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婚約破棄された薬草令嬢は、冷酷な辺境伯に春を届ける

作者: くるみ
掲載日:2026/06/29

「エリス・ローレン。私は今ここで、お前との婚約を破棄する」


王宮の夜会場に、第二王子アーヴィン殿下の声が響いた。

楽団の音が止まり、貴族たちの視線が一斉に私へ集まる。

私は、手にしていた葡萄酒の杯を静かに置いた。


驚かなかった。

いいえ、少しだけ驚いた。

婚約破棄そのものにではない。

この方は、本当に人前でそれをなさるのだ、と思ったのだ。


「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」


私が尋ねると、殿下は勝ち誇ったように顎を上げた。


「お前は王子妃にふさわしくない。地味で、愛想がなく、いつも薬草の匂いがする。私の隣に立つべき女性は、もっと華やかで、民に愛される存在でなければならない」


殿下の隣で、淡い桃色のドレスを着た少女が小さく震えた。

ミリア・カレット男爵令嬢。

社交界に現れたばかりの、可憐な令嬢である。

彼女は涙を浮かべ、殿下の袖を掴んだ。


「殿下、私のために争わないでください。エリス様は、きっと悪気があったわけでは……」


「ミリア、君は優しすぎる」


殿下は彼女の手を取り、私を睨んだ。


「エリス。お前はミリアの薬湯に毒草を混ぜたそうだな」


夜会場がざわめいた。

私は、ゆっくりと瞬きをした。


「毒草、ですか」


「ああ。ミリアはお前の薬湯を飲んだ後、倒れた。証人もいる」


ミリア嬢は、か細い声で言った。


「私、エリス様に嫌われているのだと思います。殿下と親しくしていただけなのに……」


なるほど。

そういう筋書きか。

私は思わず感心した。

薬草の匂いがする女を捨てる理由としては、なかなかよくできている。


だが、ひとつだけ惜しい。

薬草のことを、私以上に知っている人間は、この王都にはほとんどいない。


「その薬湯は、まだ残っていますか」


私が尋ねると、殿下は眉をひそめた。


「何?」


「私が毒を入れたという薬湯です。調べればすぐに分かります」


「言い逃れをする気か」


「いいえ。確認をしたいだけです」


その時、夜会場の入口から低い声がした。


「ならば、私が確認しよう」


人々が振り返る。

そこに立っていたのは、黒い礼服をまとった長身の男性だった。


銀灰色の髪。深い青の瞳。

左手には黒い手袋をはめている。


北方辺境伯、カイル・ヴァーレン様。

王国の北に広がる凍土を守る、若き辺境伯である。

魔獣との戦で右目の下に傷を負い、冷酷な狼伯と恐れられている方だった。


けれど、私は知っている。

彼が、雪に埋もれた村へ誰よりも早く食料を届けたことを。

薬師が足りない北方のために、王都の医学院へ何度も支援を求めていたことを。

そして、誰にも知られぬよう、私の薬草園に資金を援助してくれていたことを。


殿下は不快そうに顔を歪めた。


「ヴァーレン辺境伯。これは私と婚約者の問題だ」


「婚約を破棄するなら、もはや婚約者ではありますまい」


静かな声だった。

けれど、その場にいる誰もが黙った。

カイル様は私を見た。


「ローレン嬢。その薬湯の鑑定を、私に任せていただけるか」


「もちろんです」


私は一礼した。

カイル様は近衛兵に命じ、ミリア嬢が飲んだという薬湯の残りを持ってこさせた。


銀の小瓶に入った薄緑の液体。

蓋を開けた瞬間、私は匂いで分かった。

毒ではない。

だが、薬でもない。


「これは……」


私が言う前に、カイル様が口を開いた。


「眠り草、月白花、そして甘香草。毒ではない。強い眠気と発熱に似た症状を起こす調合だ」


私は少し驚いた。


「よくご存じですね」


「北方では、魔獣に襲われた子どもを落ち着かせるため、似た調合を使うことがある。ただし、これは量が多い」


カイル様は小瓶を見つめ、続けた。


「この調合は、薬師ならば毒とは呼ばない。だが、薬草を知らぬ者には、毒に見える」


ミリア嬢の顔色が変わった。

殿下は叫んだ。


「それなら、なおさらエリスが怪しいではないか!」


「いいえ」


私は静かに答えた。


「私は月白花を薬湯に使いません。私は月白花の粉末に軽い過敏症があるのです」


「そんな……」


ミリア嬢が言いかけて、止まった。

私は微笑んだ。


「それに、私の薬草園にある月白花は、三日前にすべて北方へ送りました。凍傷の薬に必要だと、ヴァーレン辺境伯から依頼がありましたので」


カイル様が頷いた。


「確かに受け取った。証文もある」


殿下の顔から、余裕が消えた。


「ならば、誰が」


誰も答えなかった。

答えは、すでに皆の視線の先にあった。

ミリア嬢は震えながら後ずさった。


「私、そんなつもりでは……ただ、少し倒れれば、殿下が心配してくださると思って……」


夜会場が騒然となった。

殿下は呆然とミリア嬢を見た。


「ミリア、君が自分で?」


「だって、殿下が最近、またエリス様の薬草園の話ばかりなさるから……」


「私は、そんな話を」


「なさいました!」


ミリア嬢の声が鋭くなった。


「エリス様は地味だとおっしゃりながら、いつもエリス様の薬の効果を褒めていらしたではありませんか。王妃様も、エリス様の薬茶でよく眠れるようになったと。陛下も、北方への支援薬はエリス様に任せればよいと。皆、皆、エリス様ばかり!」


