朝野恵は思い出す ②
ある日の放課後、恵は綾乃とカフェで国語の勉強をすることになった。
試験まではまだ日があるけれど、綾乃とコミュニケーションを取りたかったのだ。
部活終わりに夙川駅の近くのカフェに行くと、綾乃は席に座って本を読んでいた。
恵は綾乃のそばに行くと声をかけた。
「お待たせ。待たせちゃってごめんね」
「ううん。本を読んでいたから、いくらでも時間は潰せる」
「いつも杏奈と一緒に帰っているけど、今日は大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。むしろ事情を話したらとても喜んでくれた。綾乃にもついにクラスの友達ができたんだねって」
「わたしもさっき部活で石黒と話していたけど、これからも綾乃と仲良くしてくれってめちゃくちゃ頼まれたよ。石黒っていいやつだよな」
「そ、そうなんだよ。杏奈はとてもいいやつなんだ。わたしは杏奈に何度も助けられた。杏奈がいなかったら、今こうして楽しく学校に通えていなかったと思う」
「それはなんか分かる気がするよ。石黒って困っている人を放っておけない性格だよな。それを石黒に話したら、あんたもじゃんって言われたけど」
「わ、わたしも、杏奈と恵はちょっと似ているところがある気がする。なんというか、面倒見がいい。それを証拠にこうしてわたしなんかと仲良くしてくれている」
「わたしは別に面倒見がいいから、綾乃と一緒にいる訳じゃない。ただ、綾乃と一緒にいたいからこうして一緒にいるんだよ。綾乃は自分のことを低く評価しすぎだ。石黒とも話していたけど、綾乃は自分が思っているよりもずっと素敵なやつだと思う」
「あ、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい。ネガティブなのはわたしの悪い癖だ。それは杏奈にも言われて分かっているつもりなんだけど、どうしてもネガティブに考えてしまうんだ。それがなかなか治らなくて困っている」
「まぁでも、無理に治そうとしなくて良いんじゃないか? ネガティブなところも可愛いって石黒が言っていたぞ」
「そ、そうなのか? 杏奈にそう言われると照れるな」
そこで綾乃は顔が赤くなる。恵は笑みを浮かべながら言う。
「綾乃と石黒ってめちゃくちゃ仲良いよな。もしかして二人って友達以上の好き同士なんじゃないのか?」
綾乃は恵の鋭さに驚いて、あわてて取りつくろってしまう。
「そ、そんなことはない! わたしたちはただの友達だ。それ以上でも以下でもない」
「分かったよ。そう言うことにしておいてやるよ」恵は意地悪そうな笑顔を見せる。「みんなには秘密にしておいてやるから」
「そういうのじゃないんだって……」
そう言いながらも、綾乃は顔をますます赤くする。
「そ、そういえば勉強だ。今日は国語の勉強のために集まったんだから」
「そうだったな。カバンから教科書を出すから待ってくれ。そういえば綾乃は何の本を読んでいるんだ? 今日も太宰治なのか?」
「いや、今日は夏目漱石だ。ちょうどいま授業でやっているのが夏目漱石だしな」
「なるほど、それはちょうどいい。教えてくれ、夏目漱石の『こころ』を。わたしは『先生』という人間にまったく共感できないんだよ」
「な、何が共感できないんだ?」
「何というか、ウジウジしていてなかなかハッキリしないだろ、あいつ。それで結果的に周囲の人間を振り回している。単刀直入に言うとあいつのことが嫌いだ」
「だ、だいたいその理解でいいんじゃないか? 自分のそういうところに『先生』は苦悩している訳だし」
「苦悩って……ただウジウジしているだけだろ、あいつ。特に恋愛でウジウジされるとわたしは腹が立ってしまうんだ。元彼のことを思い出してね」
「も、元彼……その話はわたしが聞いてもいいやつなのか?」
「綾乃だったらいいよ。綾乃はわたしの話を言いふらしたりはしないだろう。クラスの一部の女子とは違って」
「わたしは人の秘密をベラベラと話したりはしない。そもそも、話す相手がいない」
「綾乃は信用できる人間だ。わたしの直感がそう言っている。だから元彼の話を聞いてくれ。定期的に思い出してはひとりでイライラしているんだ」
「こ、こころして聞くよ」
綾乃はそこで姿勢を正す。椅子の上で正座をしようとする。
「あはは! そこまでしなくてもいいよ。楽にして聞いてくれ」
「そ、そうか」
綾乃は姿勢を元に戻す。
「わたしは今まで一人だけ男と付き合ったことがあるんだ。中学二年生の時で、同じクラスの同級生だった。でもそれ以来、わたしは恋愛にこりごりなんだ。別れてからもいろんな男たちに告白されたけど、全部断ってきた。わたしがこうして女子校を選んだのも、恋愛にこりごりだったからだ。どうしてわたしは恋愛に懲りたのか? それは、あいつが浮気をしたからだ。話してみるとつまらない理由だけど、わたしはそれから心底、恋愛が嫌いになった。あいつのその時の言い訳を思い出すと、余計に腹が立つ。あいつ、なんて言ったと思う? 恵のことは好きだけど、恵と一緒にいる自分がつらくなった。俺なんかと恵は全然、釣り合っていない。だから、自分と釣り合っていると思う子に手を出しちゃったんだって」
恵は話しているうちにだんだん怒りで震えてきた。
綾乃はそんな恵を見て少しだけ怯えていた。
「何を言っているんだ、こいつはって思ったよ。わたしに対しても、浮気相手に対しても、全方位に失礼じゃないか? それに、わたしたちは付き合っていることを、学校の誰にも言っていなかったから、その浮気相手も、あいつに付き合っている人がいるってことを知らなかったと思うんだ。あいつは浮気相手のことも騙していたんだよ。彼女も、純粋で騙されやすそうなところがあったからな。だからわたしは、何重もの意味であいつのことが許せないんだよ」
「そ、それは大変だったな。わたしは今まで異性と恋愛をしたことがないから、恋愛のことはよく分からない。人間を知りたいっていう意味で興味はあるんだけど。でも、恵の元彼がどう考えても腹立たしいやつだってことはわたしでも分かる。確かに、そいつはウジウジしているだけの最低なやつだ。それを苦悩とは呼ばせない」
「ありがとう。そうなんだ。ただの最低なやつなんだ。だから恋愛のことでウジウジしているやつを見ると、無条件で腹が立ってしまうんだ。そのウジウジに真っ当な理由があったとしても、わたしはあいつのことを思い出してイライラしてしまうんだ」
「だから『こころ』の『先生』にもイライラしてしまうんだな」
「あぁ。結局『先生』も恋愛のことでウジウジして、Kのことを裏切ったことになるだろう? それがイライラするんだよ。ごめんな、今日はイライラしてばっかりで。恋愛のことになるとわたしはダメみたいだ。ついスイッチが入ってしまう」
「だ、大丈夫だよ。恵がイライラするのもしょうがない。じゃあ、恋愛ドラマとか恵は絶対にダメってことだな。見ているとイライラするだろう?」
「間違いない。恋愛ドラマは大っ嫌いだ。あんなイライラするものを見て、何が楽しいんだ?
まぁ、わたしの考え方が極端だというのも、自分で分かっているんだけど」
「ちなみに『こころ』の結末を、恵は知っているか?」
「あぁ、知っている。先の展開が気になって、授業の前に読んでしまった」
「腹が立ったか?」と綾乃は訊く。
「あぁ、腹が立った。まったく共感できなかった。あんなもん、ただのこじつけだ」
「それはわたしも同感だ」綾乃がそう言うと、二人は大声を上げて笑い合った。




