公爵令嬢、ただいまハニトラ中!
公爵令嬢レティシアの周辺は最近些か賑やかだ。
温室で大切に育てられた高貴な花の美しさにようやく気が付いた蝶たちが、その寵を得ようとふわふわと飛び回っていた。
――レティシア、モテ期到来である。
「でも、どうしたらいいのか分からないの」
レティシアは、ティーカップをソーサーに戻して、悩ましげにため息をついた。レティシアの向いのソファーに座るエレノアは、こんな時、いつも少し眉を顰めてしまう。
エレノアは、レティシアの私室に定期的に呼ばれては気がかりなことを相談される。
困ったことはなんでも妹のエレノアに解決してもらえばいいと思っているレティシアが、エレノアは大嫌いだった。
レティシアはこの国の王太子殿下の婚約者だけれど、不釣り合いだ。確かに容姿は優れているが、それだけだ。誰かに頼らないと生きていけないか弱い姉よりも、王太子殿下を支えることができる私の方が相応しいとエレノアはずっと思っていた。
公爵家の長女という肩書だけで選ばれたレティシア。
レティシアを婚約者という地位から叩き落とせるこのチャンスを、エレノアが逃すはずがなかった。
「アーノルド殿下に私からお伺いしたのだけれど、御結婚まであともう少しでしょ?つかの間の独身生活を楽しんだらとおっしゃっていたわ」
「そう……でも気が乗らないわ」
エレノアはあらかじめ考えていた嘘を話し始めた。
レティシアがエレノアに相談を持ちかけるのは思っていた通りだ。このままレティシアを口車にのせて不貞をさせたい。
「姉様と殿下の絆は深いでしょう?少しのことで壊れたりしないわ。殿下はこうもおっしゃってたの。僕には公務があっていろんな所に連れて行くのは難しいから、他の方に連れて行ってもらったらいいって」
「そうねぇ………」
当然のことながら、レティシアはなかなか頷かない。困ったように眉を下げるだけだ。
「そうだ!ロランド様は?久しぶりにお姉様と会いたいって言ってたわ」
「ロランド様……?エレノアの婚約者じゃない」
領地が隣同士なこともあって、ロランドとエレノア、レティシアは幼少期よく遊んでいた。
お互いによく知った仲でもある。
エレノアが事前にどう動くべきか考えれたのも、レティシアに密かに課された試練をこっそり教えてくれたロランドのお陰だ。ロランドもその役割を担っているけれど、エレノアに誤解しないでと言って。
エレノアの婚約者であるロランドは、誠実でいい人だ。でも、伯爵家嫡男よりも王太子殿下の方がエレノアは良かった。
王太子殿下のブルーサファイアのような瞳の中に、自分だけ映して欲しかった。
「少し出歩くだけでしょ?そのくらいならわたしは気にしないわ。殿下も身分のしっかりしたロランド様なら安心できると思うし。ね?いい考えでしょ?」
―――こうして、レティシアとロランドは個人的に会うことになった。
自分から手紙で呼び出しておきながら、オペラハウスのボックス席にレティシアの姿を確認して、ロランドは肩を落とした。
レティシアにハニートラップを仕掛けている沢山の男達の中から何故かロランドにレティシアが引っ掛かった訳だが、嬉しくはなかった。
王妃からの命とはいえ何も知らないレティシアを騙さないといけないと思うと、今日のオペラもロランドは気が乗らなかった。
それなのに、ロランドに気が付いたレティシアはほっとしたように美しいエメラルド色の瞳を柔げた。
薄暗い室内でも、レティシアの周りだけ輝いて見える。
「お待ちしていたの!来てくれて良かったわ……どうぞ、ここへ座って」
「あっ、ああ……」
久しぶりに会ったレティシアの美貌に心が奪われてしまったロランドは、恥ずかしいことに相槌しかできなかった。
悲劇のオペラだった。
「…………君は、泣かないな」
今日のオペラは以前エレノアと一緒に観劇した題目で、ロランドが呆れてしまうほど泣いていた。
エレノアよりも感受性の高そうなレティシアは、どんなに感情を揺らすのだろうと不安を抱いていたのに。思わず、ロランドは疑問を零してしまった。