その叫びに、夜会場は水を打ったように静まり返った。


殿下は、ようやく理解したようだった。

私がただの地味な令嬢ではなかったことを。

ローレン子爵家は、爵位こそ高くない。

けれど、代々王家の薬草園を管理してきた家だ。


私は王子妃教育のかたわら、王妃様の不眠を和らげる薬茶を調合し、北方の凍傷薬を改良し、貧民街の子どもたちへ無償で薬を配っていた。


華やかではない。

舞踏会の中心にもいない。

けれど、私には私の仕事があった。


「エリス」


殿下が一歩近づいた。

その声には、先ほどまでの傲慢さがなかった。


「今の婚約破棄は、少し行き違いがあった。考え直してもよい」


あまりにも都合のよい言葉だった。

私は、静かに首を振った。


「殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたします」


殿下の顔が強張った。


「エリス、待て。私は王子だぞ」


「存じております」


「ならば、分かるだろう。お前は私と結婚するのが一番幸せだ」


私は、初めて少しだけ笑った。


「いいえ、殿下」


私は胸に手を当て、一礼した。


「私は今日、自分を信じてくださらない方の隣に立つ不幸から、解放されました」


殿下は言葉を失った。

その時、カイル様が一歩前に出た。


「ならば、ローレン嬢。北方へ来ていただけないだろうか」


突然の言葉に、私は目を瞬いた。


「北方へ、ですか」


「ああ。北方には薬師が足りない。雪に閉ざされる村も多く、薬草の栽培も難しい。あなたの知識が必要だ」


彼は、まっすぐ私を見た。


「それに、私は以前から、あなたの作る薬に救われてきた」


夜会場がざわめいた。


カイル様は続けた。


「北方の兵士たちは、あなたの凍傷薬で指を失わずに済んだ。村の子どもたちは、あなたの咳止めで冬を越した。私の領地には、あなたに礼を言いたい者が大勢いる」


胸の奥が、きゅっと痛んだ。

私はただ、できることをしていただけだった。

王子妃として認められたくて。

誰かの役に立てば、いつか殿下も私を見てくださるかもしれないと思って。


けれど、私を見てくれていたのは、別の人だった。


「もちろん、無理にとは言わない」


カイル様は少しだけ視線を落とした。


「北方は寒い。王都ほど華やかでもない。だが、あなたの薬草園を作る土地は用意する。温室も建てよう。研究費も出す」


「研究費」


思わず声が出た。

カイル様の表情が、ほんの少し和らいだ。


「王都の三倍でどうだろう」


「行きます」


即答だった。

夜会場の空気が固まった。

カイル様も、一瞬だけ目を丸くした。

私は咳払いをした。


「いえ、その、北方の方々のお役に立てるなら」


「研究費が三倍だからではなく?」


「……それも、少し」


カイル様が笑った。


冷酷な狼伯。

そう呼ばれる人の笑顔は、雪解けの陽だまりのように優しかった。


「正直な方だ」


「薬の調合に、嘘は混ぜられませんので」


「ならば、良い薬師になれる」


「もう薬師です」


「では、最高の薬師に」


