モノリス
地面を掘るような音が聞こえて、僕は足を止めた。いつもの、ひとりで辿る学校からの帰路。額の汗を拭って耳を澄ますと、ヒグラシの鳴き声に混じりながらザックザックと土を削る音が聞こえてくる。おそらく横に見える小さな神社の奥にある雑木林からだ。決して大きくはないその音は、まるで僕を誘うかのように同じリズムで耳に届いてくる。
中学に上がって一年、こんなことは初めてだった。気づけば、僕は音のする方へと足を向けていた。神社の中は狭く、まったく人気が無い。拝殿の脇を抜けて雑木林に入ると急に薄暗くなり、木立の間をすり抜けた風が湧き出た汗を奪って肌寒さを覚えた。
中ほどまで進んだところで、僕は慌てて木陰に身を潜めた。恐る恐る顔を出すと、穴を掘る人の後ろ姿が見えた。ただ後ろ姿と言っても、下半身は穴に隠れて上半身しか見えない。坊主頭で肩幅の広いがっしりとした体形。おそらく男だろう。丸い眼鏡をかけているのか、木漏れ日を受けて目元が時折、妖しく光る。穴のそばには芋虫のような形のブルーシートと見慣れない道具の入ったかごあった。ブルーシートは少なくとも一メートルはある大きさで、かごの中には理科室でしか見ないような乳白色のボトルが入っている。
ざわっと背中に悪寒が走った。今までに募った予感が具体的なイメージとなって頭に浮かぶ。警察に通報した方がいいだろうか。咄嗟にポケットに入れたスマホに手を伸ばすが、震えてうまく取り出すことができない。いや、そもそもここで電話をかけたら話し声で男に気づかれるかもしれない。もし見つかってしまったら……。なんにせよ、ひとまずこの場を離れよう。僕は背中で男の気配を感じながら足を踏み出した。その瞬間——。
パキッ。
右足が枯れ枝を真っ二つに割った。反射的に振り返ると、男がこちらを向いていた。西日を受けて不気味に光る目がまっすぐ僕を捉えている。捕食者が獲物を狙うみたいにまっすぐ。気づけば僕は神社の方へ走り出していた。溢れ出る恐怖心が神経の束を掴み身体を支配していた。一度も後ろを振り返ることなく、僕は家まで走り続けた。
次の日、僕は学校の帰りに再び小さな神社の前で立ち止まった。相変わらず神社には人気がない。耳を澄ましても、今日はヒグラシの鳴き声や風でなびく枝葉の音だけで土を削る音は聞こえてこない。
神社の中を見渡して、あることに気づいた。昨夜から今日の昼にかけて雨が降っていたのに、神社の中には足跡がひとつも見当たらないのだ。舗装されていない地面に足跡がひとつもない。それはつまり、あの男が去ってから今に至るまで誰もここには訪れていない、ということの証だった。
ごくり、と喉が鳴った。そして頭を振って周りに誰もいないことを確認して、僕は神社の奥の雑木林へと向かった。
ところどころにある水たまりを避けながら奥へと進んでいく。雑木林の中は湿気が溜まってむしむしとしている。肌にまとわりついてくる空気を振り切るように僕は前に前にと足を運ぶ。頭の中では昨日見た光景が再生されていた。あの男はなにをしていたのか。予想はしている。けれど確信はない。だから少しでも手がかりが欲しい。
ひらけた場所に出て僕は足を止めた。よく見ると、湿った地面の中でも一メートル四方くらいの範囲だけ妙にでこぼことしていた。土の色も少し違う。ここが現場だ。きっとここに……。僕は唾を飲み込んでから屈んで震える手を地面に伸ばした。心臓の激しい脈動によって身体全体が震えていた。
「掘り返してもなにもないぞ」
突如として降ってきた声に僕は思わず身体ごと振り返った。その勢いが強すぎてバランスを崩し、ぬかるんだ地面に尻餅をついた。顔を上げると、昨日の男が立っていた。丸い眼鏡をかけていて、その奥からは細く鋭い目を覗かせている。男は無表情のまま僕を見下ろしていた。