「………わたくしは、悲しいときには泣かないことにしているの。でも……、とても辛いときは泣くわ」
そう言い切ったレティシアは普段のふわふわした口調ではなくて、固かった。
幸せそうに見えるレティシアだけれど、抱えているものがあるのかもしれない。ロランドは胸が締め付けられた。
眉を顰めて、深刻そうな表情を浮かべたロランドに、レティシアは努めて明るい声を出した。
「……わたくしったら、何を言ってるのかしら。ロランド様のお陰で、オペラが観れて嬉しかったわ。また誘ってくださる?」
「あっ、ああ……」
ロランドはまた相槌しかできなかった。
それから、ロランドとレティシアは2、3日に1回の頻度で会うようになった。最初こそ人目を避けてこっそり会っていたが、友達だから堂々としてもいいとロランドが言えば、レティシアも素直にそれに従った。
口下手のロランドと一緒に過ごして楽しいはずがないのに、レティシアはいつも弾けるような笑顔を見せてくれる。
2人で過ごす日々を純粋に楽しんでくれるレティシアに、心が動かない筈はなく。
ロランドは、幼い頃抱いていた恋心が息を返してくるのを感じていた。それも、昔より力強く。
(レティシアは、私のことをいい遊び相手としか思っていないだろうに)
ロランドの心情など知るはずもないレティシアは、今日も無邪気にロランドに微笑みかける。
買い物を自由に楽しんでみたいと言ったレティシアを、ロランドは城下へ連れ出していた。
(……そもそも、私は、レティシアにハニートラップを仕掛けているんだ……。本当のことを知ったら、レティシアも、私のことを軽蔑するだろう……)
ロランドが仕掛けているハニートラップが成功したと見なされれば、レティシアは王太子殿下の婚約者の地位を剥奪されることになる。殿下以外の男に心を惑わされる者など、相応しくないとされて。
そうなれば、どんなにレティシアは悲しむことだろう。一緒に過ごす中で、レティシアが王太子殿下の愚痴を零すことは一回もなかった。レティシアが王太子殿下のことをお慕いしているのは間違いないのに。
自責に駆られて俯いてしまったロランドの裾を、レティシアは引っ張った。
「ロランド様見て?あそこのお店、アクセサリーを売ってるみたいだわ!見に行きましょ?」
「あっ、ああ……」
レティシアは店内の商品を興味深げに眺めると、ある品物を指さして、店員に声をかけた。
「これ、いただけるかしら?」
レティシアが欲しがった物は、ロランドにとって意外な物だった。
「……指輪が欲しいのか?」
「だって、アーノルド殿下からいただけるのは、王妃に引き継がれる由緒ある指輪でしょ?わたくし、自分の好きなデザインの指輪が欲しかったの」
「……そういうものなのか?それならば、私からのプレゼントにさせてくれ」
指輪が納められたリングケースを、ロランドはレティシアに手渡した。貴族の令嬢への贈り物にしては少し高級感に欠けていたが、指輪の中心には小ぶりながらもレティシアの瞳と同色のエメラルドが嵌められていた。
「ロランド様、ありがとう!大切にするわ」
レティシアはそう言って、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
王城主催の舞踏会の日だった。
レティシアはメイドのマリーに髪のセットをさせていた。マリーは主人の髪をいつもよりも丁寧に整えたいのに、時折手が震えてしまう。
「……準備は万端です」
「大変だったでしょう。ありがとう、無理をさせたわね」
鏡台にはレティシアの華やかな姿が映し出された。
マリーの瞳にはじわっと涙が浮かんだ。レティシアを自分のものさしで憐れむことなんてしては駄目だとマリーは唇を噛み締めた。震える声で、レティシアに今日の履物はこちらですと靴を差し出した。
舞踏会も中盤に差し掛かった頃、アーノルドはレティシアをテラスへ連れて行った。
夜空には星が煌めいて、ロマンチックな雰囲気を漂わせていたのに、アーノルドの表情は強張っていた。
「……レティシア、君には試練が課されていた」
