感情の向こう側 1
「篠崎さん、最近付き合い悪いですよね」
発注書に数字を書き込んでいると、背後から声がかかった。
「そんなことないと思うけど」
和田の言葉に、智里は振り向かずに答えた。とっとと発注書を終わらせてフロアに出ないと、残業しなければならなくなる。
「そんなことありますって。篠崎さん、ここのところ飲みに誘ってもすぐ断るじゃないですか」
「ここのところって行っても、ほんの1週間かそこらじゃない」
和田の視線を背中に受けて、智里は渋々振り向いた。
昨日は何事もなく夜が過ぎた。
朝ご飯を作っていると、母から電話がかかってきた。叔父のぎっくり腰は辛いようだったが、病院へ連れて行ったのでこれ以上泊まりこまなくても大丈夫だという。 2日に一度は母が顔を出して世話を焼くらしい。
「今日は夕方に帰るから。みんな出掛けるでしょ?みんなが帰ってくるまでには戻るわね」
イルさんにもごめんなさいねって伝えておいてね。母親はそう言って、智里が返事をする前に電話を切った。
「お母さんですか?」
「はい、今日の夕方に帰ってこれるそうです。叔父さんもそんなに具合悪くないようなので大丈夫だそうですよ」
そして智里は、午前は休講だというイルバードに後を託し仕事へ出てきたのだった。
智里は近所の大型書店で働いている。大学を出て、学んだ科目とは違っていたが思い切って応募してみたところなんとか受かった。それから3年、ただひたすら働いてきた。
和田は智里の下で働く後輩だ。大学生のアルバイトで、今は夏季休暇のため日中から仕事に入ってもらっている。
智里と同じときに入って、大学1年生から働き始めているから、今は3年目だ。智里の受け持つジャンルを一緒に管理している。同じ年数働いているため、智里も任せられる仕事は安心して和田に預けている。
そんな彼が在庫調査の手を止めて話を続けた。
「でも、普段なら誘ったらほとんど断らないのに、最近は悩む暇もなくすぐに断るじゃないですか。どうしてですか?」
「どうしてって」
智里はため息をついた。何を気にしているのか和田は不機嫌そうだ。その顔に智里はボールペンの先を向けた。
「言ったじゃない、ホームステイの人がいるからなるべく家を空けられないの。わかったらとっとと手を動かして」
この前確認したがやはり、みんなの記憶はやはり弟が留学へ行ったのと入れ替えに、イルバードがホームステイに来ていることになっていた。
上司である智里の命令には従わざるを得ず、和田は在庫棚にある本の数を数え始めた。それでも不満そうに口を尖らせている。
全く、何考えてるのかしら。手元の在庫表に数を書き込む部下を見ながら智里も思わず口を尖らせかけて、慌てて机に向き直る。ちらりと時計を見ると思ったより時間が過ぎていた。あと30分以内に書類を終わらせなければ後の業務に支障が出る。
「篠崎さん」
一枚紙を捲った所でまた和田から声がかかった。
「今度はなに?」
またこの出版社同じファックス流してる、資源の無駄だな。大きく斜線を引いてもう一枚捲った。
「気になる人、いるんじゃないんですか」
思わぬ言葉に思わず振り向くと、先ほどより真面目な顔をした和田がこちらを向いていた。焦った智里は笑いを浮かべた。
「な、何言ってるのよ」
和田が口を開こうとすると、スピーカーからレジの応援要請が流れた。二人で天井を見上げる。
「なんでもないです」
智里が何かを言うより早く、和田は一つ息を吐きパタンと在庫表を閉じて駆け出した。智里もペンを置き、その背中を追いかけた。
レジには従業員がたくさん集まり、もう智里が入る必要はないようだった。アルバイトの子と目を合わせて、智里は来た道を引き返した。
気になる人。
和田の言葉から、智里は金色を思い浮かべそうになって首を振る。今は優希の事だけ気にしていなければならない。
そう、気になる人は優希以外にいてはいけないのだ。
優希が無事に帰ってくるように。
歩きながら、ふと視線を横へ向けると、近くの棚が乱雑になっていた。読んだ人が雑に置いていったのだろう。いつものこととはいえ、ため息を隠しきれない。
智里は本を綺麗に直し、整えた棚を満足気に見て微笑む。
そして気付いた。
気になるのは優希のことだ。だが、それを気にしていてはいけないのだ。
たとえイルバードがいようと、智里は今まで通りに過ごさなければいけなかったのだ。記憶変換してイルバードが来たならば、還るときも必ずそれが行われるはずだ。優希の代わりとしていた彼の記憶は、全てが優希として変わるだろう。
逆に言えば、優希が関係しないことは記憶変換は行われない可能性がある。今、こうして普段通りでなく智里が働いていることがそのまま記憶に残るかもしれない。
イルバードさんに確認しなくちゃ。その前に和田くんに飲み会の提案をした方がいいかな。
心で呟いて、智里は仕事の続きをするために事務所へ向かった。