腰が抜けてしまい、動くことができなかった。声を出そうにも、喉が開かない。僕は体勢を変えられず、男も微動だにしないまま、お互いに無言で向かい合っていた。手のひらに伝わる生温い泥の感触が居心地の悪さに拍車をかける。
「驚かせたか」
ややあって男が口を開いた。あまりに平坦な口調で感情が読めない。少なくとも、驚かせて悪いと思っている感じはしない。だけど、僕がここにいることに怒っているようにも見えない。
「立てるか?」
いまだ動けずにいる僕に男は再び声をかけた。一応は気遣ってくれているのだろうか。やはり無愛想な言い方だったが、その一言で多少は緊張が解けたのか、僕はゆっくりと身体を起こすことができた。
改めて向かい合うと、男は僕よりもずっと身長が高かった。中学生男子の平均身長である僕よりも十センチ以上はデカい。男は高い位置から僕の頭、顔、手、足と順番にチェックするように視線を下ろしていく。
「制服が汚れているな」
男に言われて僕は自分の身体を見回した。お尻の部分は当然としてズボンの裾やふくらはぎ、さらには白シャツにもかなり泥が跳ねていた。そのひどいありさまに、思わず「うわぁ……」と声が漏れた。どうしよう。このまま家に帰れば、間違いなく母親が騒ぐ。いろいろなことを勘ぐって、父親に相談して、下手をすれば学校にまで話が及ぶ。もしそうなったら、今よりもっとひどいことに……。次々に湧き上がる懸念が濃厚な霧となって脳内に充満した。他の思考はすべて追い出され、僕は人形のように固まってしまった。
「ウチがすぐ近くにある。寄っていきなさい」
途方に暮れている僕を見かねたのか、男がそう言った。突然の提案に僕は「え?」と聞き返した。言葉は聞き取れても、その意味を捉えきれなかった。
固まっている僕をよそに男は踵を返して歩き出した。おそらく、付いてこい、ということなのだろう。少し考えて、僕は男の後を追った。
男の家は神社から歩いて五分くらいの場所にある小ぶりな一軒家だった。古い木造の平屋建てで、祖父母の家を思わせる外見だったが、中はフローリングで洋風だった。「お邪魔します」と言って靴を脱ごうとする僕に、男は「ここで待っていなさい」と制した。先に部屋に入った男は、ほどなくしてタオルと着替えを持って戻ってきた。そして僕を脱衣所に通すと、今度は「身体を拭いて着替えなさい」と言って脱衣所から出て行った。僕は言われるがまま、受け取ったタオルで身体を拭き、汚れた制服を脱いで着替えた。男の持ってきた着替えは上下のスウェットで、僕にはサイズが大きかった。汚れた制服とタオルはひとまず空の洗濯機に入れた。
手持ち無沙汰になり、僕は男を探した。脱衣所を出て左手側にある扉を開けると、広めのリビングだった。広さの割に物が少ない、殺風景な空間。見回しても男の姿はなかったが、右手側にある二つの扉の内のひとつが少し空いていた。近寄って中を覗くと、椅子に座っている男の後ろ姿が見えた。机に向かってなにか作業をしている。
僕は静かに扉を開けて中に入り、「あの……」と恐る恐る声をかけた。男はゆっくりと振り返り、僕の姿を認めると、なにも言わず僕の横を通りすぎて部屋を出ていった。再び手持ち無沙汰になってしまい、僕はぐるりと部屋を見回した。ここは男の仕事部屋なのだろう。机の上には紙の束が置かれており、周囲の壁は本で覆われている。そんな中、四方の壁の一辺だけ本棚ではないものが支配していた。
それは長方形の木枠に入った土の塊だった。僕の腰ぐらいほどの縦長の木枠に数センチくらいの厚みで土が敷き詰められている。同じ大きさの木枠が二つ並んでいるが、土の色はまったく違う。一方は全体的に少し青味を帯びた灰色で一番上は褐色、もう一方は全体的に褐色だが一番上は黒味が強い。
これはいったいなんなのだろう?