「……どういうことですの?」
何も知らないであろうレティシアは不思議そうに首を傾げた。レティシアにこれから告げることを思うと、流石のアーノルドも心が痛む。
「ハニートラップだ。男に君が靡かないか、母が試した方がいいと言ってね。そして、レティシアはまんまと引っ掛かった」
「………っ!そんなこと、ありませんわ!」
「ロランド、彼と出かけていたそうだね?」
「…………それ、は……」
口籠るレティシアに、アーノルドの後からロランドが姿を現した。ロランドの表情もまた硬い。
「……わたくしたち、友達だったのでは?」
「友達でも、男に誘われてのこのこ出歩くのは、王太子の婚約者としては相応しくないとの母の判断が下った。……レティシア、今日を以て君は婚約者の座から降ろされた」
アーノルドの揺るぎない決心を籠めた瞳に、レティシアは婚約解消が覆られないものであると悟った。
レティシアの瞳から、一筋の涙が零れ落ちてゆっくりと頬をつたっていった。
「ロランド様……、わたくしを、騙していたのね……」
初めて見たレティシアの涙に、アーノルドとロランドは息を呑んだ。周りを照らすような柔らかい笑顔を浮かべるレティシアが、泣いている。レティシアは辛いことがない限り泣くことはないと言っていたのに、泣かせたのは間違いなく自分のせいで、ロランドに強い後悔が襲う。
愕然として何も言えないアーノルドとロランドに踵を返したレティシアは、ふらふらと歩き出した。
そして、あっという間にレティシアの姿は見えなくなった。
「アーノルド殿下、レティシア様をお一人にさせていいのですか……?」
「どうも、なにも……」
「私が言える義理ではないですが、レティシア様を今、一人にさせたら……!」
「レティシアを追いたいんだよね?いいよ、もうレティシアは僕の婚約者ではないのだから」
分かりましたと述べる時間も惜しくて、ロランドは軽く頷いて走り出した。レティシアを見つけ出さないといけない。繊細なレティシアを一人にさせておくことなど出来なかった。
舞踏会の会場には勿論居らず、廊下や準備されていた控室を探し回るも、レティシアは居なかった。
公爵家に戻ったのかと思うも、公爵家の馬車は王城にあり、公爵家にも戻っていなかった。
レティシアが居た痕跡を残すように、テラスへと繋がる廊下にレティシアが履いていたと思われる靴が片方遺されていた。
舞踏会以降、レティシアを見た者はいない。
――――公爵令嬢、レティシアは忽然と姿を消した。
レティシアの失踪から3年が経った。
アーノルドはレティシアの妹のエレノアと婚姻し、幸せな家庭を築いている。ロランドがハニートラップを実直に行わなければ、今頃レティシアがアーノルドの隣で笑えていただろう。ロランドの胸は今も罪悪感で塗りつぶされていた。
ロランドの周りにはレティシアは既に死亡しているなんてことを言う者がいたが、ロランドはレティシアは今も何処かで元気に暮らしていると信じていた。
父親に言われて隣国へ来た今日も、ロランドはわざわざ広場へと足を運んだ。爽やかな空気も、春を感じさせる柔らかな気候も、ロランドの心を和ませることはなかった。ロランドの心はレティシアの失踪の時から止まっていた。
一縷の望みをかけて、レティシアの姿を探す。
広場の噴水に、若い女性がいた。
どこにでもいるような女性なのに、ロランドの心がざわめく。後ろ姿しか見えなくて、早く振り返ってほしいと思う気持ちと、レティシアでないことが分かった時の失望をまた感じるのかと思う気持ちがせめぎ合った。
若い女性が振り返った時、ロランドから掠れた声が出た。
「………………嘘だ」
何度も夢に出てきたレティシアが、そこにいた。
輝きを失わないエメラルドの瞳が、ロランドを見つめ返している。レティシアの左手薬指にはロランドが送った指輪を嵌っていた。
「…………レティシアっ!!」
ロランドが、レティシアに向けて駆け寄ったのと同時にロランドに気が付いたレティシアは、反対方向へ逃げ出した。




