまう。
駆け上った勢いで壁にぶつかりながらも二階の廊下へ躍り出た。二階も他の階と同様L字になっている。尚も壁にぶつかりながら進む梓には、曲がりきる事が出来無かった。
転んだ梓は後ろを振り返る。階段からは何も来ていない。だが、あの低い唸り声はまだ聞こえる。
音はまだ遠い。音の大きさからそう思った。だがそれは違った。梓の耳元を唸り声が掠めていった。
唸り声の正体はハエの羽音だった。気が付けば梓の周りには十匹以上、下手をすれば二十匹近く飛び回っている。
「イヤーーーッ!」
梓は鞄とフルートの入った楽器ケースを振り回す。ビチビチと不快な音をたてて、数匹のハエが鞄に当たった。
それでもハエは梓から離れようとしない。逆にその数は増え、梓の頭の上で黒い雲の様になって旋回している。
梓は渡り廊下へと続く階段の方へと走り出す。しかしハエ達も執拗に追ってくる。梓は走りながらもう一度鞄で黒い雲をなぎ払った。
考えなしに振り回した鞄は梓のバランスを奪い、もう一度転ばせた。
倒れている梓の腕に数匹のハエが止まる。
「痛いっ!」
慌てて梓はハエを追い払う。腕をさすって梓は驚いた。
『冷たい!』
ハエが止まった所は明らかに他の部分より冷たくなっていた。頭によぎったのは科学の実験で使ったドライアイスだった。
『良いかー。ドライアイスは素手で触るなよー。冷たいどころか痛いからな』騒ぐクラスメイトに先生はそう説明していた。
『何なの? こんなの普通じゃない』
倒れている梓に黒い雲は近付いてくる。梓は急いで立ち上がり走った。
『何で、何でなの?』
梓は勢い良く階段に駆け込む。その勢いで手すりにぶつかり、危うく落ちそうになった。
ハエ達は梓を突き落とそうとするかの様に、後頭部へぶつかりながら飛び抜けていく。梓は目をつむり、歯を食い縛り、必死に手すりへしがみついた。
ハエ達が通り過ぎると、梓はゆっくり目を開く。その瞳に映ったのはアレだった。
一階と踊り場の真ん中当たり。最初に見た時は遠くて良く見えなかったが、今ならはっきり見える。
何故互いにぶつからないのか分からない位にハエ達が密集して飛び回り、梓を見る黄色い目は他のハエより何倍も大きい黄色いハエだった。
大きなハエは飛び回らず、空中で静止し、手すり越しに梓を見詰めていた。
「何なのよ……。何で私がこんな目に逢わなきゃいけないのよ! 私が何をしたって言うの?」
梓の問いかけに答える訳もなく、アレは階段を上ってくる。律儀に踊り場を通って。
「もう……いや」
梓の頭に走馬灯がよぎる。
今まで一緒に練習してきた吹奏楽部の先輩達や友人。生意気で口の減らない弟。無口だけどいつも自分の事を気にかけてくれる父親。そして口煩いけど優しい、大好きな母親。
『みんなに、もう一度会いたい』
アレは踊り場から梓に近付いてくる。梓の心はもう逃げられないと思っていた。だが気が付けば階段を駆け上っていた。
梓は何も考えられなかった。そんな時は自分が通り慣れた道を進むものなのかもしれない。梓が辿り着いたのは音楽室だった。
重い扉を開け、引き戸を開ける。教壇の前まで来ると入口へと振り返る。
今回は電気を点けて来なかったので音楽室は真っ暗だ。それでも今のところは何の気配もしない。
肺は空気を求め喘ぎ、心臓は今にも爆発しそうだ。
『初めてここに来たのはいつだったろう』
三ヶ月前、友人に誘われて吹奏楽部に入部した。梓に音楽経験は無かった。興味も無かった。でも梓は断らなかった。何か新しい事を始めてみたかったのだ。
先輩達は温かく迎えてくれたし、優しく教えてくれた。
梓はフルートをケースから取り出した。
小さなフルートは他の楽器よりも控えめな自分に合っている様に思えた。勿論、見た目も気に入っていた。
ガチャっと防音扉が開く音がする。
『もう、逃げられない……』
梓はフルートを見て思った。
すっと視線を上げ、梓はアレを見詰める。
『もう、逃げない!』
アレはゆっくりと近付いてくる。梓は動かず、じっと黄色い目から視線をそらさなかった。
アレの体が広がり、黒い雲が梓を取り囲んでも決して目を背けなかった。
『私にはあなたに勝つ力なんかない。でも、もう怖がってやんない!』
梓の肺はいつも通りゆっくりと空気を取り込み、心臓もゆっくりと血液を循環させる。アレの唸り声さえもう気にならない。
梓はゆっくりとフルートを口に当てた。
入部して以来ずっと練習してきた曲。先輩達に認めて貰おうと頑張ってきた曲。そして家族のみんなに聞いて欲しい曲。
梓の頭にはフルートを吹く事だけ。今出来る全てをそこに込める事。それだけに集中する。
梓が演奏を終えて目を開けると、そこはいつもの音楽室だった。
楽しい思い出と、輝かしい希望に溢れた音楽室。みんなの笑顔が今にも見えそうだった。
暫く立ち尽くしていたが、やがて梓はフルートを仕舞うと音楽室を出た。
廊下の電気は点いたまま、何も変わらない。
梓が廊下の電気を消して、階段を下りようとした時に、顧問の先生が階段を上って来た。
「梓か? まだ帰ってなかったのか?」
「すいません。楽譜を忘れたんです。すぐに帰りますから」
「おう、気を付けて帰れよ」
変な視線を送られても、すれ違いざまに肩を叩かれても、今の梓には全く気にならなかった。胸一杯に詰まった幸せな気分で、今にも空を飛べそうだった。
別館から渡り廊下に出る時、梓は何気なく振り返ってしまった。
そこには何もなかった。来る時には映っていた自分の影も。
良く考えれば当然だ。別館に電気を点けたのだ。影はその反対側の渡り廊下に映るはず。
『なぜ気付かなかったんだろう。なぜ今になって気付いちゃったんだろう』
急いで帰る梓の心からは既に幸福感は消え失せていた。
ホラー部分はココで終わりです。
次話はエピローグです。