「それはモノリスだ」
背後からの声に僕は勢いよく振り返った。いつの間にか男が戻ってきていた。壁越しに聞こえるゴウンゴウンという音で、男が洗濯機を動かしに行っていたのだと悟る。
「モノリス?」
急に捻ったせいで痛む首筋をさすりながら僕は聞き返した。
「ああ。土壌モノリス。日本語で言うと土壌断面標本」
土壌断面標本。つまりは地面の標本ということだろう。よく見てみると、確かに掘った穴の断面を切り取ったみたいだった。表面はでこぼこしていて、植物の根っこのようなものも見える。
「普段目にすることはないが、地面を掘って出てきた断面というのは環境の影響を受けていろんな様相を見せる。表面は同じに見えても、環境が違えば土壌の性質は大きく変化し、断面にはその変化が表れる」
例えば、と男は言って、褐色のモノリスを指さした。
「これはあの雑木林の土壌断面だ」
男はそこで言葉を切り、今度は笑い交じりに呟いた。
「ひとりでこれを作るのは大変だったな」
それって、まさか。再び男の方を振り返ると、僕の心中を察したかのように男はニヤリと笑った。
「大の大人があんな大穴を掘るなんて、土壌断面を見るときか、人を埋める時くらいだろうな」
どうやら僕は勘違いをしていたらしい。そしてそれはまんまと男に見抜かれていた。力が抜けるようにため息が漏れ、それを聞いた男が小さく笑った。
「期待していたか?」
「え?」
「今日あの場所に来ていたのは、人が埋まっているのを期待していたからじゃないのか?」
「い、いや、そんなことないですよ」
思わず身振り手振りで否定すると、男は大きなため息をついた。
「君は嘘つきだな」
男の声は一段と低かった。内臓を震わすように響いてきたその声音に思わずたじろいでしまいそうだった。男はそれっきりなにも言わず、鋭い目つきでモノリスを見つめていた。
部屋には気まずい沈黙が流れていた。壁越しの洗濯機の音だけが、申し訳程度に運ばれてくる。
「君、いじめられてるだろ?」
男が唐突に口を開いた。僕は耳を疑い、睨むように男へ視線を向けた。
「なんですか? 急に」
「図星か?」
「違います」
「また嘘をついたな。だから嫌われて、除け者にされる」
なんなんだこの男は。僕と目を合わせないまま、灰色の土壁に向かって独り言のように知った口をきいてくる。
「どうせいつも上っ面だけ取り繕ってその場をやり過ごそうとしてるんだろ? 周りの目を気にしてヘラヘラして、気に入られるためなら平気で嘘をつく。その嘘がバレたら今度は勝手に傷ついて被害者面だ」
男は一息に吐き捨てた。反射的に言い返そうとしたが、男の息継ぎと重なって遮られた。
「周りが望む自分を勝手に演じて疲れて、上手くいかなければ周りのせいにして、実に愚かな生き方だ。見てるこっちが恥ずかしくなる。穴があったら入りたいくらいにな」
うるさい。ギリッと奥歯が鳴る。わなわなと身体が震える。
「お前みたいな人間を恥知らずというんだ。よく人が埋まっているのを期待できたものだ。自分が埋まるための穴を見つける方がよっぽど建設的じゃないか? それか文字通り自分の墓穴を掘ってみたらどうだ?」
「うるさい!」
喉が裂けるくらい大きな声が出た。男がこちらに顔を向ける。憐れむような表情に余計に苛立ちが募る。
「僕が嘘つきで悪いって言うなら、あいつらはどうなんだよ? あいつらは善人なのかよ? 人を嘲笑って、遊びだからって暴力をふるう奴らが正しいのかよ? 冗談で人の物を壊したり、借りたお金を返さなかったりする奴らが正しいのかよ? そんなのおかしいだろ? 恥知らずはあいつらの方だ。あいつらが埋まればいいだ! あいつらが死ねばいいんだ!」
息が切れて、咳が出た。喉が痛い。大声を出したのは久しぶりだった。