その言葉に、胸が温かくなった。

殿下が慌てて声を上げた。


「待て。エリスは私の元婚約者だ。勝手に連れて行くな」


カイル様は冷静に答えた。


「婚約は、殿下ご自身が破棄された」


「それは」


「それに、彼女は物ではない。どこへ行くかは、彼女が決める」


その瞬間、私は決めた。

この人の領地へ行こう。

この人のそばで、私の薬を必要としてくれる人々のために働こう。

そこに恋があるかは、まだ分からない。

けれど、少なくとも私は、初めて自分の足で未来を選べた気がした。


数日後、正式に婚約破棄が成立した。

ミリア嬢は虚偽の告発により、男爵家で謹慎となった。

第二王子殿下は、王妃様の怒りを買い、王位継承権を大きく下げられたと聞く。


そして私は、王都を発った。

馬車の中には、薬草の種を詰めた箱がいくつも積まれている。

向かいの席には、カイル様が座っていた。


「寒くはないか」


「大丈夫です」


「疲れていないか」


「大丈夫です」


「本当に北方でよかったのか」


私は窓の外を見た。

王都の白い塔が、少しずつ遠ざかっていく。

不思議と、寂しくはなかった。


「カイル様」


「何だ」


「北方には、春が遅いと聞きました」


「ああ。雪が長い」


「では、私が少し早く春を届けます」


カイル様は、しばらく黙っていた。

それから、静かに微笑んだ。


「それは、心強い」


北方に着いたのは、雪の降る夕暮れだった。

領主館の前には、兵士や村人たちが集まっていた。

皆、厚い外套に身を包み、頬を赤くしている。


私が馬車から降りると、一人の小さな女の子が駆け寄ってきた。


「薬草のお姉さま?」


私は膝をついた。


「はい。エリスと申します」


女の子は、両手で小さな布袋を差し出した。

中には、乾燥させた青い花が入っていた。


「これ、北の花。お姉さまにあげます。お薬に使える?」


私は花を受け取った。

冷たい風の中で咲く、淡い青の花。

まだ名前も知らない。

けれど、きっと何かに使える。


「ありがとう。大切に調べますね」


女の子は嬉しそうに笑った。

その笑顔を見た瞬間、私は思った。

ああ、ここでなら私は、誰かの飾りではなく、誰かの役に立つ人になれる。

春を待つ土地で、春を作る人になれる。

隣に立つカイル様が、そっと私の肩に外套をかけてくれた。


「ようこそ、北方へ。エリス」


初めて名前を呼ばれた。

それだけのことなのに、胸の奥で小さな芽が出たような気がした。


私は青い花を胸に抱き、雪の向こうに広がる領地を見つめた。

婚約破棄された夜、私の人生は終わったのだと思った。


けれど、違った。

あれは、私を寒い檻から出すための扉だったのだ。

そして今、扉の向こうには、長い冬と、優しい領主と、まだ誰も知らない薬草が待っている。

私は、静かに微笑んだ。


「よろしくお願いいたします、カイル様」


雪が降っていた。

けれど、その日から北方には、少しずつ春が近づき始めた。

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