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体育祭とワイングラス ④

 石黒杏奈はスタートラインに立つ。胸の中が静かに高揚しているのが分かる。

 杏奈は前を見据える。勝負の前のこの静けさがわたしは好きだ。

 百メートル走、決勝戦。わたしは今日、優勝するためにここにいる。

 杏奈の隣にいるのは、鈴木涼夏。

 高校二年生の先輩だけれど、杏奈の永遠のライバルだ。

 杏奈は中学生の頃からバスケ部だったけれど、足の速さを買われて、陸上部の大会にもよく出ていた。そこで何度も涼夏と戦ったけれど、いつも僅差で負けてしまう。

 今日こそは涼夏さんに勝ちたい。その思いでスタートラインに立っている。

「杏奈ちゃんには絶対に負けへんからね!」

 競技の前には涼夏にそう話しかけられた。わたしだって同じ気持ちだ。

 静寂の時間が流れる。心臓の鼓動が高まる。そしてスタートの号砲が鳴る。

 杏奈は思いっきりスタートダッシュをきる。今日は足がスムーズに出る。

 杏奈は順調にスピードを上げる。自分が涼夏の前に出ていることが分かる。杏奈の気持ちは高揚する。もしかしたら今日こそ涼夏さんに勝てるかもしれない。

 しかし涼夏はすぐに追い上げてくる。気がつくと涼夏は杏奈に並んでいる。

 やっぱり簡単にはいかないよね。杏奈はもう一度、気を引き締める。

 杏奈と涼夏は横並びの勝負を展開する。どちらが勝ってもおかしくない、僅差の戦いを繰り広げる。いつものことだ。わたしたちの戦いはこうでなくちゃいけない。

 ゴールが目前になる。勝負はここからだ。今日こそは涼夏さんに勝つ。

 杏奈は足に力を込める。少しでも前に出ようと一歩に全力を注ぐ。

 しかし、杏奈の視界にはわずかに前に出た涼夏の姿が映る。そして、気がつくと杏奈たちはそのままゴールテープを切っている。

 今日も涼夏さんに負けてしまったか。でも、杏奈は清々しさを感じている。

 今日のわたしは全力を出し切った。ミスなく最後まで走り抜けた。

 今日のわたしに悔いはない。それでも涼夏さんに負けたのだから、完敗という他にない。

 杏奈は膝に両手をついて息を切らす。彼女の口元にはつい笑顔がこぼれる。

 何の笑顔かは自分にもよく分からない。でも、こんなに気持ちよく負けたのは今日が初めてのことだと思う。涼夏が杏奈に話しかける。

「今日も杏奈ちゃんに勝てた! 途中までは負けるかもしれへんと思っていたけど、最後まで諦めずに走ってよかった! めっちゃ良い勝負ができたよ。ありがとう」

「わたしの方こそ、ありがとうございました! 今日ほど清々しい気持ちで負けたのは初めてです。こんなに全力を出し切って負けたんだから、やっぱり涼夏さんはさすがです。これからも対戦よろしくお願いします。楽しみにしています」

