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水の声を聞く女

作者: をはち
掲載日:2026/10/01

死者の声を聞く女が、最後に聞いたのは“ありがとう”だった。


彼女が初めて死者の声を聞いたのは、山あいの小さな川のほとりだった。


せせらぎが岩を撫でる音の隙間に、誰かの吐息のようなささやきが混じっていた。


名前も顔も知らぬ人の声だった。あの世へ、と誘うような、優しくも冷たい響き。彼女は思わず耳を澄まし、やがてその声に応えてしまった。


危うく、命を失いかけた――最初は自然の川だけだった。


だが年を経るごとに、声は彼女を追いかけてきた。湧き水の細流、井戸の底、人工の水路。


やがて雨粒が窓を叩く音の中にも、水道の蛇口から流れ落ちる水の中にも、風呂に張った湯の中にも、死者たちは潜むようになった。


声は日に日に増え、夜も昼も、彼女の鼓膜を揺らし続けた。ある日の昼下ががり、食事の最中に、コップの水が微かに揺れた。


そこから、はっきりと誰かの声が聞こえた。


彼女はとっさに、手元の箸を両耳に突き刺した。


激痛と血と、そして突然の静寂。


聴覚は、完全に失われた。それからしばらくして、隣のアパートに母子が引っ越してきた。


シングルの母親と、まだ幼い娘。


娘はいつも母親と縁側で折り紙を折っていた。白い紙を丁寧に折り、鶴を作る。


彼女が通りかかると、娘は無邪気に一羽ずつ差し出した。


鶴には小さな手紙が添えられていた。おぼつかない文字で、こう書かれていた。


「おねえちゃんの耳が治りますように」


私のために鶴を千羽、折ってくれるらしい。


彼女はただ頷き、毎日その鶴を受け取った。ある雨の午後、母子は買い物に出かけた。


歩道を歩いていたとき、車が突然突っ込んできた。


母親はとっさに娘をかばい、自分の体を盾にした。


母親は一命を取り留めたが、意識は戻らなかった。


娘は、息を引き取った。その夜、彼女の部屋に、濡れた服のままの少女が立っていた。


泣きながら、何かを必死に訴えている。


口は動いているのに、声は届かない。


以前なら聞こえたはずのその声が、今はただの沈黙だった。


それでも彼女には、なんとなくわかった。


「鶴が、千羽に…」


彼女は娘の代わりに、千羽の鶴を折り始めた。


昼も夜も、白い紙を折り続けた。指が痛み、紙が血で染まる日もあった。


ようやく千羽が揃った夜、彼女は意識のない母親の病室へ鶴を届けた。


その夜、満面の笑みを浮かべた少女が再び現れた。


彼女の失われた耳に、直接、触れるようにして言った。


「ありがとう」


そして、静かに消えた。彼女の世界は、再び沈黙に包まれた。


だが、その沈黙の中には、もう死者の声はなかった。


ただ、遠い川のせせらぎのような、優しい余韻だけが残っていた。


読んで頂き有り難う御座います。

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