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体育祭とワイングラス ⑦

 佐野由佳はグラウンドに入場する。種目は借り物競走だった。

 由佳はあまり運動が得意ではない。だから本当は気が進まなかった。でもクラスの種目決めで希望する人がおらず、気を遣った由佳は手を挙げたのだった。

 同じクラスの杏奈からは「本当に大丈夫?」と訊かれた。

 由佳は「学級委員長が先生に責められていて可哀想だったから」と答えた。

 そうなのだ。由佳は昔から自分の気持ちよりも他者の気持ちを優先してしまう。

 学級会の種目決めがなかなか終わらず、イライラしている先生に責められている学級委員長を見かねた由佳は、自分の気持ちを抑えて学級委員長のためにと手を挙げたのだ。

 本当は控え目な性格なので目立つことが嫌いだった。でも誰かが困っていると、たとえ自分が目立つとしても助けてしまうのが由佳だった。

 それで周囲からは「自分ばっかりいい人ぶって」と反感を買うこともあった。

 もしかすると、中学生の頃にいじめられていたのはそれも原因なのかもしれない。

 それでも、由佳はどうしても他者を優先してしまうのだった。

 由佳はそんな自分のことが嫌いだった。自分の意思があって誰かを助ける訳ではない。

 ただ他者の気持ちに反応してしまうだけだ。そこに主体性はない。

 だから誰かのために動いたことで反感を買って、自分の行動に後悔することもある。そんな時に後悔の気持ちを抱いてしまう自分が許せない。

 自分の行動は本当の善意からくるものではない。それはただの「偽善」なのだ。

 由佳はそうして自分を責めてしまうのだった。

 借り物競争が生徒たちに敬遠されるのは、デリケートなお題が含まれているからだ。例えば「仲直りをしたい人」とか、「自分のいちばんの親友」とか。

 誰を選ぶか選ばないかで人間関係に亀裂が入りかねないので、放っておいてくれというのが生徒たちの思いだった。

 それでも先生の中には生徒たちの思いを理解しない人がいて、生徒のためになると勘違いをして今でも種目に残しているのだった。

 由佳はスタートラインに立つ。困惑するお題には当たらないでくれと心の中で願いながら。グラウンドを見渡すと何人かの表情が目に入る。

 杏奈は心配そうに由佳のことを見ている。恵は「がんばれ!」と声をかけてくれる。綾乃は暗い表情でうつむいている。

 そしてスタートの号砲が鳴る。由佳はゆっくりと走り出す。

 すぐにお題箱の前にたどり着く。由佳は箱の中に手を入れてお題を引く。

 由佳が引いたお題は「自分が好きな人」だった。まったく……と由佳は思う。

 どうして好きな人とそれ以外の人を選別させようとするのか。そのせいで人間関係が壊れてしまった先輩の話をいくつも聞いた。

 でも、由佳はこのお題ならまだいいかと思った。

 友達を一人だけ選べと言われたら困ってしまうけれど、お題を「恋愛として好きな人」だと解釈すればわたしには一人しかいない。

 由佳は恵の姿を見る。恵はスタートの前に言ってくれた。

 もしお題で困ってしまったらわたしを選べと。

 恵は由佳の視線に気づくと、力強くうなずいてくれた。

 だから由佳は遠慮せず恵の元に向かうことができた。由佳がそばに近づくと恵は言った。

「わたしを頼ってくれてありがとう。ところで由佳のお題はなんだったんだ?」

 由佳は顔を赤くしながら恵にお題を見せる。お題を見た恵もすぐに顔が赤くなる。

「わたしを選んでくれてありがとう」と恵は言う。

「こちらこそ、わたしを受け入れてくれてありがとうね」と由佳が言う。

 そして二人は手を繋ぐと、ゴールに向けて走り出す。

 走りながら由佳は思う。恵がいてくれて本当に良かった。

 中学生のわたしは孤独だった。いじめられていたのは一年生の間だったけれど、杏奈や綾乃のおかげでいじめが終わった後もなかなか友達はできなかった。

