体育祭とワイングラス ⑩
恵は、最後の局面で杏奈に追い抜かれて負けた。
正直に言って悔しかったと恵は思う。もともと分かっていたはずだった。杏奈には敵わないということを。それでもチームの思いを背負っていた恵は勝ちたかった。
途中までは杏奈と伯仲のレースを繰り広げていた。
でも、最後の局面で杏奈の底力を見せつけられた。優勝しようと必死になっていたわたしと違って、杏奈は体力を温存していたのではないか。
そう思わせられるような圧倒的な敗北だったと自分では思う。
優勝した杏奈に人が集まり、自分はグラウンドに取り残されていた中で、由佳だけが労ってくれたことが恵にはとても嬉しかった。
正直なところ、悔しさのあまり自分の芯を保てそうになかった。
由佳がいなかったら、杏奈に良くない感情を抱いていたかもしれない。
でも、由佳のおかげで冷静さを失わずにすんだ。由佳にはいくら感謝しても足りない。
わたしは由佳のことが恋人として好きなだけじゃない。人として大好きなんだと恵は思う。由佳がいてくれて本当によかったとわたしは思う。
その後、綾乃もわたしのことを気遣ってくれた。杏奈もわざわざクラスの輪から抜け出してわたしに声をかけてくれた。わたしは良い友達を持ったと嬉しい気持ちになった。
わたしは負けてとても悔しかった。その気持ちは消えないと思う。
さっそく杏奈にリベンジを誓ったくらいだ。
それでも負けた相手が杏奈で本当によかった。わたしはこれからまた頑張れる。自分の中に生きていく意味を見出せる。
時折、わたしは思ってしまうのだ。
両親を亡くしたこの世界で生きていく意味などあるのだろうか。
人はいとも簡単に死んでしまうのに、一所懸命に生きる意味などあるのだろうか。
わたしはそういった厭世的な無力感に囚われることがある。そんなわたしの中の虚無を杏奈たちが埋めてくれる。一所懸命に生きること自体の尊さを教えてくれる。
杏奈に負けないように。綾乃が笑ってくれるように。由佳と幸せになれるように。
そんな彼女たちとの絆がわたしに生きる意味を与えてくれる。
わたしは幸せ者だと思う。それを決して忘れてはいけないと思う。
恵はリレーが終わった後で、音羽に話しかける。
きっと悔しがっているに違いない。あるいは自分を責めているかもしれない。
案の定、音羽は涙を浮かべていた。
「な、なんだよ。これは目にゴミが入っただけだ」
「よく頑張ったな、音羽。わたしはすごく楽しかったよ」
「うるさい。今日のわたしは情けなかった。チームを勝たせる責任があるんだと息巻いておきながら、むしろわたしはみんなの足を引っ張った。わたしは自分のことが悔しいんだ」
そう言って音羽は涙を流した。そんな音羽の背中に恵は手を触れる。
何と声をかけて良いのかは分からないけれど、それでもあんたは孤独じゃないんだと知ってほしい。わたしたちの仲間なんだと知ってほしい。
そこに他のチームメイトも集まってくる。
第一走者だった川口という生徒が言う。
「わたしのスタートダッシュが遅かったからだよ。ごめんね」
「そんなことない。川口は精一杯、自分の力を出し切っていた」と恵は言う。
第二走者だった広瀬という生徒も言う。
「わたしだって何も貢献できなかった。だから佐久間や川口が自分のことを責める必要なんてない。これはみんなの責任なんだ。みんなで分け合うものなんだ」
「みんな、ありがとう。わたしは自分のことが許せなかった。本当のわたしは自分のことが大嫌いなんだ。でも、みんながいてくれて少しは救われた気がするよ」
音羽が泣きながらそう言うと、チームのみんなは輪になってお互いの健闘を称え合った。
クラス対抗の百メートルリレーは、各学年の一位が決勝戦を行うことになっている。
一年生の代表は杏奈たち。そして二年生の代表は、杏奈と百メートル走で争った鈴木涼夏が率いるチームだ。三年生の代表もクラスの精鋭たちが集まっている。
