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平凡の向こう側 6


 必死に浴槽をこすっていると、気持ちが落ち着いてきた。

「優希があんなこと言うなんて思わなかったな」

 智里だっていい大人だ。男と女の事は理解している。だが優希に言われるまで、イルバードと二人だからどうこうということは考えてなかった。

 イルバードを信用している。それなのに、あんなに取り乱してしまった自分が恥ずかしかった。

「イルバードさんがそんなことするはずないものね。私、なんて自意識過剰なんだろう」

 恥ずかしさでまた頬が赤くなっている気がする。スポンジを動かす手を止め、シャワーで泡を流す。冷たい水が手に気持ちよかった。

 浴槽の壁から泡が水に押し流される。この変な感情も全部流れてしまえばいいのに。排水溝に吸い込まれていく泡を見ながら智里は思った。

「チサト?」

 イルバードが呼んでいる。一瞬跳ねた鼓動を押しとどめて智里は返事をした。シャワーを止め、浴槽の水が切れるのを待って、栓を落とす。湯張りボタンを押すと振り向いた。

「ああ、もう終わりますか。手伝おうと思ったんですけど」

 脱衣所からイルバードが見下ろしていた。

「いいですよ、お客様なんですから。またお茶でも淹れますからリビングで待っていてください」

「ではお湯を沸かしますね」

 そう言うと、イルバードは何かに気がついたように智里へ手を伸ばした。触れそうになる瞬間、智里はびくりと身体を揺らした。イルバードが動きを止める。目が合った。

「そこ、泡がついてますよ」

 笑顔で左の頬を指差して、イルバードは出口へ振り向いた。智里が指された頬に触れるとくしゃりと泡が弾けた。心臓がずくんと痛んだ。

 やってしまった。

 イルバードはこれを拭ってくれようとしただけだったのに。自分の気持ちが変なところにいっているから好意を受け取れなかったのだ。たとえ無意識な行動でも、相手には拒絶に思えただろう。

 イルバードを傷つけた。智里は頬を拭うと、唇を噛んだ。

 


 リビングに戻ると、ちょうどイルバードがお湯を沸かしている最中だった。智里はポットへ茶葉を入れる。あっさりがいいと思い、ダージリンにした。

「沸きましたよ」

 笑顔のイルバードは変わりなく智里へ声をかけてくれる。智里も平静でいようと努力した。

「ありがとうございます。じゃあこの辺まで入れてもらっていいですか?」

「はい」

 智里がポットの中ほどを指すと、イルバードはお湯を入れ始めた。

 あまりにちょっとずつ入れるのでもう少し入れる量を増やしてもらおうかとイルバードを見上げると、イルバードの手が狂った。ポットの縁でお湯が跳ねた。

「熱っ」

 ポットを指していた左手に少しかかる。思わず引っ込めると、イルバードの顔色が変わった。

「だ、大丈夫ですか!?」

「ちょっと、イルバードさん!?」

 すぐ沸くと評判の電気ポットを置くと、智里の手をつかんでキッチンへ飛び込んだ。水を流しっぱなしにしてそこへ智里の手を突っ込む。

「痛くないですか?大丈夫ですか?すみません、跡が残らないといいんですけど…」

 慌てているイルバードを見て、呆気にとられた。

「大丈夫ですよ、かかったのはほんの少しだけでしたし」

「いえ、いけません。ちゃんと冷やさないと。どんな小さな跡だって残してはいけません。智里の肌は綺麗なんですから」

 さらりと言われて智里は赤くなった。今日はどれだけ赤面すればいいんだろう。

 後ろから抱えられ左手を水に晒している。しっかりつかまれた左手が痛い。背中にイルバードの体温が伝わってきて、今更緊張した。軽く上を向くとすぐに真面目な表情のイルバードの顔がある。

