平凡の向こう側 2
「皇女さまの家庭教師だったんですか!?」
昼ごはんが終わり、イルバードのウェルテス講座が始まった。
紅茶の葉に湯を注ぎティーコゼをかける。イルバードはリビングのソファに腰かけた。
「はい。16歳から2年間教えて差し上げました。わたしが魔術師を辞めたことを心配した父からの命令だったんですけどね。ラキア様は飲み込みが良く、頭の回転も速いのでたびたび舌を巻くような質問をされましたよ」
「他にはどんな方なんですか」
智里はイルバードの直角に座った。砂時計が落ちきったのを確認して紅茶を注ぐ。柔らかい香りがリビングに満ちた。
熱いので気をつけてください、とカップを渡す。軽く礼をしてイルバードは受け取った。
「雰囲気はチサトに似ています。優しく笑うところなんてそっくりですね」
反応に困って紅茶に息を吹きかけた。
「よく花を愛でていました。暗殺の危険があるので外に出しませんでしたが、部屋の窓から庭園を見ていました」
思い出を呼び起こしながら語るイルバードを見る。その嬉しそうな笑顔を見ると、ラキアージュがイルバードにとって素敵なお姫様なんだと想像できた。
「今はわたしの父と共に政務に励んでいるようですよ。とても優秀で、父が褒めてました。ああ、そうそう」
昨日のユウキとの通信ですが、と前置きをしておいて笑い出した。
昨日は急に残業が入ってしまったため、智里は優希と話すことは出来なかった。首をかしげて続きを促す。笑いを収めたイルバードが可笑しそうに言った。
「ユウキの提案で、一昨日からユウキがラキア様の食事を作っているんだそうです。毒が入ることを懸念して、料理人はつけないようですよ」
「優希ってそんなに料理作れたかしら…」
思わず眉を寄せる。
優希の手料理で食べたことがあるのは、卵焼きくらいだ。それもところどころ焦げていたりしていた。味は悪くなかったので、何とか皇女の機嫌を損ねないことを願いたい。
料理がどうこうの前に、食材はどうなんだろうか。この世界とおなじ食材はあるんだろうか。イルバードがこちらの世界のものを難なく食べているということは、あまり違いはないのだろうか。
心配から疑問へシフトしていく智里の思考を戻すように、イルバードがくすくすと笑った。
「どうなんでしょうね。今日の報告が楽しみです」
とても面白がっている。智里は最近イルバードへの認識を改めた。
口調は丁寧だがよく毒を吐くのだ。しかも間接的に吐くので一見すると毒に聞こえないのが怖い。
特に優希には容赦がないようで、2回目の通信でも子憎たらしい優希をやり込めていた。
「私もラフマンさんくらい言えるようにならないと」
「何をですか」
思わず口から出てしまった決心を聞かれて、笑ってごまかす。
そろそろ本題に入ってもらおうとメモ帳の新しい頁を開いた。シャーペンをノックしたが芯が出てこない。そこの棚に替え芯があったはずだ。
それを黙ってみていたイルバードがチサトを呼んだ。
「そろそろイルと呼んでいただけませんか。ラフマンは偽名ですし、呼ばれなれていません」
そう言って身を乗り出し、立ち上がろうとしてソファーについた智里の手に、大きくて細い手を重ねた。
包まれた温もりに智里は動けなくなった。
智里は手を捕らわれ、困った声しか出せない。
「ラフマンさん」
「イル、と」
「いやあの」
イルバードは智里をじっと見つめている。これは呼ぶまで手を離しそうにない。
智里は自分がこういう状況苦手なのをイルバードが理解していて、その上で遊ばれてるように感じた。
意地でも呼んでやるかと妥協案を提示する。
「イルバードさん」
「イルですよ」
大人気ない。笑顔のイルバードは親指で智里の手の甲を撫でている。なんだか気恥ずかしくて、智里は視線を逸らした。これは本気で遊ばれている。
他の妥協案を探した。確か、優希がこう呼んでいたはず。
「イルバディードさん?」
「それは嬉しいのですが、お母さんたちはわたしの本名を知りませんので」
あくまで笑顔で強要する。いつの間にか手はイルバードの両手に包まれている。手に力が入らず、顔に血が集まってくる。
赤くなっている顔を見られたくなくて更に顔を逸らした。
「チサト?」
名前を呼ばれてもどうすることも出来なくて、智里は沸々と怒りが湧き上がってくるのが分かった。
「もういい加減にしてください、イルバードさん。私は早くウェルテスの事を知りたいんです」
我慢できなくなって智里が振り返って怒った。顔が真っ赤になっていて目も潤んでいる。
イルバードは澄まして言った。
「仕方ないですね、今はそれで我慢しましょう」
そう言いながら智里の手を持ち上げる。
「いつか呼んでくださいね」
そう言う唇が、智里の手の甲に近づく。
視線が動かせない。イルバードの動きがやけにスローモーションに見えた。
あと数センチで距離がなくなる。智里は思わず目を閉じた。
突然大きな音が響いた。
思わず、智里は手を引っ込めた。なんとなくイルバードの手の感触が残っていて、更に顔が熱くなる。その手を抱きしめてよくわからない安堵の息を吐いた。
「ええと、イルバードさん、何が鳴ってるんでしょうか」
リビングにはぽわわん、ぽわわん、と気の抜けるような音響いている。
周りを見渡してもこんな音が鳴るようなものはない。千里の携帯電話はテーブルの上にあるが沈黙を保っている。
イルバードは大きなため息をつき、ポケットから懐中時計を取り出した。
優希との通信機だった。