婚約破棄された薬草令嬢は、冷酷な辺境伯に春を届ける
「エリス・ローレン。私は今ここで、お前との婚約を破棄する」
王宮の夜会場に、第二王子アーヴィン殿下の声が響いた。
楽団の音が止まり、貴族たちの視線が一斉に私へ集まる。
私は、手にしていた葡萄酒の杯を静かに置いた。
驚かなかった。
いいえ、少しだけ驚いた。
婚約破棄そのものにではない。
この方は、本当に人前でそれをなさるのだ、と思ったのだ。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
私が尋ねると、殿下は勝ち誇ったように顎を上げた。
「お前は王子妃にふさわしくない。地味で、愛想がなく、いつも薬草の匂いがする。私の隣に立つべき女性は、もっと華やかで、民に愛される存在でなければならない」
殿下の隣で、淡い桃色のドレスを着た少女が小さく震えた。
ミリア・カレット男爵令嬢。
社交界に現れたばかりの、可憐な令嬢である。
彼女は涙を浮かべ、殿下の袖を掴んだ。
「殿下、私のために争わないでください。エリス様は、きっと悪気があったわけでは……」
「ミリア、君は優しすぎる」
殿下は彼女の手を取り、私を睨んだ。
「エリス。お前はミリアの薬湯に毒草を混ぜたそうだな」
夜会場がざわめいた。
私は、ゆっくりと瞬きをした。
「毒草、ですか」
「ああ。ミリアはお前の薬湯を飲んだ後、倒れた。証人もいる」
ミリア嬢は、か細い声で言った。
「私、エリス様に嫌われているのだと思います。殿下と親しくしていただけなのに……」
なるほど。
そういう筋書きか。
私は思わず感心した。
薬草の匂いがする女を捨てる理由としては、なかなかよくできている。
だが、ひとつだけ惜しい。
薬草のことを、私以上に知っている人間は、この王都にはほとんどいない。
「その薬湯は、まだ残っていますか」
私が尋ねると、殿下は眉をひそめた。
「何?」
「私が毒を入れたという薬湯です。調べればすぐに分かります」
「言い逃れをする気か」
「いいえ。確認をしたいだけです」
その時、夜会場の入口から低い声がした。
「ならば、私が確認しよう」
人々が振り返る。
そこに立っていたのは、黒い礼服をまとった長身の男性だった。
銀灰色の髪。深い青の瞳。
左手には黒い手袋をはめている。
北方辺境伯、カイル・ヴァーレン様。
王国の北に広がる凍土を守る、若き辺境伯である。
魔獣との戦で右目の下に傷を負い、冷酷な狼伯と恐れられている方だった。
けれど、私は知っている。
彼が、雪に埋もれた村へ誰よりも早く食料を届けたことを。
薬師が足りない北方のために、王都の医学院へ何度も支援を求めていたことを。
そして、誰にも知られぬよう、私の薬草園に資金を援助してくれていたことを。
殿下は不快そうに顔を歪めた。
「ヴァーレン辺境伯。これは私と婚約者の問題だ」
「婚約を破棄するなら、もはや婚約者ではありますまい」
静かな声だった。
けれど、その場にいる誰もが黙った。
カイル様は私を見た。
「ローレン嬢。その薬湯の鑑定を、私に任せていただけるか」
「もちろんです」
私は一礼した。
カイル様は近衛兵に命じ、ミリア嬢が飲んだという薬湯の残りを持ってこさせた。
銀の小瓶に入った薄緑の液体。
蓋を開けた瞬間、私は匂いで分かった。
毒ではない。
だが、薬でもない。
「これは……」
私が言う前に、カイル様が口を開いた。
「眠り草、月白花、そして甘香草。毒ではない。強い眠気と発熱に似た症状を起こす調合だ」
私は少し驚いた。
「よくご存じですね」
「北方では、魔獣に襲われた子どもを落ち着かせるため、似た調合を使うことがある。ただし、これは量が多い」
カイル様は小瓶を見つめ、続けた。
