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岩本麗奈は悲しみを辿る ②

 麗奈はコーヒーに口をつける。その深い苦味が口の中に広がっていく。

 麗奈は一息ついて喫茶店のソファに身を沈める。

 そういえば涼介とよく喫茶店に来たなと思う。涼介はコーヒーが大好きだった。

 麗奈は相田涼介のことを思い出す。涼介はかつての婚約者だった。

 涼介と出会ったのは職場のスナックだった。

 仕事の先輩に連れられた涼介はぎこちなく過ごしていた。

 夜の店でどう過ごせば良いのか戸惑っているようだった。

 麗奈は涼介たちを接客することになった。涼介の先輩が陽気に話している一方、涼介は何も言わずに愛想笑いを浮かべていた。

 麗奈は涼介にも楽しんでもらいたいと思った。そこで麗奈は涼介に話しかけた。

「こういうお店は初めてですか?」

「はい。実はそうなんです。どうすれば良いのか勝手が分からなくて」

「陽気におしゃべりをする必要はないんですよ。自分らしくゆったりとくつろいでください。何か飲みたいものはありますか?」

「では、コーヒーはありますか? すみません、僕はお酒が飲めなくて」

「ありますよ。コーヒーがお好きなんですか?」

「そうなんです。一日三回はコーヒーを飲まないと落ち着かなくて。でもコーヒーを飲んだら緊張がほぐれてゆったりできるんです。もはやコーヒー依存症ですよね」

「わたしもコーヒーは好きですよ。寝起きのコーヒーが習慣になっています」

「僕もです。コーヒーを飲むと一日をすっきりと始められるんですよね」

「わたしたちコーヒー仲間ですね。今日は来ていただいてありがとうございます」

 麗奈と話しているうちに涼介の緊張は和らいでいった。

 酔った先輩を介抱しながら、帰り際に涼介は言ってくれた。

「今日はとても楽しかったです。今度は一人でまた来ても良いですか?」

「もちろん。いつでもいらして下さい」

 それから涼介は店の常連になった。店に来るたびにホットコーヒーを頼み、一人でゆっくりと本を読んでいた。あるいは麗奈が話し相手になった。

 涼介は時々、仕事の愚痴を言うようになった。涼介は精神科医だった。

 麗奈は涼介の話を新鮮な気持ちで聞いていた。自分の知らない世界に興味があった。

「今日はある女の子の診察をしていたんです。その子は精神的なストレスのせいで、ごはんが食べられなくなってしまった子なんです。どんどん痩せ細って体調を崩してしまい、今はうちの病院で入院しています。問題はその子の両親なんですよ」

 涼介はそこでコーヒーを口にした。

「その子の両親は、自分の娘が心を病んでいることを受け入れられないんです。それで医療者にあれこれと無理難題を押し付けてくるんです。この子が食べられないのは体に重大な病気があるからに決まっています。それをストレスごときが原因だなんて決めつけないでください。娘はそんな貧弱な子ではありません。わたしたちの子なんですよ。それなのに精神科なんかが介入するとはどういうことですか。そんな変なところにわたしたちの大切な娘を巻き込まないでください。両親はそう言って僕たちを責めてくるんです。精神的なストレスが原因で食べられないとどれだけ丁寧に説明しても、全く受け入れようとしないんです。両親はありのままのその子の姿を受容できないんです。自分たちの理想の姿を押し付けてばかりなんです。おまけにその自覚がない。それで僕たちは疲れているんですよ」

「それは確かに大変ですね。わたしの両親もそういう人たちでした。自分たちの偏狭な理想を押し付けてばかりで、わたしたちのありのままの姿を見てくれない。そういう人たちってどこにでもいるんですね。わたしはそんな両親のことがずっと嫌だったんですが、わたしたちだけじゃないと知ってホッとしました」

「それならよかった。あなたにはいつも助けられているんです。だから少しでもあなたの役に立てたのなら良かった。実はあなたにお願いがあるんです。もしこんなことを言って嫌われてしまったらと思うと言い出せなかったのですが、今日は勇気を出して言おうと思います。もし良ければ、僕とデートをしてくれませんか?」

