体育祭とワイングラス ③
綾乃は、恵と一緒にスタートラインにつく。二人の足は紐で結ばれている。
同じレースの出場者を見渡すと、みんなが足の早そうな人に見えてくる。
綾乃はつい萎縮してしまう。わたしなんかがここにいていいのだろうか。
綾乃は、その思いを必死に頭から追い出そうとする。それではいけない。今日はいい順位を取ることが目標ではない。恵と一緒にゴールすることが目標なのだ。
綾乃は気持ちを入れ替えるように両手で頬を叩く。そしてゴールを見据える。
恵は綾乃の背中を軽く叩いてくれる。
「緊張しないで。ゆっくりでいいからゴールすることを目指そう」
綾乃は恵の顔を見て「うん」とうなずく。恵は笑顔で応えてくれる。
綾乃は前を見る。恵の背中をしっかりと抱く。そしてスタートの号砲が鳴る。
綾乃と恵はスタートする。最初の一歩目で綾乃はふらついてしまう。
急いで体勢を立て直そうとする。いきなり周りとは差がついてしまう。
綾乃は焦りを感じる。そこで恵が綾乃の背中をさする。
「焦らないで。一歩一歩を確実に進もう。今日はゴールすることが大切なんだから」
綾乃は泣きそうになった目を右手でこすって、もう一度だけ前を見据える。
「せーの」と声を掛け合って、改めて一歩目を踏み出す。今度はうまく足が前に出る。綾乃はほっとしながら、恵と一緒に一歩ずつ前に進んでいく。
毎日の練習を思い出して、その通りに焦らずゴールを目指して、歩みを進める。
とても「走る」とは言えないスピードだけれど、綾乃たちは着実に進んでいく。
前の方で歓声が鳴る。トップの二人がゴールしたみたいだ。わたしたちはまだ半分も進んでいない。綾乃は焦ってしまう気持ちを必死に抑えて、足を前に出していく。
やがて、綾乃たちへの声援が聞こえてくる。
「綾乃ちゃん、がんばれ。恵ちゃん、がんばれ」
綾乃はその声援を受けて、気持ちを奮い立たせる。他の四組はすでにゴールしている。
綾乃たちだけがゴールできずに取り残されている。
わたしの挫けそうになる心をみんなの声援が支えてくれる。綾乃はみんなが応援してくれていることに驚いている。
自分なんて学校にいてもいなくても同じだと思っていた。自分のことなんて誰も見ていないと思っていた。でも、今はみんなが応援してくれている。
「白木さん」ではなく「綾乃ちゃん」と呼んでくれている。綾乃はその嬉しさにかえって泣きそうになってしまう。でも、今は泣いている訳にはいかない。
そこで、ひときわ大きな声援が綾乃の耳に聞こえてくる。「綾乃、がんばれ!」
綾乃はすぐに杏奈の声だと分かる。杏奈がわたしのことを応援してくれている。
考えてみれば当然のことかもしれないけれど、それでも綾乃は嬉しくなる。杏奈の声を聞くと元気が湧いてくる。綾乃はゴールすることだけを考えるようになる。
気がつくと綾乃は前に進むことに集中していて、声援が耳に届かなくなる。
恵と自分の呼吸だけが耳に聞こえてくる。わたしたちの呼吸はピッタリと一致している。
いつの間にか、綾乃たちはゴールラインを通り過ぎている。恵が徐々にスピードを緩めて、足を止めたことで、綾乃はゴールしたことに気づく。
綾乃は自然と恵に合わせて足を止める。ゴールはつまずかずに止まれたことで、綾乃は恵と一心同体になれていたことに思い至る。
わたしは嬉しいと思う。恵と一緒にゴールするという目標を叶えられた。
綾乃の目にはつい涙があふれてくる。
「恵、ありがとう」気がつくと綾乃は恵にお礼を言っている。
「こちらこそありがとう」と恵が言う。足の紐を外した恵は綾乃の背中をさすってくれる。
「よく頑張ったね。わたしはとても楽しかった」
そこに杏奈が駆け寄ってくる。「綾乃、よく頑張ったね。ゴールおめでとう!」