「この調合は、薬師ならば毒とは呼ばない。だが、薬草を知らぬ者には、毒に見える」
ミリア嬢の顔色が変わった。
殿下は叫んだ。
「それなら、なおさらエリスが怪しいではないか!」
「いいえ」
私は静かに答えた。
「私は月白花を薬湯に使いません。私は月白花の粉末に軽い過敏症があるのです」
「そんな……」
ミリア嬢が言いかけて、止まった。
私は微笑んだ。
「それに、私の薬草園にある月白花は、三日前にすべて北方へ送りました。凍傷の薬に必要だと、ヴァーレン辺境伯から依頼がありましたので」
カイル様が頷いた。
「確かに受け取った。証文もある」
殿下の顔から、余裕が消えた。
「ならば、誰が」
誰も答えなかった。
答えは、すでに皆の視線の先にあった。
ミリア嬢は震えながら後ずさった。
「私、そんなつもりでは……ただ、少し倒れれば、殿下が心配してくださると思って……」
夜会場が騒然となった。
殿下は呆然とミリア嬢を見た。
「ミリア、君が自分で?」
「だって、殿下が最近、またエリス様の薬草園の話ばかりなさるから……」
「私は、そんな話を」
「なさいました!」
ミリア嬢の声が鋭くなった。
「エリス様は地味だとおっしゃりながら、いつもエリス様の薬の効果を褒めていらしたではありませんか。王妃様も、エリス様の薬茶でよく眠れるようになったと。陛下も、北方への支援薬はエリス様に任せればよいと。皆、皆、エリス様ばかり!」
その叫びに、夜会場は水を打ったように静まり返った。
殿下は、ようやく理解したようだった。
私がただの地味な令嬢ではなかったことを。
ローレン子爵家は、爵位こそ高くない。
けれど、代々王家の薬草園を管理してきた家だ。
私は王子妃教育のかたわら、王妃様の不眠を和らげる薬茶を調合し、北方の凍傷薬を改良し、貧民街の子どもたちへ無償で薬を配っていた。
華やかではない。
舞踏会の中心にもいない。
けれど、私には私の仕事があった。
「エリス」
殿下が一歩近づいた。
その声には、先ほどまでの傲慢さがなかった。
「今の婚約破棄は、少し行き違いがあった。考え直してもよい」
あまりにも都合のよい言葉だった。
私は、静かに首を振った。
「殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
殿下の顔が強張った。
「エリス、待て。私は王子だぞ」
「存じております」
「ならば、分かるだろう。お前は私と結婚するのが一番幸せだ」
私は、初めて少しだけ笑った。
「いいえ、殿下」
私は胸に手を当て、一礼した。
「私は今日、自分を信じてくださらない方の隣に立つ不幸から、解放されました」
殿下は言葉を失った。
その時、カイル様が一歩前に出た。
「ならば、ローレン嬢。北方へ来ていただけないだろうか」
突然の言葉に、私は目を瞬いた。
「北方へ、ですか」
「ああ。北方には薬師が足りない。雪に閉ざされる村も多く、薬草の栽培も難しい。あなたの知識が必要だ」
彼は、まっすぐ私を見た。
「それに、私は以前から、あなたの作る薬に救われてきた」
夜会場がざわめいた。
カイル様は続けた。
「北方の兵士たちは、あなたの凍傷薬で指を失わずに済んだ。村の子どもたちは、あなたの咳止めで冬を越した。私の領地には、あなたに礼を言いたい者が大勢いる」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
私はただ、できることをしていただけだった。
王子妃として認められたくて。
誰かの役に立てば、いつか殿下も私を見てくださるかもしれないと思って。
けれど、私を見てくれていたのは、別の人だった。
「もちろん、無理にとは言わない」
カイル様は少しだけ視線を落とした。