 それが涼介からの初めての告白だった。麗奈はそれを受け入れた。

 麗奈もよく店に来てくれる涼介のことがひそかに気になっていたのだ。

 そして二人はデートに行くことになった。行き先は神戸のメリケンパークだった。

 季節は秋だった。麗奈は二十三歳になったばかり。白いニットのセーターを着て、赤と黒のチェック柄のスカートを履き、薄手のトレンチコートを羽織っていた。

 涼介は二十八歳だった。白いワイシャツの上に緑のセーターを着て、ベージュのチノパンツを履いていた。涼介はどことなく緊張しているように見えた。

 二人はメリケンパークにあるスターバックスで一緒にコーヒーを飲んだ。

「涼介さんはやっぱりコーヒーが好きなんですね」

「麗奈さんこそ。僕は、麗奈さんの名前が知れて嬉しいんです」

 これまで涼介には源氏名しか言っていなかったが、デートに誘われたことで本名を伝えた。そのことを涼介はとても喜んでくれたのだった。

「岩本麗奈さん。とても良い名前です。僕はこれからも麗奈さんとデートがしたい」

「わたしの方こそよろしくお願いします。でも、わたしなんかで本当にいいんですか? 涼介さんなら身の回りにもっと素敵な方がたくさんいるでしょうに」

「僕は麗奈さんが良いんです。麗奈さんは今までに出会った誰よりも素敵な方なんです。麗奈さんほど心の優しい方を、僕は今までに見たことがない」

「でも、前にも言った通り、わたしは中学生の時に補導歴があります。高校生の時はほとんど学校に行っていなかった。涼介さんとは育ちが違いすぎるんです」

「そんなこと、僕は気にしない。今までのことをあなたは悔いているし、だからこそあなたは人の痛みが分かる優しい人になった。僕は今のあなたを見て素敵だと思っているんです。僕はあなた以上の優しい人に出会ったことがない。だから僕と一緒にいて欲しいんです」

 麗奈はそこで涙を流した。自分の今までの人生が報われるような気がした。

 それから二人は手を繋いで海沿いを散歩した。

 もしかするとこれからわたしの人生は変わっていくかも知れない。

 麗奈はそんな期待に胸を膨らませていた。

 二人はやがて付き合うことになった。そして二年後の夏、麗奈が二十五歳を迎える誕生日に涼介からのプロポーズを受けた。場所は思い出のメリケンパークだった。

 麗奈は真っ白なTシャツを着て、デニムのミニスカートを履いていた。

 涼介は半袖の白いポロシャツを着て、グレーのチノパンツを履いていた。

「岩本麗奈さん。僕と一緒に人生を歩いてくれませんか? 僕と結婚して下さい」

「はい。もちろんよろしくお願いします」

 二人はその年の秋に結婚することになった。

 しかしプロポーズから一ヶ月後、涼介は帰らぬ人となった。

 麗奈は妊娠をしていたけれど、お腹の中の胎児も流産してしまった。

 二人は手を繋いで家の近所を歩いていた。コンビニにお菓子を買いに行く途中だった。二人ともTシャツとショートパンツという姿だった。そこに飲酒運転の車が突っ込んだ。

 涼介はその瞬間、とっさに麗奈をかばった。その時の涼介の姿を、麗奈は今でもはっきりと覚えている。涼介は必死の表情でわたしに覆い被さってくれた。

 それが麗奈にとって涼介の最期の記憶だった。

 涼介は即死だった。麗奈も重傷を負って病院に運ばれた。何日間も集中治療を受けて麗奈は助かったけれど、お腹の中にいた胎児は助からなかった。

 幸せの絶頂にいたはずの麗奈は、突然たった一人で冷たい海に投げ出された。

 麗奈は絶望した。涼介の後を追って死ぬことも考えた。でもそれはできなかった。

 涼介が命をかけて助けてくれたのだ。だからこそ、わたしは生きなければならない。

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