気がつくと、男の口角が上がっていた。同時に、下がっていた眉根も上向いていた。男は笑っていた。それは爽やかさとはかけ離れた、ひどく歪んだ笑顔だった。そして、満面の笑みを浮かべたまま、男は言った。
「そうだ。それがお前だ」
弾むような声だった。その直後、場違いなほど軽やかなメロディが流れてきた。
「洗濯が終わったようだな」
男はそう言って、再び机に向かった。もう話す気はないというように背中を向けている。僕はやりきれない気持ちのまま、部屋を出て洗面所に向かった。洗濯機から取り出した制服はきれいさっぱり泥が落ちていた。そして、あの男には似合わないほど優しい香りがした。
♢
貸した漫画が一ヶ月を過ぎても返ってこなかった。特に期限を決めていたわけではないが、次に貸してほしいという人もいたので、貸していたMに返すよう伝えた。するとMは面倒くさそうに返事をし、翌日に放り投げるように返してきた。乱暴だなと思いつつも、当時頼られたことが嬉しくて快く貸してしまった分、催促したことを申し訳なく感じた。戻ってきた漫画はずいぶんとヨレヨレになっていて、一部のページは破れたり抜けたりしていた。明らかにおかしかったが、Mに問いただすことができず、次の人に貸した。それ以来、Mではなく自分が物をぞんざいに扱う奴だと思われるようになった。
小便器で用を足している最中に尻を蹴られた。痛みに耐えながら衝撃で暴れる尿を制御していると、Kが「今のは微妙だった」と言ってもう一度、蹴りを入れてきた。今度は尻に力を込めたことで衝撃には耐えられたが、再び鈍い痛みが走った。「いい音鳴ったなぁ」とKの隣に居たMがゲラゲラと笑った。自分も笑いながら「やめろよ」と言って左手を尻の前に出すと、Kは「汚い手をどけろ」と顔をしかめた。そうして蹴りを牽制している間に小便が切れ、予鈴が鳴った。急いでズボンを上げると、Kは「もう終わりかよ。つまんねー」と言いながらMを連れてトイレから出て行った。
英語の授業で先生に当てられ、「友達を一人指名して」と言われた。この先生は、唐突に誰かを指名して答えさせたり、ランダムで二人一組を作ってワークをやらせたりするのが好きで、だから自分はこの先生の授業が嫌いだった。血の気が引くのを愛想笑いでごまかしていると、Kが笑いながら「先生、友達いない奴にそれやっちゃダメですよ!」と叫んだ。その瞬間、笑いが起きた。すぐにMが「いくらなんでも可哀そうですよ!」と続け、さらに湧いた。教室が一気に笑いに包まれた。みんなが笑顔だった。KもMも他のクラスメイトも先生も……そして自分も。恥ずかしさで赤面しながらも精一杯の笑顔を浮かべた。
ひどく息がしづらかった。湧き出る水に飲み込まれて、溺れているみたいだった。このまま窒息して死ぬかもしれない。赤い顔が真っ青になっているかもしれない。そんな諦念の中で微かに、それでいて確かに思った。
こいつらが死ねばいいのに、と。
♢
グラウンドから聞こえるかけ声を背にして、ひとり帰路につくのには慣れない。学校という空間が作り出す流れから放り出されたことを痛感する。例えば、部活に参加するのが普通という流れ。もっと言うと、男子は運動部に入るのが普通という流れ。こうした小さな流れが寄り集まって大きな流れを作っている。まるでたくさんの川の支流が本流に流れ込むみたいに、最後にはひとつになる。
自分もほんの一ヶ月前まではグラウンドにいた。グラウンドでテニスラケットを振って、流れの最前列にいた。それが急に流れの向きが変わって、僕を受け入れてくれなくなった。どれだけもがいてみても流れの向きは元に戻らず、流れに身を任せてみれば荒波に揉まれるみたいに翻弄されて沈んでいく。
あの頃の僕は、まさか自分がこうして傾いた日に照らされながらひとり帰るなんて思ってもみなかった。この時間が最も眩しくて帰りづらいことも、初めて知った。そんなことは知りたくなかった。
君、いじめられてるだろ?
