音楽室へ
武井 梓は暗くなった校舎を歩いていた。
「何で暗い学校って……」
梓は飛び出しそうな心臓を押さえるように、胸へと手を当てながら足を速める。
チラリと梓は腕時計を見る。午後七時。高校生が怖がるような時間ではない。
『また七時、まだ七時』
梓は自分にそう言い聞かせる。だが梓の心はそんな言い訳を認めてはくれなかった。
梓はハッと振り返る。そこには誰も居らず、自分の影があるだけ。
『やっぱりこのまま、帰っちゃおうかな』
梓は忘れてきてしまった楽譜の事を思いながら考える。
『でも、先輩に今日、間違えたところを練習するように言われたし……』
梓が在籍する吹奏楽部はコンクールが近付き、追い込みの時期に差し掛かっていた。
梓は再び歩き出すが、廊下がT字に別れている所でもう一度立ち止まる。
真っ直ぐ行けば渡り廊下、吹奏楽部の部室兼音楽室はその先の別館にある。そして左に曲がれば職員室。顧問の先生もまだ居るはずだ。
一度先生に声をかけようか。何なら一緒に来て貰おうか。
だが梓は迷った。先生の自分や他の女子生徒を見る目、腕や肩に触れるあの手の感触。
梓はブルりと首を振って先生の事を頭から追い出す。
「チョット行って戻って来るだけだし」
一緒に帰る予定だった友人のみちるへ向けて言った言葉。それを今度は自分に言い、梓は廊下を真っ直ぐに進んだ。
外灯の明かりしかない渡り廊下は校内の廊下と比べて薄暗く、その先の別館は電気が消されて更に真っ暗だ。
梓の心臓はまた心拍数を上げていく。
冷たいドアノブを回し、別館の扉を押し開ける。
『もう、何で直ぐ近くにスイッチを付けないのよ』
別館の電気を点けるスイッチは扉から少し入った所にある。そこまでは外の明かりも届かず、梓は手探りで探す。
手首、腕、肘と闇が呑み込んでいく。
『やだ、絶対にこの辺なのに……』
焦る気持ちを押さえながら見えなくなった手を必死で動かす。
やっと掌がスイッチを探り当て、梓はホッと胸を撫で下ろした。パチッと音をたてて蛍光灯の明かりが点くと梓はハッと息を飲んだ。
『何だ、私の影じゃない』
一瞬目の前に人影が現れたように見えたが、今見えるのは壁に映った自分の影だけ。
梓は改めて胸に手を当てて気持ちを落ち着かせる。
だがこの別館は本館に比べて少しボロいので、やはり怖い。
『早く楽譜持って帰ろ』
梓は小走りで階段を登り始める。最初の踊り場に差し掛かる時、梓は階段につまづいた。
壁に倒れ掛かる様に梓は自分の体を支える。
『もう、私焦り過ぎじゃん』
溜め息をついて、肩越しに階段を見上げる。
『あれ? 何だろう』
梓は見慣れた階段にほんの少し違和感を感じた。壁に背を預け、梓は正面からもう一度見てみる。
『何か、傾いてる?』
そっと前に踏み出そうとするも、重心の移動が巧くいかない。
壁に手を当て、梓は体を前に押し出す。梓はしっかりと床を踏みしめる。それでも梓の違和感は拭えない。
『そんな、まさか』
階段にもう一歩近付く。足の感覚は問題ない。でも目の前にある階段は傾いているどころではない。階段が壁の様に立ちはだかっている。
梓が勇気を出して一段目を上る。足の裏にあるのはいつもの階段だ。
梓は手すりを掴んで一段、一段登っていく。そして真っ暗な二階に着いた。別館入り口のスイッチは入り口付近と階段にしか電気を点けられない。
闇の中で延びる廊下は一つの絵画の様にも見えた。
『そうか、遠近感か。多分暗いせいで遠近感が狂って、それで傾いているように感じたんだ』梓はそう思った。
ならば気にする必要はない。変な感じはするけれど、ただそれだけなのだから。
音楽室は三階、もう一つ上の階。梓は更に階段を登る。梓の目には相変わらず全て傾いている様に見える。
やっと登りきった所で梓は後ろを振り返った。 上から見る景色もやはり傾いている。
梓は目眩を覚えて、手すりに体を預ける。手すりからは一階まで見下ろす事が出来る。梓はそのまま下へと吸い込まれそうな感覚に陥り、慌てて手摺から離れる。
『早く、早く帰ろう』
梓は三階廊下の電気を点ける。蛍光灯の光が廊下を白く浮かび上がらせる。誰も居ない廊下はいつも以上に白く、色褪せて見え、梓に戸惑いを与えた。
『怖いと思うから怖いの。怖くないと思えば……』
梓は鞄を抱えるように持ち上げ、廊下を歩き始める。真っ暗な被服室、調理室を見ないように通り過ぎていく。そして、とうとう音楽室の前に到着した。
梓は恐る恐る防音性の重い扉を開くと、また闇が待っている。
電気を点けると左右に扉が見える。左手に簡単な引き戸があり実際の音楽室へと繋がっている。電気も入り口の明かりと連動している為、引き戸のガラス越しに中の様子も伺える。
ちなみに右手にある金属製の扉は楽器室になっており、今は南京錠が掛けられている。
梓は引き戸を開けるとやっと見慣れた景色に出会えた気がした。そこは間違いなく二十分程前に梓が居た音楽室だった。