感情の向こう側 4
硬質な音が聞こえて、智里はぼんやりと目を開けた。枕元の時計を見ると、最後に見てから30分ほど進んでいた。
目の端に光を捉えて、視線を向ける。携帯電話の着信ランプだった。
返事かな、いつ来たんだろう。
「チサト、お風呂出ましたよ」
携帯電話に手を伸ばすより早く、扉の向こうからイルバードの声が聞こえた。頭が重くて、ただ扉を見ているともう一度ノックされた。
「チサト、寝てるんですか?」
「いえ、いま入ります」
何とか返事をして、智里は身体を起こした。
「あとはチサトだけだそうですから、ゆっくりどうぞ。おやすみなさい」
微笑んでいるだろうイルバードの足音が聞こえる。向かいの扉を閉めた音がした。
その音が止むまで扉を見ていた智里は、スッキリさせたくて頭を振った。しかし、明瞭になるどころか痛みが生じただけだった。
息を飲み込んでこめかみを押さえた。ずくんずくんと血の流れる音が頭の中に反響する。その音と痛みが小さくなると、智里は詰めていた息をゆっくりと吐いた。
こんなにひどい頭痛なんて久しぶりだ。智里は健康優良児で、貧血もほとんどしない。
精神的なものかしら。
ベッドから降りると、携帯電話に手を伸ばした。画面を開くと、やはり先ほど送ったメールの返信だ。
快い返事が並んでいる。キラキラしたデコレーションにため息をついた。
智里は何かを吐き出すように、指を動かした。
「イルバードさん、まだ起きてますか」
ノックはせずに扉に声をかけた。
もう12時を回っている。寝ていればそれでいい。
今から伝える内容に対して、イルバードの反応を見るのが怖かった。言わなければそれでいいのかもしれない。知らせなければイルバードは普通のままでいるだろう。
だが、言わないままでは多分智里が今まで通りでいられない。
それでもこのままイルバードが寝ていてくれれば伝えられなかったということで智里の心は軽くなるかもしれない。
様々な可能性を考えて、智里は扉の前に立っていた。
だからどうか、寝ていて。
その願いはカタリとノブの回る音で崩れた。
「チサト?どうかしましたか」
不思議そうに扉を開けたイルバードを見て、なぜかホッとした。
「チサト?なにかありましたか」
お風呂上りの格好のまま立ったまま何も言わない智里をイルバードは心配そうに見る。
「飲み会」
智里の放った単語に、金髪が揺れる。空色の瞳が怪訝そうに細められた。
それを受け止めて智里は微笑んだ。
「飲み会に行くんです、明日。だから帰ってくるの遅くなります」
口角が落ちないように必死に引き上げる。顔の筋肉をこんなに気にすることは仕事でも滅多にない。
イルバードの目がさらに細められた。
「そうですか、楽しんできてくださいね」
にこりと微笑む顔が見下ろした。声も常と変わらない。少し寂しそうな声音だったかもしれない。それでも、智里が想像していた反応は返ってこなかった。
智里は口角を持ち上げたまま、内心で戸惑っていた。イルバードがあまりにも普通なので、今まで緊張してた気持ちをどうしていいかわからない。
「ええと、怒らないんですか?」
引きつる頬を傾ける。イルバードも首を傾げた。
「どうして怒るんですか?楽しそうでいいですね」
「だって、優希がいま大変なのに」
思わず眉を寄せると、イルバードは合点がいったというように微笑んだ。
「ユウキのことを気にしていたのですね」
智里は俯いた。イルバードは手を持ち上げて、一瞬空中で止めて、自分の髪を梳いた。
「それは確かに気になりますが、チサトにも生活があるでしょう。ユウキだってそのことはわかっていると思いますよ」
先ほどの質問もそういうことだったんですね。イルバードの言葉が振ってきて、智里は顔をしかめた。
「しょうがないんです、チサトは自分の生活を大事にしなければいけないんです」
「でも…」
「しょうがないんですよ」
口調は優しいが、声は有無を言わせなかった。それでも答えを返さない智里にイルバードは小さく息を吐いた。もう一度、しょうがないんですと優しい声で言った。
膝を落として智里の顔を覗き込もうとするイルバードに、智里は恥ずかしくなった。これでは自分が駄々っ子のようだ。
「気にするなとは言えませんが、ユウキを信頼してあげてください。大丈夫です。ユウキは必ず無事で帰ってきます」
目からウロコが落ちるようだった。呆然とイルバードの顔を見る。
自分は優希を信頼していなかったのだろうか。ついこの間、優希を大人になったと認識したはずなのに、また幼い子供のように思っていなかっただろうか。
優希は既に危険な世界を経験している。そのときにだって命の危険はあっただろう。そのときは戦争中だったのだし、むしろ今より格段に危険だったのではないだろうか。それでも無事に帰ってきているのだ。智里はその結果を信用してあげなければいけない。
本当に自分が情けない。イルバードだって心配でないわけないのに、こんなに落ち着いているではないか。
「大丈夫ですか」
呆然としていた千里が唇を噛み締めているのを見て、イルバードは心配そうに声をかけた。
その声で智里は自分の思考から浮上した。切れるまでは行かなかったが、唇は赤く腫れていそうだ。深呼吸をしてイルバードの顔を真っ直ぐに見ると、空色はしっかりと見返した。それが緩く細められる。
「大丈夫です。相変わらずごめんなさい」
思わず苦笑した。いつも智里は謝っている気がする。
「自分の生活、大切にします。明日もし優希から連絡あったら教えてください」
家の電話はリビングにあるからダメだとして。
「優希の携帯電話使ってください。机の上になかったら鞄の中かもしれません。充電の仕方はわかりますよね」
「ええと、いやあの」
「非常事態ですから、優希に何を言われたって使ってください」
言葉を濁らせるイルバードに、喋る勢いのまま一歩を近づいた。イルバードがしゃがんでいたため意外に顔が近くなったことに驚いた。
「わ、私が許可したと言えば大丈夫です」
魔術師は一歩下がって背筋を伸ばした。それにつられて智里は顔を上げる。
「前にも試してみたんですが、そういったものと相性が悪いようで、わたしが触ると圏外になってしまったり、動かなくなってしまったりしてしまって…使えないんです」
すみませんと謝る顔には情けない笑顔が浮かんでいた。