 それを嫌だとは思わなかった。

「チサト?」

 間近で顔を見られているのがわかったのだろう。イルバードも顔を向けると視線が合った。

 状況を思い出したのか、イルバードは智里から飛んで離れる。そして思い切り頭を下げた。

「すみません!チサト、あの、そういうつもりはなくて」

 顔を上げたイルバードの眉毛を下がっている。しどろもどろで弁解するその様子が可笑しくて、智里は笑いをこらえられなかった。

 声を上げて笑う智里を見て、イルバードも引きつった笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、もう大丈夫です。十分冷えました。イルバードさんも冷えたでしょう?」

 水を止め、右手で左手に触れると冷たくなっていた。タオルを差し出すと、イルバードも微笑んでくれた。

 お湯の量が少なく渋くなってしまった紅茶は、甘いミルクティにすることにした。



 湯気の立つカップを置いて智里が座ると、イルバードは困ったように切り出した。

「ユウキが謝っていました。思わず変なことを言ってしまったと」

「そうですか」

「はい…ユウキはチサトを大事に思っていますから」

「本人は認めないでしょうけど」

「そうですね」

 顔を見合わせて笑う。

「私も優希に悪いことをしたとは思います。心配してくれたのにあんな態度をとってしまって」

 組んだ自分の手を見下ろして智里は呟いた。しばらく黙って、やがて吹っ切れたように顔を上げた。

「まだまだ手のかかる弟だったから、あんなこと言われるとは思いませんでした。もう大人なんですよね」

「そうですね、ユウキはもう子供ではありません」

 切なげに言う千里にイルバードは続けた。

「でも、まだまだ手のかかる弟ですよ。甘えさせてあげてください」

 ミルクティを飲むイルバードを見つめ、智里は、はいと微笑んだ。


 しばらく、黙ったままミルクティを飲んでいた。お互いが何か言うのかと、お互いが探っていた。

 先に動いたのは智里だった。

 飲み干したカップを少し雑にテーブルへ置く。それで勢いをつけて口を開いた。

「ええとですね」

 声を出した方にイルバードは視線を動かす。しかし智里の視線は上がらない。

「弟が変なことを言ってすみません。私も変に気にしてすみません」

 顔が熱いのに、指先は冷たい。手が震えないように、智里は必死にカップを握り締めた。

 イルバードが一つ息を吐く。智里は肩を竦めた。ああ、呆れられただろうな。

「こちらこそ、すみませんでした。わたしも思わずユウキの言葉を気にしてしまいました。…チサトを怯えさせてしまって、正直自分に呆れました。チサトに嫌われたかと思いました」

 本当に辛そうに聞こえて、智里は顔を上げた。否定しようと首を振るが、イルバードは腕で顔を隠していて見えなかった。わかってほしくて声を出す。

「すみません」

 そんなつもりじゃなかった、などと言っても怯えてしまったことは覆せない。

 またしょげてしまった智里に向き直り、イルバードは視線を合わせた。安心させるように微笑む。

「ユウキの言うとおりわたしも男です。ですが、立場や使命はわきまえています。だから、チサトも安心してください」

 イルバードの笑顔から全てが伝わってくるような気がした。それだけで心が温かくなる。

 智里は頷いた。

「はい。イルバードさんを信用してます。だからもう大丈夫です」

 二人で長い息を吐く。緊張が解けたせいだ。顔を見合わせて笑った。

「しかし、ユウキには驚かされましたね」

「そうですね。男の子って誰でもああなのかしら」

「女性もそう変わらないと思いますが…」

「そうですか?」

「王城ではそうでしたね」

「そうなんですか。でも、イルバードさんがそんなことするはずがないのに」

 先ほどの状況を全て笑い話にしてしまえとばかりに話し出す。

「イルバードさんはお兄さんみたいな感じですよね」

 同意を求めると、イルバードは引きつった笑顔を浮かべていた。

「そうですね、お兄さんですよね…」

 肩を落とすと、先にお風呂いただきますと席を立った。重い後姿を見ながら智里は首をかしげる。

 片付けようとイルバードの使っていたカップを持ち上げた。今まで持っていたため、イルバードの温もりが残っていた。

「三歳年上だもん。お兄さん、よね」

 ちくりと刺さった言葉には気付かない振りをした。




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