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体育祭とワイングラス ②

 白木綾乃は生徒たちの応援席から、三角座りで百メートル走を眺めている。

 彼女は運動が苦手なので、ほとんどの競技に参加しない。

 目の前を颯爽と走っている生徒たちをうらやましく思う。

 わたしは彼女たちのように楽しそうには走れない。走ることを楽しいと思ったことがない。体育の授業はいつも苦痛だ。この時間が早く終わって欲しいと思っている。

 球技はとくに苦手だった。それは子どもの頃にトラウマがあるからだ。

 綾乃は子どもの頃から運動が苦手だった。

 それなのに小学生の頃、体育の授業で無理やりサッカーに参加させられた。

 本当はやりたくなかったけれど、拒否することはできなかった。

 実際にサッカーが始まると、綾乃は明らかに足手まといだった。だからコートの隅で静かにしていると「サボるな」と先生から怒られた。

 一方で、サッカーに参加しようとすると「邪魔だ」とチームメイトから煙たがれた。綾乃が前に出たばっかりに、チームメイトの動きを遮ってしまったからだ。

 綾乃はどうしたら良いのかわからなくなって、泣きそうになった。

 目に涙をためてうつむいていると、誰かの舌打ちが聞こえてきた。それで綾乃は体調不良のふりをして、体育の授業から逃げてしまったことを覚えている。

 綾乃は体力に自信がない。その理由を彼女は覚えている。

 子どもの頃の綾乃は喘息だった。ちょっとした刺激で咳が止まらなくなった。

 だから綾乃はできるだけ体を動かさないようにした。外に出歩くことを避けていた。家の中ばかりで過ごしていた。それで本をたくさん読むようになった。

 体を動かすことが苦手なのは、体を形成するはずの幼少期にそういう過ごし方をしたからだと綾乃は思っている。仕方がないと言えるのかもしれない。

 でも、それだけでは自分を納得させられない何かがある。

 運動ができないことを含めて、綾乃は自分のことが嫌いだと思う。

 仕方がないことだと頭では分かっていても、そんな自分と折り合えないのだ。

 それは運動についてだけじゃない。コミュニケーションが苦手なことも綾乃の中で折り合いが付けられずにいることの一つだった。

 そのせいで綾乃は今までずっと孤立していた。杏奈しか頼れる人がいなかった。

 最近は恵や由佳が仲良くしてくれているけれど、それは相手の善意で成り立っていることだと綾乃は思う。

 わたしには何にもできることがない。だからこそわたしは自分のことが大嫌いだ。

 どうすればこんな自分を受け入れることができるのだろう。

 わたしにはまだその答えが分からない。

 いよいよ百メートル走に杏奈が出場する。いつもは見せない凛々しい表情で、前を見据えている。そしてスタートの号砲が鳴る。杏奈は勢いよく走り出す。

 杏奈は美しい姿勢でグラウンドを駆け抜ける。その姿を見て、綾乃はかっこいいなと思う。わたしもあんなふうになれたらいいなと思う。でも、わたしにはできない。

 杏奈は小さな頃からわたしと仲良くしてくれた。それが本当に嬉しかった。

 でも、綾乃は思う。どうしてわたしなのだろう。

 他に魅力的な子はたくさんいるのに。わたしには何の魅力もないのに。

 どうしてわたしなんかと仲良くしてくれるのだろう。

 杏奈は昔から輝いていた。みんなの輪の中心にいて、いつも笑顔が輝いていた。

 でも、わたしは違う。わたしはいつも他人とうまく関われずにひとりでいた。笑顔はいつもぎこちなくて、わたしには何もうまくできることがない。

 それなのに杏奈はいつもわたしと一緒にいてくれた。どうしてだろう。その理由がわたしにはよく分からない。聞いてみたいと思うけれど、怖くてそのままにしている。

 杏奈は一着でゴールする。グラウンドに喝采が湧く。

 杏奈はクラスメイトと抱き合って喜びを分かち合う。綾乃は嫉妬心を抱いてしまう。杏奈がわたし以外の人たちと笑顔で抱き合っている。そこはわたしだけの場所なのに。