昨日の男の声が頭をよぎる。その瞬間、ギュッと胸が締め付けられた。まるで心臓を握られたみたいに、身体の内側から痛みが走った。
僕は頭を振り、投げ出すように足を前に運ぶ。目の前の小石を乱暴に蹴り飛ばしながら、腹に溜まった熱を発散しようとする。だけど、まったく収まらない。些細なことが燃料になって、燻ったまま熱を出し続ける。側溝に落ちる小石、眩しすぎる夕日、汗で張り付くシャツ、耳をつんざくバイクのエンジン音。どれもこれもが僕を苛立たせる。
いつの間にか神社の前まで来ていて、僕は足を止めた。耳を澄ませても地面を掘る音は聞こえない。おそらく、もう聞こえてくることはないだろう。あのモノリスという褐色の土壁を思い出しながら、僕は悟った。そうしてまた、腹に熱が溜まるのを感じた。
まっすぐ家に帰りたくなくて、僕は神社の中に入った。ここはいつ来ても参拝者はおろか神主さえ見当たらない。タイミングが悪いのか、神社として機能していないのか。どちらにしても、僕はもう神様の存在を信じてはいない。百歩譲っているとしても、僕のことは見てくれていない。見てくれていたら、こんなことにはなっていない。
早歩きで拝殿の脇を抜け、雑木林に入る。ひらけた場所まで来て、僕は木を背もたれにして腰を下ろした。地面はもうすっかり乾いていて、目の前には男が掘った跡や自分が尻餅をついた跡がくっきり残っている。顔を上げると、木漏れ日が眩しくて反射的に目を閉じた。帰るにはまだ少し日が高い。
僕は目を閉じたまま俯いて、ぼーっと自然の中に身をゆだねた。気温につられてじわじわと体温が上がっていく。やがて周りと自分の境界が曖昧になって風景と同化していくような感覚になった。ヒグラシの鳴き声に、やんわりと肌を撫でる風に、生温かい木や地面に、自分が溶けていく。ただしそれも、少し顔を上げると眩しすぎる木漏れ日に邪魔される。瞼を閉じていても感じる橙色の光が、ほとんど時間が進んでいないことを突きつけてくる。
まだだ。もう少し経ってからでないと、母親に怪しまれてしまう。
そんなことを考えて、また一段と腹に熱が溜まった。燻り続けて溜まった煙を一気に吐き出すみたいに、ひときわ大きなため息が漏れた。
僕は近くに落ちていた拳大の石を拾い、土を削った。男が掘って再び埋めた場所を掘り進めた。表層は柔らかかったのに、少し下は硬くて掘りにくかった。それでもやめずに掘り進めた。じわりと額に汗が滲み、粒となって地面に落ちる。そしてその痕跡を消すみたいに土を削る。その繰り返し。ひたすら無心に手を動かす。身体はどんどん熱くなり、喉の渇きも強くなる。それでも掘る。掘り続ける。ごりごりと音を立てながら。掘る掘る掘る掘る。
パキッ。
突然、枝の割れる音がした。顔を上げると、男が立っていることに気づいた。その瞬間、ふっと身体から力が抜けた。視界がぼやけ、やがて真っ暗になった。
目を覚ますと、見慣れない天井があった。身体を支える柔らかな弾力と後頭部の硬く冷えた感触から、布団と氷枕の上で寝かされていることに気づく。左右に顔を動かして昨日入った男の部屋だと分かった。右には本棚、左にはモノリスがある。
ゆっくりと起き上がると、扉が開いて男が入って来た。
「目が覚めたか」
男は手に持っていたペットボトルの水を僕に渡した。
「軽い熱中症だろう。まだ気分が優れなければ病院に行った方がいい」
「いや、大丈夫です」
火照っていた身体はすっかり冷めている。気持ち悪さも感じない。
「なにをしていたんだ?」
「地面を掘っていました」
「あそこにはなにも埋まっていないぞ」
