水の声を聞く女
死者の声を聞く女が、最後に聞いたのは“ありがとう”だった。
彼女が初めて死者の声を聞いたのは、山あいの小さな川のほとりだった。
せせらぎが岩を撫でる音の隙間に、誰かの吐息のようなささやきが混じっていた。
名前も顔も知らぬ人の声だった。あの世へ、と誘うような、優しくも冷たい響き。彼女は思わず耳を澄まし、やがてその声に応えてしまった。
危うく、命を失いかけた――最初は自然の川だけだった。
だが年を経るごとに、声は彼女を追いかけてきた。湧き水の細流、井戸の底、人工の水路。
やがて雨粒が窓を叩く音の中にも、水道の蛇口から流れ落ちる水の中にも、風呂に張った湯の中にも、死者たちは潜むようになった。
声は日に日に増え、夜も昼も、彼女の鼓膜を揺らし続けた。ある日の昼下ががり、食事の最中に、コップの水が微かに揺れた。
そこから、はっきりと誰かの声が聞こえた。
彼女はとっさに、手元の箸を両耳に突き刺した。
激痛と血と、そして突然の静寂。
聴覚は、完全に失われた。それからしばらくして、隣のアパートに母子が引っ越してきた。
シングルの母親と、まだ幼い娘。
娘はいつも母親と縁側で折り紙を折っていた。白い紙を丁寧に折り、鶴を作る。
彼女が通りかかると、娘は無邪気に一羽ずつ差し出した。
鶴には小さな手紙が添えられていた。おぼつかない文字で、こう書かれていた。
「おねえちゃんの耳が治りますように」
私のために鶴を千羽、折ってくれるらしい。
彼女はただ頷き、毎日その鶴を受け取った。ある雨の午後、母子は買い物に出かけた。
歩道を歩いていたとき、車が突然突っ込んできた。
母親はとっさに娘をかばい、自分の体を盾にした。
母親は一命を取り留めたが、意識は戻らなかった。
娘は、息を引き取った。その夜、彼女の部屋に、濡れた服のままの少女が立っていた。
泣きながら、何かを必死に訴えている。
口は動いているのに、声は届かない。
以前なら聞こえたはずのその声が、今はただの沈黙だった。
それでも彼女には、なんとなくわかった。
「鶴が、千羽に…」
彼女は娘の代わりに、千羽の鶴を折り始めた。
昼も夜も、白い紙を折り続けた。指が痛み、紙が血で染まる日もあった。
ようやく千羽が揃った夜、彼女は意識のない母親の病室へ鶴を届けた。
その夜、満面の笑みを浮かべた少女が再び現れた。
彼女の失われた耳に、直接、触れるようにして言った。
「ありがとう」
そして、静かに消えた。彼女の世界は、再び沈黙に包まれた。
だが、その沈黙の中には、もう死者の声はなかった。
ただ、遠い川のせせらぎのような、優しい余韻だけが残っていた。
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