 それはいろんな噂が残っていたからだと思う。

 男癖が悪いという噂は消えなかったし、いじめていた男子生徒が退学したことで、あいつに関わると学校を辞めさせられるという奇妙な噂も広がった。

 だから、中学生のわたしと仲良くしてくれたのは杏奈や綾乃だけだった。

 でも、当時から杏奈と綾乃は特別に仲が良さそうに見えた。だから、二人はわたしの大切な友達ではあるけれど、二人の間には入り込めないような空気があった。

 それでわたしは一種の疎外感を抱いていた。

 わたしは結局、杏奈や綾乃とは別の世界の人間なんだという感覚があった。

 そんな気持ちを抱いてしまう自分のことが嫌だった。

 やがて噂は薄れていき、卒業を迎える頃には少しづつ友達ができるようになった。それでもわたしは彼女たちに心を開くことができなかった。

 それはたぶん、いじめを受けたことで心に人間不信が根付いてしまったからだと思う。

 誰かを信じたとしてもいつ裏切られるか分からない。

 だから初めから誰のことも信用しない。わたしはそう思うようになっていた。

 そんなわたしの人間不信を壊してくれたのが恵だった。

 どうして恵のことは信じられるのか。それはわたしにもよく分からない。

 でも、恵のそばにいるとなぜか安心することができた。その感覚は誰にも抱いたことがないものだった。たぶん、本当の意味で対等な関係を築けているのは恵だけだからだと思う。

 杏奈や綾乃も大切な友達だ。彼女たちの前では自由に息をすることができる。

 でも、わたしの心の中では自分を助けてくれた恩人だという感覚が抜けない。心のどこかで彼女たちのことを見上げている自分がいる。

 そこにあるのは純粋な友情ではない。どこかに畏怖の気持ちがある。

 彼女たちはわたしより上の存在なんだという感覚がある。そんな自分のことが嫌になる。

 彼女たちはそんなことを望んでいないと分かっているのに。

 一方で、恵に対して感じるのは純粋な好意だった。不純な気持ちをまったく持たずに恵とは向き合うことができる。恵はそういう雰囲気を作ってくれる。

 だから恵と一緒にいると安心するんだと思う。だから恵のことは信じられるんだと思う。

 わたしは恵と出会ったことで、初めて人への信頼を知った。

 わたしの心を覆っていた人間不信は、恵と出会ったことで崩れていった。

 おかげで最近は、杏奈や綾乃に感じていた複雑な気持ちも収まりつつある。

 わたしは恵のことが大好きだ。それは何も恋愛としての意味だけじゃない。

 恵のことは一人の人間として大好きなのだ。そしてわたしは杏奈や綾乃のことも大好きだ。今は心からそう言える。

 由佳は恵と手を繋ぎながらゴールを目指す。わたしは今、幸せなのだと由佳は思う。

 わたしにはこんなにも大切な友達がいる。そしてこんなにも好きな人がいる。それは誰もが得られるものではない。

 そして由佳は恵と一緒にゴールをする。そこには杏奈と綾乃が待っていてくれる。

 由佳は恵と抱き合って、ゴールの喜びを共有する。二人が抱き合うと、グラウンドには歓声が上がる。「おめでとう。よく頑張った」そんな声が聞こえてくる。

 由佳と恵はそれから、杏奈や綾乃を入れて四人でくっつき合う。

 みんなは笑顔になっている。由佳はみんなに声をかける。

「わたし、みんなと友達になれて本当に良かった! ありがとう! これからもずっとみんなのことが大好きだよ!」

「ありがとう! わたしも由佳たちのことが大好きだ!」と杏奈が言う。

「こ、この先もずっと由佳たちと一緒にいたい」と綾乃が言う。

「お疲れさま。よく頑張ったね。ひとまずゆっくり休んでくれ」と恵が労わる。

「ありがとう」と由佳は言う。そして由佳は恵の頬に口付けをする。

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