 そこで涼夏は、杏奈の手を取る。そして両手を大きく上げる。杏奈もそれに合わせて両手を上げる。グラウンドには歓声が上がる。

「二人ともよく頑張った!」「とても良い勝負だった!」そんな声が聞こえてくる。

 涼夏の目線の先には家族がいる。優しそうな両親と可愛くて小さな弟。

 杏奈はうらやましいと思ってしまう。わたしにも血の繋がった本当の家族がいたら。

 そんな思いに囚われてしまう。それではいけないと杏奈は思う。

 今日はせっかくお父さんとお母さんが来てくれているんだから。それに叔母の麗奈ちゃんも神戸から来てくれている。悲しい思いをさせる訳にはいかない。

 杏奈は家族の姿を探す。お父さんとお母さんは応援席で手を振ってくれている。

 そして、麗奈も校庭の隅で自分を見てくれているのが分かる。

 よく見ると、麗奈は涙を流しているように見える。わたしの気のせいかもしれないけれど。

 どうして、麗奈ちゃんは泣いているのだろう。わたしの敗北を悔しいと思ってくれているのだろうか。だとすればちょっと申し訳ないと思う。

 思えば、麗奈ちゃんは昔からわたしのことを可愛がってくれた。

 血が繋がらないにも関わらず、本当の姪っ子のようにわたしと接してくれた。

 それは本当に嬉しかった。新しい両親との距離感に戸惑っていたわたしを優しく包み込んでくれた。両親とわたしの潤滑油になってくれた。

 麗奈ちゃんには感謝しかない。いてくれてありがとうと杏奈は思う。

 それから杏奈は綾乃の姿を探す。綾乃はクラスの応援席にいる。

 でも、彼女はうつむいているからその表情を見ることはできない。

 杏奈は「どうしたんだろう」と彼女のことが気になってしまう。

 きっと綾乃のことだから、何かネガティブな思いに囚われているのだろう。

 そんなふうに自分のことを卑下しなくても良いのに。綾乃はそのままでとても素敵なのに。彼女にそう声をかけたくなってしまう。

 そこで、恵が綾乃に声をかける。綾乃は反応して顔を上げる。恵を見た瞬間、綾乃の表情がパッと明るくなったのが分かる。

 よかった。わたし以外にも恵や由佳といった大切な友達ができて。

 ずっと綾乃と一緒にいる訳にはいかないから、わたしがいない時間に綾乃がひとりぼっちになることが気がかりだった。でも、今の綾乃はひとりぼっちじゃない。

 杏奈はそこで安心する。わたしがいちばん望んでいるのは綾乃の幸せなのだ。

 杏奈は、次の二人三脚に綾乃と恵が出ることを思い出す。

 綾乃の晴れ舞台を見ることができる。いちばん楽しみにしていた種目が始まる。

 杏奈は急いで応援席に戻る。綾乃の姿がよく見える最前列の席を、クラスのみんなが譲ってくれる。「本当にありがとうね」と杏奈はみんなに感謝する。

 杏奈はドキドキしながら、二人の登場を待っている。綾乃が緊張した面持ちで、恵と一緒にグラウンドに現れる。杏奈は綾乃に思いっきり大きく手を振る。

 綾乃は杏奈に小さく手を振りかえしてくれる。杏奈はそこでホッとする。

 わたしに気づけるくらいの心の余裕は失っていないということかな。

 何レースか終わって、いよいよ綾乃と恵がスタートラインにつく。綾乃は自分の顔を叩いて前を見る。恵が何かを話しかけて、綾乃は笑顔になる。

 わたしは綾乃以上に緊張しているのかもしれない。今までの練習の成果がきちんと発揮されますように。杏奈は祈るような気持ちで綾乃たちを見ている。

 ついにスタートの号砲が鳴る。綾乃たちは最初の一歩でつまずいてしまう。

 杏奈は拳をギュッと握りながら綾乃たちを見つめている。

 大丈夫。綾乃と恵ならきっとゴールできるはずだ。わたしはそう信じている。

 やがて、体勢を立て直した綾乃たちは前に進み始める。その歩みは確かに遅いかもしれないけれど、それでも彼女たちは一歩ずつ確実に前へと進んでいく。

 杏奈の胸の中に熱いものが込み上げてくる。

 綾乃、がんばれ。わたしたちがついているから。

「綾乃ちゃん、がんばれ」そんな声援が聞こえてくる。

 そうだよ、綾乃。あなたはひとりぼっちじゃない。自分では気がついていないかもしれないけれど、たくさんの人が綾乃と友達になりたいと思っているんだよ。

 そして杏奈は気がつくと大きな声を上げている。「綾乃、がんばれ!」

 その声が綾乃に届いたかどうかは分からないけれど、綾乃たちはもう前だけを見ている。

 わたしにはそう見える。そして二人は最後にゴールラインを通り過ぎる。

 杏奈は綾乃の元に駆け寄っていく。気がつくと体が動いている。

「綾乃、よく頑張ったね。ゴールおめでとう!」

 杏奈は綾乃に声をかける。そして綾乃のことを思いっきり抱きしめる。

 不意に涙があふれてくる。どうしてかは分からないけれど、わたしは綾乃のことが嬉しくて仕方がない気持ちになっている。

 おめでとう、綾乃。よかったね、綾乃。そんな思いが胸にあふれてくる。

 杏奈のあとは恵が綾乃を抱きしめる。杏奈はその姿を温かい気持ちで見つめる。

 次の種目は創作ダンス。わたしたちの番だ。「見ていてね、綾乃」と杏奈は思う。

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