各チームの第一走者がスタートラインに並び、スタートの号砲が鳴る。
バトンは順番に繋がっていき、杏奈は二位、涼夏は三位でバトンを受け取る。
三年生のアンカーが先を走っている中、杏奈と涼夏は驚異的なスピードで追い上げていく。やがて三人は横並びの戦いを繰り広げる。
杏奈は他の二人に負けないようにと必死に走っている。ここまで一所懸命になっている杏奈の姿を、恵は部活ですら見たことがない。
ゴール直前になって、涼夏が頭ひとつ分だけ前に出る。そのまま三人はゴールする。
百メートル走の決勝戦と同じく、涼夏がギリギリのところで競り勝ったことになる。
杏奈は悔しそうな表情を浮かべている。そんな杏奈の表情も、恵にはとても新鮮だった。
決勝戦のレースが終わった後、恵は杏奈に話しかける。
「大丈夫か? 杏奈のそこまで悔しそうな表情を見たことがないから」
「最後に気持ちが負けてしまったんだ。今回もまた涼夏さんに勝てないかもしれない。そんな気持ちがちらっと浮かんでしまった。その瞬間、気がついたら涼夏さんに先を越されていた。今回は自分のことが情けなくなる負けだった」
「それでも、今日の杏奈はわたしが見たことないくらい頑張っていたよ。そんな自分の頑張りくらいは認めてあげても良いんじゃないかとわたしは思う」
「ありがとう。確かに今日のわたしは頑張った。次回に課題は残ったけど、その頑張りくらいは受け入れても良いのかもしれない」
杏奈がそう言うと、二人は視線を合わせてどちらからともなくハイタッチをする。
恵は手のひらを通じて、敗北の悔しさをひそかに分け合った。
最後の種目は綱引きだった。クラス全員が参加することになっている。
背の高い恵は綱を後ろの方で引き、一方の綾乃は前の方で引くことになる。
恵たちのクラスは初戦の相手が杏奈たちのクラスだった。杏奈と由佳がそれぞれ自分の位置につくのを恵は見届ける。まさか初戦の相手が彼女たちだなんて。
恵はそこに因縁のようなものを感じる。勝負の開始を告げる号砲が鳴る。
恵は腰を下ろして綱に全体重をかける。しかし、綱はびくともしない。
膠着状態がしばらく続く。恵は手のひらに縄が食い込むのを感じる。
やがて恵たちは前の方に引っ張られていく。恵は必死に抗おうとするけれど、自分ひとりの力ではどうしようもない。
恵たちはじわりと引きずられていき、そして勝負の決着を告げる号砲が鳴る。
初戦敗退だった。恵たちのクラスは悔しそうにグラウンドから退場する。
恵は綾乃がやってくるのを待って話しかける。
「負けちゃったな。なんとか抗おうとしたけど、いったん流れができてしまうと無理だった」
「仕方がない。一人ひとりの力は小さい。相手の絆の方が強かったということだ」
「こうなったら、杏奈たちにはぜひ優勝してほしいな」
「そうだな。わたしたちの分も頑張ってほしい」
けれど、二回戦では杏奈たちのクラスも負けてしまう。恵たちは杏奈たちがグラウンドから退場するのを待っている。
「負けちゃった。一所懸命に頑張ったんだけどね」と杏奈が言う。
「いったん引っ張られるとダメだね。どうしても踏ん張りが効かなかった」と由佳も言う。
結局、優勝したのは二年生の鈴木涼夏がいるクラスだった。
「やっぱり涼夏さんはすごいな。全部、持って行っちゃうんだから」と杏奈が言う。
「結局、わたしたちは敗北同盟ということだな」と綾乃が言う。
「敗北同盟か。それはいいね。負けた者同士、これからも仲良くしようね」
「負けたからこそ分け合える気持ちもあるからな」
「そうだな。わたしたちの絆はむしろ深まったかもしれない」と恵が言う。
「みんな、これからもよろしくね」と由佳が言う。
そうして体育祭は終わりを迎える。校庭の隅では麗奈がみんなを待っている。
「お疲れさま。みんなよく頑張ったね。ゆっくり休んで。もし良かったら、わたしがおいしいごはんをみんなにご馳走してあげるよ」




