最高の彼女
夜の河原にはいくつもの出店が並んでいる。
今年も夏祭りの季節がやってきた。
相変わらずここのお祭りには大勢の人がやってくる。
焼きそばを売る屋台には行列ができている。
金魚すくいでは学生らしきカップルが肩を叩き合っている。
小学生たちが雑踏の合間を駆け抜ける。
それ以外にも様々な屋台があって、そのどれにも誰かがお客さんとなっていて、この祭りを楽しんでいる。
もっとも、それらすべてはただの風景でしかなく、僕の目には映りこそすれ留まりはしない。
なぜなら、僕が見ているものはたった一人だからだ。
「ねえねえ」
隣を歩いていた僕の彼女、真子が不意に二、三歩前に歩く。
くるりと振り向いた彼女が僕の手を取った。彼女の着ている浴衣の袖が僕の手首に擦れる。
「次は何食べる?」
僕の口の中にはまだ先ほど食べたばかりのりんご飴の香りが残っているというのに、彼女はもう追加の食べ物を望んでいるようだ。
細身の彼女の身体のどこにそんなに食べ物が入るのだろうか。食べ盛りの高校生とはいっても、限度がある。
今もそうだが、僕なんかはすぐにお腹いっぱいになってしまっていた。
「そうだなあ、僕はあんまりお腹減ってないし、綿あめとかでいいかな」
今日のお祭りで食べたものは、焼きそば、たこ焼き、玉子煎餅、ホットドッグ、唐揚げ、それにりんご飴だ。これだけ食べたらお腹いっぱいにもなるというものだ。
「えーもう? いっぱい食べないと元気でないよ?」
「むしろ食べ過ぎで元気がなくなるよ」
「つまんないなあ。まあいいけど、私はあそこの焼きトウモロコシとイカ焼き買ってくる!」
言いながら、彼女は僕の手を放して走っていった。この前の誕生日にプレゼントした簪が夜の光を反射する。
止める間もない。
まあ、止める気もないが。彼女は言い始めたら、止まらないのだ。
はあ、とため息を吐こうとした時だった。
ヒュー、という気の抜けるような音が当たりに広がった。
花火が打ちあがった音だ。
そう思うのと同時、ドン、という鈍く重い破裂音が大気を揺らした。
「なんか、懐かしいな」
久しぶりに間近で花火を見た。
小さな子供の頃はこうやって見ていたのに、いつからか家の窓から眺めていることが多くなっていた。
しばらく夜空に広がる花火の感覚に身を任せていると、二の腕に何かが触れる感触がした。
「花火始まっちゃたじゃん!」
真子が左腕を僕の右腕に絡ませている。
彼女の右手はイカ焼きと焼きトウモロコシを器用に掴んでいる。二つの食べ物は触れ合っているようにも見えるが、味が混ざったりしないのだろうか。
「だねえ」
「とにかく、座ろ!」
「なら、あっちのベンチが空いてるっぽいよ」
「いいね、さすが翔真」
僕たちは屋台が連なる一本道から外れ、街灯や提灯が少ない落ち着いたベンチに腰を下ろした。
「花火は座ってみないとね」
「どうして?」
「どうしてって、立ったまま見てたら首を痛めるじゃない」
「……確かに」
「でしょ?」
花火は十分ほど続いた。
火薬による様々な形の花はどれも見事な出来だった。花が開く度に響く重低音は体の奥底まで揺らされる。
それは不思議な間隔ではあったが、嫌いではなかった。
久しぶりの花火だというのに、さして驚きがなかったのは、きっと真子がいるからだ。
彼女といればきっとどこにいたって、何をしたって楽しいだろう。
花火はもちろん美しかったけれど、隣に座った真子が、度々「うわぁー」だとか「おぉー」だとか「わっ!」だとか「今のめっちゃ綺麗だった!」と様々な反応を見せてくれるので、僕にはむしろそっちの方が見ていた楽しかった。
「めっちゃ綺麗だったね!」
「だね。最高だった」
