感情の向こう側 6
「チサト、今の方は?」
その場に立って小さくなった後姿を見送っていたら、声をかけられた。智里が一人になったから気になってやってきたのだろう。
「かわいい後輩です。それより、イルバードさんこそ外に出てきて、どうしたんですか?」
振り向いて顔を見上げる。イルバードは少し眉を寄せてなんだか機嫌の悪そうな顔をしていた。
遅くなったから怒られるかしら。
もうそろそろ日付も変わる時間だろう。人通りもなくなって久しい。智里が遅いから迎えに来たのだろうか。電話も使えないのに単身出てくるとは有難いのか迷惑なのか判断し辛い。
イルバードはいま気付いたように目を開いた。
「そう、そうです。優希から連絡がありまして」
「優希から?」
ふわふわしていた気分も飛んでいった。勢い込んで近づくと、イルバードは一歩下がった。
「あ、お酒臭いですか!すみません」
それどころじゃないような気もするが、お酒の匂いは飲んでない人には結構臭うものだ。恥ずかしいやら申し訳ないやらでイルバードから離れた。
「いえ、そういうことではなくて、そんなことはなくもないですが、大丈夫です」
なぜかあたふたしていてよく分からないが、否定しきれていないイルバードにすみませんと呟いた。
「とりあえず、家に入りましょう。何か飲めばマシになるのでしょう?」
「ハイ…」
もう一度すみませんと呟いて頭を落とした。
玄関をくぐると、まだリビングに明かりがついていた。
「智里、お帰り」
「ただいま、お父さん」
リビングを覗き込むと、父がこちらを振り向いた。母はもう寝室に行ったのだろうか。
手を洗いに行こうかと鞄を下ろすと、父に呼び止められた。もうパジャマに着替えているところをみると、あとは寝るだけなのだろう。
智里は苦い顔をしてその場に正座した。大抵こういうときは怒られるかお説教だからだ。
「そう怖がられても困るんだがな。智里はもういい大人だし、楽しいのはわかるが、ほどほどにしておきなさい。母さんが心配するから」
思わず神妙にした智里に苦笑して、父はテレビを消した。席を立つと寝室へと向かう。おやすみと小さい声が聞こえた。
「おやすみなさい」
智里もその後姿をへ声をかける。久しぶりにちゃんと見るその後姿は少し小さくなった気がした。
洗面所で手を洗って帰ってくると、イルバードはすでにソファに座っていた。コップが2つ用意されていた。礼を言ってその前に座ると、ほんのりと温かかった。
ここ、お父さんが座ってたのか。
きっと、ずっと座って智里を待っていたのだろう。なんだか切ない気持ちが込みあがってきて、困惑した。思わず眉を寄せると、イルバードが笑う。
「お父さんも心配していたんですよ。ずっと黙ってつまらなそうにニュースを見てました。半分は頭に入ってなかったんじゃないでしょうか」
「そうですか…」
眉を寄せたままコップを手に取ると、透明の液体が入っていた。イルバードを見ると、にこりと微笑む。
「水です。お父さんから聞きました。お酒を飲んだ後には水をたくさん飲むといいそうですね」
「ええ、まあ。そうですけど」
「わたしも心配していたんですよ、チサト。だから、それ、飲んでください」
笑わない目で微笑むイルバードに肩をすくめて、智里はコップに口をつけた。
ユウキからの報告ですが、そう前置きしてイルバードは話し出した。夜のリビングに小さい声が響く。
「無事にローゼンスに着いたそうです。今頃は宿でゆっくりしているんじゃないでしょうか」
「あれ、でも確か1週間くらいかかるって」
昨日のイルバードの説明ではそうだった。頭の上に疑問符が浮いているのを見て取って、イルバードが頷く。
「ええ、通常ではそのくらいかかります。今回すぐに街に着いたのは、うちの妹が協力を申し出たからということでした」