杏奈は綾乃を力いっぱいに抱きしめる。綾乃は少しだけ呼吸が苦しくなる。
耳を澄ますと、杏奈も泣いていることがわかる。「綾乃、本当によかった」
綾乃はそこでふと冷静になる。「なんで杏奈が泣いているんだよ」
「ごめん、なんでだろうね」杏奈が泣きながら答える。綾乃はそこで嬉しくなる。
「ありがとう。わたしのために泣いてくれて」
「当たり前だよ、そんなこと」
綾乃は負けないくらい杏奈のことを力いっぱい抱きしめる。
杏奈の「クスクス」という笑い声が聞こえてくる。
「わたしたち、こんなところで抱き合って何しているんだろうね」
「本当に。わたしたちのことは秘密の関係のはずなのに」
そこで恵が言う。
「二人はやっぱり仲がいいな。わたしも綾乃と抱き合いたい。この喜びを分かち合いたい」
「いいよ。そうしよう」と綾乃は言う。そして今後は恵と抱き合う。
綾乃は改めて言う。「恵、ありがとう」
恵は綾乃のことを優しく抱きしめてくれる。「わたしはとても嬉しいよ」
綾乃は恵の温もりを感じる。
もしわたしに本当のお母さんがいれば、こういう感じなのだろうか。
綾乃と恵は改めて笑顔で見つめ合う。グラウンドには歓声があふれている。
二人三脚が終わると、次の種目はダンスになる。我が校にダンス部はないけれど、有志たちが創作ダンスを踊るのだ。そこには杏奈も参加する。
綾乃は杏奈のダンスが見たくて、グラウンドから退場するとすぐに自分のクラスの応援席に戻る。そしていい席を確保しようとできるだけ前に出させてもらう。
ダンスに杏奈が出ることは周知されていて、自分との仲の良さを知ったクラスのみんなが、見るための場所を空けてくれる。
いよいよダンスが始まる。
いろんなグループが次々に登場して、音楽に乗せてそれぞれのダンスを踊る。
綾乃は気がつくとリズムに乗って身体を揺すっている。
だんだんと楽しい気分になってくる。そして杏奈のグループが登場する。
杏奈のグループは三人組だった。一人は背の高い金髪のギャルで、もう一人は黒髪で小柄な胸が大きい女の子。そんな二人と一緒に杏奈は踊っている。
杏奈は弾けるような笑顔で全身を大きく動かしている。もともと杏奈の運動神経がいいからなのか、綾乃から見ると杏奈は他の生徒たちよりもはるかに上手い。
それでも三人組の息はピッタリだった。綾乃はうらやましいと思う。
わたしも杏奈と一緒に何かを創り上げたい。そんな思いが綾乃の中に浮かぶ。
同時に綾乃をネガティブな感情が襲う。わたしなんかができることなんて何もない。杏奈と何かを創ろうとしても足手まといになるだけだ。
綾乃は杏奈と踊っている二人に嫉妬してしまう。自分の知らない濃密な時間を、あの二人と杏奈が過ごしてきたことに複雑な感情を抱いてしまう。
綾乃の中にどす黒い独占欲がよみがえる。杏奈はわたしだけのものなのに。
そんな良くない感情がよみがえってしまう。わたしはなんて醜いのだろう。
わたしには杏奈を独り占めする資格なんてない。杏奈はみんなのものだ。
それなのにわたしは、杏奈が他の人たちと何かを成し遂げることに心の痛みを感じている。
杏奈の喜びにわたしがいないことで寂しさを感じている。
綾乃は深呼吸をして心の痛みを鎮めようとする。
落ち着け。そもそも、わたしは杏奈の恋人なんだから。恋人の幸せを邪魔することは絶対にしてはいけないことだ。わたしは心の余裕を持たなければならない。
静かに深呼吸を繰り返しているうちに、綾乃は平静を取り戻していく。
杏奈が笑顔で友達とダンスを踊っている。その事実を、綾乃は素直に楽しめるようになっていく。わたしは楽しむために今ここにいるのだ。
そしてダンスが終わる。グラウンドは歓声に湧いている。
綾乃は静かに拍手をする。そして体育祭はお昼休みを迎える。