 綾乃はその思いを何とか胸の奥に押し留める。それはいけない感情だと綾乃は思う。

 杏奈はわたしだけのものではない。

 独占欲はいつか身を滅ぼす。杏奈との間にすきま風が吹きかねない。そんな思いはもう二度としたくない。わたしは純粋に杏奈の幸せを願わなくてはならない。

 百メートル走はその後も何レースか行われて、ついに決勝戦を迎える。

 杏奈は集中した表情でスタートの号砲を待っている。その表情も美しいと綾乃は思う。

 そしてスタートの号砲が鳴る。杏奈は陸上部の生徒とトップを競い合う。

 結局、杏奈はわずかな差で二着に終わる。でも、その表情は清々しい笑顔だった。

 陸上部の生徒と健闘を称え合う杏奈を見て、綾乃はとても眩しいと思う。

 どうして杏奈みたいに輝いている子が、わたしなんかと付き合ってくれるのだろう。

 自分との格差に綾乃はいたたまれなくなってしまう。

 わたしはこのまま杏奈と一緒にいていいのだろうか。それはもしかすると間違ったことではないのだろうか。杏奈の隣にいるべき人は、他にいるのではないだろうか。

 綾乃はそこでうつむいてしまう。そんなつもりはないのに涙が溢れそうになる。

 だめだ。こんな後ろ向きではいけない。杏奈に申し訳が立たない。

 そこで綾乃は後ろから声をかけられる。そこにいたのは朝野恵だった。

 恵は綾乃に言う。「そろそろ行こう。次は私たちの番だよ」

「分かった。急いで行く」と綾乃は応える。

 杏奈のレースに夢中になって、次の競技に自分が出場することを忘れていた。

 綾乃は恵と二人三脚に出場する。

 本当は気が進まなかった。綱引きだけに出場して、運動が苦手な綾乃は他の競技を見ているだけが良かった。でも、恵が二人三脚に出ようと誘ってきたのだ。

 綾乃は断れる訳がなかった。むしろ、恵が同じクラスの他の生徒たちを差し置いて、自分を誘ってくれたことが嬉しかった。

 綾乃は「ありがとう。恵が一緒にやってくれるとわたしは嬉しい」と言って、彼女の誘いをすぐに受け入れた。でも、そこからが不安だった。わたしは迷惑をかけるのではないか。

 そのことを恵に相談すると、彼女は綾乃に言ってくれた。

「勝ち負けが重要なんじゃない。綾乃と一緒にやることが重要なんだ。わたしは綾乃のペースに合わせるよ。早く走ることじゃなくて、確実にゴールすることを考えよう」

 綾乃はその言葉を聞いてとても嬉しくなった。

 恵と一緒ならやっていけるような気がした。

「ありがとう」と綾乃は言った。「こちらこそ」と恵は言った。

 出場が決まってから、綾乃たちは昼休みを使って毎日のように練習した。

 最初はどんなにゆっくり走ってもうまくいかなかった。

 どうしても自分の足がもつれてしまう。その度に綾乃は申し訳なくて泣きそうになった。

 そんな綾乃に、恵は「大丈夫だよ」と声をかけてくれた。

 練習の甲斐があって、しばらくすると綾乃たちはうまく走れるようになった。

 とは言っても、走るペースはゆっくりなのでいい順位はとても望めそうにない。

 それでも恵はいいと言ってくれた。

「綾乃と一緒に何かを頑張ることが大事なんだ。わたしは綾乃と一緒にゴールを目指したいと思ったんだ。わたしはこうして綾乃と一緒に走れていることが何よりも嬉しいんだ。わたしは今、毎日が楽しくて仕方がないよ」

 綾乃はそんな恵の言葉に支えられて、今まで練習を頑張ってきた。

 そして今日、綾乃は本番を迎える。順位なんて気にしない。恵と一緒にゴールを迎えることが大事なんだ。綾乃はそう自分に言い聞かせる。

 綾乃は恵と一緒に出場の列に並ぶ。号砲が鳴り、綾乃は恵と一緒にグラウンドに入場する。緊張して自分の鼓動が高まっていることが綾乃には分かる。

 綾乃はグラウンドを見渡す。杏奈が応援席から大きく手を振ってくれているのが分かる。

 綾乃は小さく手を振り返す。そしていよいよ二人三脚が始まる。

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