「別になにかを掘り返したかったわけじゃないです」
「じゃあなにが目的だったんだ?」
「よく分かりません」
「自分の墓穴でも掘っていたのか?」
「そうかもしれません」
「それはご苦労だったな」
男はそう言って、机の前の椅子に腰かけると、「だが……」と続けた。
「たとえ埋めることができても、なかったことにはできない。いずれ必ず掘り返される」
「……じゃあ、どうすればいいんですか?」
思わず手に力が入り、握っていたペットボトルがべこっと音を立てた。鼻の奥がツンとして、情けなさがこみ上げてくる。
男は無言のまま立ち上がると、青味を帯びた灰色のモノリスの前まで来て指をさした
「このモノリスがなぜこんな色をしているか分かるか?」
急な問いかけだった。訳が分からず、僕はただ首を横に振る。
「これは還元鉄の色だ。排水不良で地下水位の高い場所は、酸素が少ないから鉄が還元されて青灰色の土壌になる。場所よっては、真っ青になる場合もある」
男はそっとモノリスに手を添えた。
「酸欠で真っ青になるなんてまるで人間みたいだろ? ただ、もちろん人間と違って土壌には苦しいなんて感覚も感情もない。ただその断面に、水に曝され酸素が少なかったという事実を残すだけだ」
男は振り返り、僕と正面から向き合った。
「お前はどうだ?」
またしても急な問いかけだった。男の声が頭の中でこだまする。記憶が呼び起される。
僕は、僕は……。
男とモノリスを見比べながら答えを探すうちに、気づけば一筋の涙が頬を伝った。それから堰を切ったように両目から溢れ出して止まらなくなった。やがて声を抑えきれなくなり、赤ん坊のように泣きじゃくった。俯きながら、時に天を仰ぎながら、すべてを吐き出すように、僕は涙を流し続けた。
しばらくして、豪雨のような慟哭は小雨ほどの嗚咽にまで落ち着いた。その間、男は黙って僕のことを待ち続けていた。涙を拭って顔を上げると、男と目が合った。眼鏡越しに見える目尻が緩やかにカーブを描いていた。一瞬、あの洗い立ての制服のような優しい香りを強く感じた。
男は再び振り返り、モノリスと向き合った。僕は立ち上がり、男の横に並んだ。目の前には褐色のモノリスがある。男は静かに言った。
「土壌が一センチ形成されるには早くても百年かかる。つまり、モノリスは何万年とかけて積み重ねた歴史をありのまま映している。なにがあったのかを、ただありのまま示す」
「それは、僕への当てつけですか?」
「いや、自分への戒めという方が正しい」
皮肉なものだな、と男は自嘲気味に笑った。
男はじっとモノリスを見つめていた。陰になっていて、男の表情はよく分からない。それどころか、姿形も曖昧になって、男の背丈が自分と瓜二つであるようにさえ見えた。窓の外に目をやると、いつの間にか群青色が橙色を押し出していた。
「そろそろ帰ります」
僕は布団の脇においてあった鞄を肩にかけた。受け取って封を開けずにいたペットボトルはそのまま置いておいた。
「もう大丈夫なのか?」
背中越しに男が問いかけてきた。その答えに迷いはなかった。
「大丈夫ですよ、もう」
僕は男に一礼してから部屋を出た。
男の家から神社のある通りまで出ると、向かいの通りに同じ制服の集団がいた。背中からテニスラケットを生やしているその連中は同級生だった。集団の内のひとりが僕に気づくと、指をさして周りを囃し立てた。全員の顔が一斉にこちらを向いた。
ゲラゲラと汚く笑う彼らを僕はじっと見据えた。そして、あの男のようにとびっきりの笑顔を見せつけた。