「北方は寒い。王都ほど華やかでもない。だが、あなたの薬草園を作る土地は用意する。温室も建てよう。研究費も出す」
「研究費」
思わず声が出た。
カイル様の表情が、ほんの少し和らいだ。
「王都の三倍でどうだろう」
「行きます」
即答だった。
夜会場の空気が固まった。
カイル様も、一瞬だけ目を丸くした。
私は咳払いをした。
「いえ、その、北方の方々のお役に立てるなら」
「研究費が三倍だからではなく?」
「……それも、少し」
カイル様が笑った。
冷酷な狼伯。
そう呼ばれる人の笑顔は、雪解けの陽だまりのように優しかった。
「正直な方だ」
「薬の調合に、嘘は混ぜられませんので」
「ならば、良い薬師になれる」
「もう薬師です」
「では、最高の薬師に」
その言葉に、胸が温かくなった。
殿下が慌てて声を上げた。
「待て。エリスは私の元婚約者だ。勝手に連れて行くな」
カイル様は冷静に答えた。
「婚約は、殿下ご自身が破棄された」
「それは」
「それに、彼女は物ではない。どこへ行くかは、彼女が決める」
その瞬間、私は決めた。
この人の領地へ行こう。
この人のそばで、私の薬を必要としてくれる人々のために働こう。
そこに恋があるかは、まだ分からない。
けれど、少なくとも私は、初めて自分の足で未来を選べた気がした。
数日後、正式に婚約破棄が成立した。
ミリア嬢は虚偽の告発により、男爵家で謹慎となった。
第二王子殿下は、王妃様の怒りを買い、王位継承権を大きく下げられたと聞く。
そして私は、王都を発った。
馬車の中には、薬草の種を詰めた箱がいくつも積まれている。
向かいの席には、カイル様が座っていた。
「寒くはないか」
「大丈夫です」
「疲れていないか」
「大丈夫です」
「本当に北方でよかったのか」
私は窓の外を見た。
王都の白い塔が、少しずつ遠ざかっていく。
不思議と、寂しくはなかった。
「カイル様」
「何だ」
「北方には、春が遅いと聞きました」
「ああ。雪が長い」
「では、私が少し早く春を届けます」
カイル様は、しばらく黙っていた。
それから、静かに微笑んだ。
「それは、心強い」
北方に着いたのは、雪の降る夕暮れだった。
領主館の前には、兵士や村人たちが集まっていた。
皆、厚い外套に身を包み、頬を赤くしている。
私が馬車から降りると、一人の小さな女の子が駆け寄ってきた。
「薬草のお姉さま?」
私は膝をついた。
「はい。エリスと申します」
女の子は、両手で小さな布袋を差し出した。
中には、乾燥させた青い花が入っていた。
「これ、北の花。お姉さまにあげます。お薬に使える?」
私は花を受け取った。
冷たい風の中で咲く、淡い青の花。
まだ名前も知らない。
けれど、きっと何かに使える。
「ありがとう。大切に調べますね」
女の子は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は思った。
ああ、ここでなら私は、誰かの飾りではなく、誰かの役に立つ人になれる。
春を待つ土地で、春を作る人になれる。
隣に立つカイル様が、そっと私の肩に外套をかけてくれた。
「ようこそ、北方へ。エリス」
初めて名前を呼ばれた。
それだけのことなのに、胸の奥で小さな芽が出たような気がした。
私は青い花を胸に抱き、雪の向こうに広がる領地を見つめた。
婚約破棄された夜、私の人生は終わったのだと思った。
けれど、違った。
あれは、私を寒い檻から出すための扉だったのだ。
そして今、扉の向こうには、長い冬と、優しい領主と、まだ誰も知らない薬草が待っている。
私は、静かに微笑んだ。
「よろしくお願いいたします、カイル様」
雪が降っていた。
けれど、その日から北方には、少しずつ春が近づき始めた。




