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平凡の向こう側 1


 コーヒーとトーストの香りが今日も我が家を包んでいる。

「お父さん、おはよう。今日も暑そうだよ」

「ああ、智里。おはよう」

 玄関を開けるとちょうど2階から父親が降りてきた。ポストから取ってきた朝刊を渡す。リビングに入ると香ばしい匂いが更に強まった。母親は智里が用意しておいた小分けのサラダを各人の席へセットしている。

「あら智里、そろそろイルさんを呼んできてもらえる?」

「私が降りてくるときに声をかけてきたから、そろそろ来るんじゃないかな」

 智里がコーヒーカップへコーヒーを注いでいると、2階から降りてくる足音が聞こえた。

「まあ、イルさんは優希と違って毎朝早いわね」

 母のカップにミルクを足して智里は、そうだねと小さく笑った。


「いただきます」

 手を合わせると、智里は皿の目玉焼きをパンの上に乗せた。一口噛むと、半熟の黄身がとろけてきて幸せに包まれる。

 目玉焼きを食パンの上に乗せて食べるのは、ある映画を見てから大好きになった。親にはあまりいい顔をされないが、なんだか特別な気分になって更に美味しく感じるのだ。

「イルさんも真似しないでくださいよ。智里、普通に食べなさい」

 父親から窘められて、渋々目玉焼きをパンから外す。横を見るとイルバードもパンに乗せようとしていた目玉焼きを皿に戻した。目が合ったのが気まずくて笑いかけた。



 あれから1週間経った。優希と話したのは最初の通信を含めると2回だ。智里には仕事もあり、イルバードと優希の通信の時間になかなか間に合わない。

 優希の英雄としての名前が効果を表しているようで、今のところ動きはないようだった。

 イルバードとは時間が空いたときにウェルテスの状況を話してもらっている。優希から通信を受けるときに人物や用語がわからないと困るからだ。

 いつも部屋だと両親に変に思われる気がして、休みの日は観光目的ということで外出し、話をすることに決めた。優希はそれもそれで変に思われると思うけどと不満そうだった。

 智里の車で駐車場が無料のショッピングセンターまで行き、そこのフードコートで話をするのだ。フードコートなら飲み物もあるし、端の席を陣取ってイルバードに結界を張ってもらえば、人目を気にすることもなく話に集中できる。

 以前ハンバーガー店で周りの声が聞こえなかったのはイルバードの結界だったそうだ。姿もある程度隠せるという。確かに、あの時女子高生たちは、席を立ち結界を解いたイルバードに突然気がついたようだった。結界を解いてもらうタイミングさえ間違えなければ、うまく活用できそうだ。

 そのお礼代わりに飲み物を奢ることにした。

 イルバードもお金を持っていることは持っている。優希がウェルテスで使うお金と、イルバードが日本で使うお金を交換したという。しかし姉としては弟のお金をそうそう減らしたくはない。イルバードだってどのくらい日本にいるかわからないのだ。減る一方では困るだろう。


 ちなみにウェルテスの通貨はイーニというそうだ。1イーニが銅貨1枚。金貨1枚=銀貨20枚=銅貨1000枚だという。日本円とのルートは1イーニが10円程度だそうだ。優希の話だから信憑性は薄い。

 優希は今まで貯めていたお年玉5万円分を勉強机経由でイルバードへ渡し、金貨5枚と交換したそうだ。衣食住は完璧だから、町で外食したいときなどに使うと言っていた。おそらくイルバードへの気遣いもあったのだろう。

 イルバードは日本で一人のウェルテス人だ。いくら優希と交換してホームステイしていると記憶を変えているとはいえ、智里の両親にお小遣いをもらいたいなんていえるはずがないだろう。衣食住はあるとはいえ大学なんて飲み会が多いところだ。

 少しは自由に使えるお金がないと日本でもウェルテスでもやっていけない。



 リビングで父とのんびりテレビを見ていると、電話がかかってきた。母が対応する声が聞こえる。その声が驚きの色を帯びた。慌てて電話を切って飛んできた。

「お父さん、浩次がぎっくり腰やっちゃったんですって」

 浩次は母の弟だ。奥さんが亡くなってから母方の祖父母と一緒に暮らしている。子供はいなかった。

「浩次叔父さん、大丈夫そうなの?」

「それがね、全然歩けないんだって。おじいちゃんもおばあちゃんももう浩次の世話できるほど元気じゃないし、お父さんとちょっと行ってくるわね」

 突然振られた父は驚いたが、素直にしたがって支度をしに行った。今日は念のため向こうに止まるから明日のスーツも持ってね、と父の後姿に母が声をかける。

 急展開すぎて智里はついていけない。

「泊まるの?私も一緒に行こうか」

「智里はイルさんのご飯用意してあげてちょうだい。車借りるわね」

「ああ、うん」

 智里の許可が聞こえたのかわからないスピードで母は2階に走っていった。洗濯機が脱水終了のメロディを鳴らした。



「智里、行ってくるわね。イルさんすみません。あとよろしくね!」

 洗濯物を干していると玄関から母が飛び出してきた。行ってらっしゃいと手を振ると、母は持っていた荷物を振り回した。隣を歩いていた父に当たりそうになる。

 飛び出していく車を見送るためイルバードが玄関から出てきた。

「一体、どうしたんですか」

「母の弟さんが腰を痛めちゃって、介護に行くそうです。車を使うそうなので今日は家でいいですよね」

「ええ、まあ。弟さんは大丈夫なんでしょうか」

 母から聞いた叔父の具合を伝えると、イルバードが心配そうに頷いた。なんだか心が温かくなって、智里は自然と笑顔を浮かべた。

「いざとなれば病院に行くでしょうから、今はあんまり心配しないでいましょう」

 買ったばかりだし、傷がつかないといいけれどな。自分の車の心配をしながら最後の一枚を洗濯ばさみに挟んだ。

「よし、終わり」

「持ちましょう」

 空いた籠をイルバードが持ち、玄関へと戻る。お礼を言って空を仰ぐと、東の空に入道雲が見えた。

 今日も暑くなりそうだった。

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