もっとも、僕の場合最高だったのは花火ではなく、時折覗かせていた彼女のうなじだったりするのだが、これは言わない方が良いだろう。
メインイベントである花火が終わったことで、徐々に帰り始めている人もいるようだ。
僕たちはもう少しここで話してから帰るつもりだ。
「はー、楽しかった。それにお腹いっぱい」
見ると、いつの間にかイカ焼きと焼きトウモロコシは無くなっていた。
僕はけっこう彼女のことを見ていたつもりだったのだが、いつのまに食べたんだろうか。
「僕もお腹いっぱいだよ」
「いつも思うんだけど、翔真はもう少し食べた方が良いよ。そんな痩せっぽちで」
「大丈夫だって、それに意外と筋肉もあるし。ほら」
右腕を上げて力を入れる。できた力こぶを見せてやると、彼女は「まあ、いいけど」と渋々納得した。
「でも心配してくれてありがとう」
「当たり前じゃん。私は翔真の彼女なんだから!」
そう言って彼女は誇らしげに胸を張った。
ふくらみかけの胸がわずかに丘陵を作り上げる。
そんな真子を見て、僕は「愛されてるなあ」と妙な感慨にふけってしまうのだった。
真子は僕の最高の彼女だ。
そんな真子との幸せな時間もいつかは終わりを告げる。
この夏祭りから幾ばくかの時が過ぎ去り、僕はとあるオフィスビルにいた。
「あの、先輩」
とっくに他の社員は退勤している。
残っているのは、大きなミスをしでかした僕と、その尻拭いをさせられている水島瑞希先輩だけだった。
「なに? 神崎」
「なんで先輩は僕なんかのために、こんな遅い時間まで付き合ってくれるんですか?」
僕らは二人とも、パソコンに向かっている。眉間に皺を寄せ、絶え間なく指を動かし続けている。閉じかける瞼を慌てて開くことをもう百回以上は繰り返している。
「あのな神崎、部下の責任は上司の責任だ。だから私もやる必要があるんだ」
水島先輩はため息交じりにそう言うけれど、理由がそれだけでないことは僕にはわかっていた。
わかっていて、あえて意地悪で言ったのだ。
「へえ、それだけですか……?」
「あのな神崎、普段ならそういうからかいも嫌いじゃないけど、今は残業中で、私はお前のために残ってやってるんだ」
「は、はい」
「その辺の事情、分かってもらえたら『先輩として』私は嬉しんだが?」
「わかりました! すみませんでした調子に乗りました!」
「わかればよろしい。ほら、手を動かせ手を」
そう言いつつも、先輩はどこか嬉しそうにしているのを僕は見逃さなかった。
水島先輩がいてくれてよかった。さもなければ、僕の会社員としての生命が終わっていたかもしれない。
僕らはそれから、必要事項以外の事は喋らずに、懸命に指を動かし続けた。
そして、日付が変わろうかというその時、ようやく終わりが来た。
「これで、完了だな」
「ですね! 本当に、ありがとうございます!」
「感謝しろよ? それから、今後は同じミスはないように」
「わかりました! ほんとうに、ありがとね、瑞希ちゃん」
「馬鹿。会社でその呼び方はやめろ……翔真」
瑞希はとても可愛い。同期のみんなは瑞希のことを怖がっているみたいだけど。
僕からすれば瑞希は可愛い女性で、僕の最高の彼女だ。
仕事をすべて終わらせられてので、僕らは帰る準備を始めた。
ただし、帰ったところで、数時間後にはまたここにいることになる。帰る意味ってあんのこれ。
「ところで、一つ聞きたいんだが」
「なんですか?」
真面目な声音であることを察し、僕は咄嗟に『部下モード』に入る。
「昨日の夏祭りは誰と行ってたんだ?」
僕の生命は今日、終わるかもしれない。
会社員としてではなく、生物としての生命が。