渋い顔をして大きくため息をつくイルバードに、智里は首を傾げる。
「妹さん、ですか。確か旅をしているすごい魔術師なんですよね」
一応、イルバードさんとは仲が悪い。そう胸の中で付け足す。
「そうです。旅をしているというか逃げ回っているだけですが。まあ、その妹がユウキをローゼンスまで転移術で運んでくれたそうですよ」
すごい魔術師かどうかはわかりませんが、暗い顔で笑うイルバードに、智里は苦笑した。
「妹さんにお礼を言わなくちゃいけませんね。優希を無事に連れて行ってくれてありがとうございますって。今は優希と一緒にいるんですか?」
「はい、優希と共に行動しています。お礼はいらないと思いますよ。とりあえず、優希の護衛として王宮が一時契約を結んだということですから。お金欲しさに護衛を買って出たのでしょう。そろそろ資金が底をつくころでしょうから」
口座を一時停止してきて正解でした。そう言うイルバードに智里は微笑んだ。
「それでも、優希を護衛してくれるんですから、ぜひお礼を言わせてくださいね。妹さんって、イルバードさんと同じくらいすごい魔術師さんなんですよね。それなら優希を任せても安心ですね」
微笑む智里に、イルバードは少し黙って座りなおして言った。
「チサトがそういうのなら、機会があればお願いします。妹も喜ぶでしょう。無鉄砲なところはありますが、優希はあいつに任せておけば大丈夫です。…兄として保証します」
真面目な顔をしていはいるが、妹を智里に褒められ照れたのかイルバードの頬がほんのりと赤くなっている。あれだけ冷たいことを言っていても、根っこでは妹のことを認めているのだ。
けんかするほど仲が良い兄妹なのだろう。
イルバードのその様子を見て、智里は笑みを深くした。
「なんだか、ほっとしました」
あくびをかみ殺して背もたれに体重を預けると、どっと眠気が押し寄せてきた。まぶたが自然と落ちる。
明日は朝から仕事だから、もうベッドに入らないと。そう思っても、体が動かない。
「チサト、…?」
幽かに聞こえるイルバードの声に、はいと答えた。
智里の意識が暗闇に沈んでいく。何かが頬に触れた気がした。
無機質な音が耳に障って、眉を寄せる。手を思い切り振り下ろすと、いつも通りの衝撃が来て音が止む。
うっすら目を明けると、朝日がカーテンをすり抜けている。眩しさに目をしばたたせる。
重たい頭を持ち上げ目の前に迫っている文字盤を確認した。7時。いつも通りの時間だ。
「あー…」
昨日寝るのが遅かったので、寝不足だ。まだ寝たいと訴える体を叩き起こして布団から飛び出す。こういうとき社会人の辛さを地味に感じる。
一つ伸びをして深呼吸をした。そこでふと思った。
私、いつ布団に入った?
そう、昨日はリビングでイルバードと話をした。その後の記憶がない。
身体を見下ろすと、洋服は昨日のままだ。
「もしかして…」
イルバードが運んだのだろうか。
思わず部屋の中を見渡す。特に変なものは置いてない。部屋はなんとか片付いている。これならまだ見られても大丈夫だ。
ほうと胸を撫で下ろした。情けないやら恥ずかしいやらで頭が痛い。昨日飲みすぎたせいかもしれないが。
「とりあえずお風呂入ろう…」
落ち込みつつ着替えを持って扉を開けた。廊下に出ると、向かいの扉が開いた。背の高い金髪が部屋から出てくる。
「おはようございます」
目を合わせづらいが、何とか堪えて笑顔を向けた。昨日のことは忘れてくれるといいのだけれど。
イルバードは智里に気付くと、顔を強張らせた。
「イルバードさん?」
「おはようございます、チサト」
強張った顔を無理やり笑顔にすると、イルバードは挨拶を返すと、ぎこちなく階段を下りていく。
その後姿を見下ろしながら、智里は顔を引きつらせる。
私、何したのかしら。