現実の向こう側 7
手に触れた温もりに、智里は戸惑っている。ゆるく包まれているだけなのに手を離すことができない。智里だって異性と手を繋ぐことはあった。恋人だって親には内緒でいたこともある。それなのにまるで中学生のように緊張するなんて、今日の自分はどうかしている。智里は目の前の綺麗な顔を見上げて小さく息を吐いた。
「チサト、答えてください。ユウキはどんな子でしょうか」
この人が綺麗な顔をしているせいだと責任転嫁して、智里は「弟」を言葉に表した。
「5歳離れた、憎たらしい弟です。甘えん坊で、わがまま。プリンが好きで、納豆が嫌い。ねばねばするものはあんまり食べなくて、私が頼んだとろろ蕎麦を勝手に一口食べて『いらない』なんて押し返してきて。いつも売り言葉に買い言葉で、喧嘩しちゃうんです。でも優希は母には弱くて」
母は天然で、あのペースに誰でも巻き込まれちゃうんでしょうね。
「ユウキはお母さまが好きなんですね」
話が逸れてしまった。イルバードの修正した軌道に乗る。
「そうですね、お母さん子です。それでいて本当に子憎たらしい口を利く子です。知らない人に同じ口利いていたらきっと衝突があるでしょうが、大学では案外お友達が多いようです。忌憚なく話せるお友達に出会えたんでしょう。名前の通り根っこは優しい子ですから」
黒い盤面が歪んできた。瞬きをするが、すぐに視界が滲む。思わず零れた雫をイルバードの親指が拭った。そんなことされた経験がなく驚いてしまった。
「チサトもユウキが大好きなんですね」
優しい笑顔に心が解ける。驚きで涙は引っ込んだが、まだ出てくる言葉があった。
「家族ですから。だから早く帰ってきなさい、バカ」
歪んだ盤面は涙が止まった今でも直らなかった。懐中時計が盛り上がったと思うと黒い盤面が浮き上がった。少しずつ大きくなって、小さいサイズのテレビ画面くらいになった。
『なにやってんだ、イル。姉ちゃんから手を離せ』
けんか腰の優希の顔が映っていた。
智里の目尻に残っていた涙を拭い取って、イルは手を懐中時計に戻した。両手で智里の手を包む。
「わたしの魔力を使っているんですから、トケイに触れていないと通信できないでしょう」
『お前一人だって通信できるんだからお前は時計だけに触ってればいいだろう』
「優希、あんたどうなってるの」
目の前で言い争っている二人にびっくりして智里は問うた。一言声が出せたと思うと矢継ぎ早に言葉が出てくる。
「今どこにいるの?身体は大丈夫なの?怪我はしてない?急に消えちゃって、心配したんだから。お父さんもお母さんも、あんたが1ヶ月も前から留学したとか言い出すし。私しか昨日のあんたを知らないし」
引っ込んだ涙が溢れ出してくる。イルバードが驚いて拭ってくれたが、今度はそれも効果なく涙は後から後から溢れ出す。優希が画面の向こうで焦っている。『ティッシュ、ティッシュそっちにあるからイル取って』優希の指図でイルバードが持ってきたティッシュで目を押さえる。頬も拭って、鼻もかんだ。それを何度か繰り返した。優希はまだ焦った表情をしている。イルバードは笑顔を崩さない。
「不安だったんですね」
「そう、みたいです。優希が目の前でいなくなって、それを私しか知らなくて、みんながラフマンさんを当然のように受けいれて、まるで私だけがおかしくなったみたいで、怖かったんです」
しばらく涙は止まりそうにない。イルバードが差し出すティッシュをありがたく受け取った。優希は画面の向こうで神妙な顔をしている。
『姉ちゃん、心配させてごめんな。まさか姉ちゃんの記憶が変わってないなんて、おれ思ってもみなくて。イルバディード、どうなってるんだよ』
イルバードは先ほど智里に聞かせた推測を繰り返す。
「こんなことは文献にもありませんでしたし、わたしには今から記憶を操作する力はありません。チサトにはこのままユウキを待っていてもらうことしか思いつかないのです」
『そうだよなぁ』
優希は頭を掻いた。困ったときに頭をかき回すくせは小さいころから変わらない。その仕草に智里はほっとした。弟はどこに行っても弟だ。笑顔になったときに零れた雫を拭って、イルバードに向き直った。
「私も優希の方に行くことは出来ますか」
『姉ちゃん!?』
イルバードは突然の提案に目を丸くする。深く考えることもなく首を振った。
「それは出来ません。もし国から許されたとしても、召喚は無理でしょう」
言葉を遮ろうと口を開いた優希を視線で黙らせて、イルバードは続けた。
「先ほどは省略しましたが、召喚というものは、世界の均衡を崩す行為です」
「均衡を崩す?」
「はい、人のいるべき場所は決まっているのだということです。それを無理に引き剥がすのですから、バランスを取らなければなりません」
『つまり、おれがコッチにいるなら、コッチの誰かが地球に行かなくちゃならないんだよ。おれが買ってる漫画であるだろ、等価交換ってやつ』
壁際の本棚には確かにその漫画が置いてある。なるほど、と呟いた。
「したがって、召喚には制約があります。召喚される人と交換される者が同性で、年齢が近くあることが原則とされています。わたしはユウキより少し年を取っていますが、ユウキの見た目が大人びているということで特別に許可されました」
『いや、イルが童顔なだけだろ』
優希の突っ込みに思わず吹いてしまった。イルバードの視線が痛い。
「お若く見えるのはいいことですよ。ラフマンさんはおいくつなんですか」
流れに沿って質問をしたつもりだったが、イルバードは黙ってしまった。代わりに優希が画面の向こうで答えた。
『イルはこう見えて28歳だよ』
「28!?」
思わず驚いてしまった。恨めしそうなイルバードの視線に顔が引きつる。短い金髪に男性にしては大きめのスカイブルーの瞳。自分と同じくらいか、優希の少し上だと思っていた。
「話を戻しますが」
イルバードは肩を落とした。
「チサトと年の近い女性の魔術師は城には何人もいます。ですが彼女たちはまだ修行が足りず、儀式をこなす力がありません」
『出来るのはポニーくらいだけど、王宮魔術師じゃないもんな』
「あれには無理です。協調性の欠片もない」
二人の会話は良くわからないが、智里はどうあってもウェルテスに行くことはできないようだ。
「よくわかりました。それでしたら、優希の手伝いをさせてください」
「チサト?」
怪訝にこちらを見る二人を智里は見返した。窓から入る風が乾いた頬を撫でる。
「そちらの問題が終われば、優希は帰ってこれるということでした。私がそちらの国に行って優希を手伝うことはできない。それなら、せめてここからでも手伝えればと思うんです」
話を聞いて考えるくらいしかできないけど、と苦笑する。せめて弟のために何かしたい。智里が手伝えるのは頭を使うことしかできなかった。
「まあ、私も通信はよくしますからユウキと話をするくらいは出来ると思いますが」
『そうだな、姉ちゃん鋭いところあるし。おれも話すことで整理できると思うし』
安堵の息を吐く。これで優希の状況を把握できるし、ストッパーになれればと思う。優希は無茶をすることが良くあるのだ。
『よろしくな』
「これからよろしくお願いします」
智里も二人に対し、よろしくお願いしますと頭を下げた。