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体育祭とワイングラス ①

 岩本麗奈は校庭の隅から、体育祭の様子を眺めている。

 高校生たちは列を揃えて、入場行進をしている。

 その様子を見ながら、麗奈は複雑な気持ちに囚われる。

 ここにはわたしが上手くできなかったものがある。

 わたしはみんなで一緒に何かをすることができなかった。いつもはみ出し者になっていた。どうしてわたしにはそれが上手くできなかったのだろう。

 わたしはいつもひとりだった。孤独と虚無感がわたしの心を支配していた。

 当時のことを思い出して、麗奈は心に鈍い痛みを感じる。

 今でも孤独と虚無感はわたしに付いて回っているけれど、今ではわたしはそれらに馴染んでいると思う。でも、当時は違う。

 わたしはとにかく生きていることが苦しかった。

 理由はよく分からなかった。だから自分がどうしたらいいのかも分からなかった。

 そのためにわたしは非行に走った。あるいは自分の身体を傷つけた。

 それでも何も解決しなかった。ただ虚しさが募っていくだけだった。

 一方で、今わたしが目にしている高校生たちの顔は輝いて見える。わたしはその輝きの輪に入れなかった。過去の自分を思い出して、わたしの心はじりじりと疼く。

 高校生たちが入場行進を終えると、どこかの偉い大人がマイクの前で話し始める。

 昔と変わらずその話は退屈で、麗奈は思わずあくびをしてしまう。

 高校生の頃は体育祭に参加することもなかったけれど、小さい頃にはこんなわたしでも何の疑いもなく、学校行事には律儀に参加していた。

 今から振り返るとよくやっていたなと思う。

 それなのにわたしは一体、どこで道を間違えたのだろう。

 明確なきっかけがあった訳ではない。じわりじわりと何かがおかしくなっていき、気がつくとわたしは、自分でもよく分からない場所に迷い込んでいた。

 そこでわたしはどこかに進める訳でもなく、ぐるぐると同じ場所をさまよい続けていた。

 ただひたすら不安と焦燥感だけが募っていた。

 気がつくと知らない大人の話は終わり、高校生たちはラジオ体操を始める。みんなが揃って同じ動きをすることに、わたしは言葉にならない落ち着きのなさを感じる。

 わたしにはそれができない。みんなと同じであることに息苦しさを感じてしまう。

 どうして、わたしはそうなのだろう。みんなとは違う自分だけの世界に逃げ込みたくなってしまう。そうしてわたしは気がつくと迷子になっているのだ。

 ラジオ体操が終わると、高校生たちはグラウンドから順番に退場する。

 そして体育祭の種目が始まる。一つ目の種目は百メートル走だった。

 麗奈はあまり勉強が得意ではなかったが、それ以上に運動が苦手だった。だから本当は体育の授業には参加したくなかったし、体育祭には行かなかった。

 わたしは体育の授業の嫌な記憶を思い出す。

 体力測定では、どの種目もほとんど最下位の成績だった。やりたくないのに走らされたり、ものを投げさせられたり、体を伸ばされたりした。

 そして、わたしは体を動かす時の不格好さやひどい成績に恥をかいた。

 球技ではできるだけ目立たないように過ごすことを心がけた。それでも、投げたり走ったりするのが下手すぎて、わたしは悪い意味で目立ってしまう。

 わたしはそれらの嫌な記憶をできれば思い出したくなかった。それなのにわたしはどうしても思い出してしまう。そしていたたまれなくなって拳を強く握りしめる。

 思えば、わたしは昔から何かを成し遂げたことがない。達成感を味わったことがない。

 だからわたしは現実の生活が嫌になり、非行に走った。

 それでも物事は何も好転しなかった。

 わたしは悪い仲間とつるんだ。そそのかされて万引きや援助交際もした。そうしてわたしが得たものなど何もなかった。

 わたしが抱いたのは「ここもわたしの居場所ではない」という感覚だけだった。

 結局わたしに残っているのは、家族に迷惑をかけたという罪悪感だけだ。

 麗奈は目当ての生徒が出てくるまで、苦虫を噛み潰したような表情で百メートル走を眺めている。服装は黒色のパーカーと灰色のスウェットパンツを着ている。

 彼女は細身の金髪で、目は切れ長。身長はそれほど高くない。

 ポケットに手を入れて、学校の敷地を囲んでいる金網に背中を預けている。

 グラウンドを取り囲んで座っている高校生の家族たちからは一歩引いて、一人きりで体育祭の様子を見つめている。

 本当はお酒があればいいのだけれど、学校に持ち込む訳には行かない。

 だから麗奈は、口の寂しさをごまかすために風船ガムを噛んでいる。

 彼女は神戸にあるスナックで働いている。行く場所がなかった二十歳の麗奈をその店のママが拾ってくれたのだった。そこから十年くらいお世話になっている。

 もともとお酒はあんまり得意ではなかったけれど、仕事でお酒をたしなんでいるうちに好きになった。今では、お酒は彼女の生活に欠かせないものだ。

 やがてグラウンドの百メートル走には、麗奈の目当ての生徒が現れる。

 彼女の名前は、石黒杏奈。麗奈の姉の子ども、つまり彼女の姪である。

 杏奈は身体をほぐした後でスタートラインにつく。

 彼女は半袖の体操服を着て、袖を肩までたくし上げている。頭には青色のハチマキを締めている。いつもの笑顔とは違い、真剣な表情で前を見据えている。

 スタートの号砲が鳴る。杏奈はすばやく走り出す。

 最初からレースの先頭に立ち、他の四人との差を広げていく。

 杏奈の走り方はとても美しいと麗奈は思う。

 自分もあんなふうに走れたら気持ちいいんだろうな。でもそれは自分には望めないことだと分かっている。わたしは彼女のことをうらやましく思う。

 杏奈のことを日頃から見ていて、もし自分が彼女のような人間だったらと想像する。きっとみんなの輪の中にいて楽しい学校生活を送っていたのだろう。

 わたしは杏奈に対して嫉妬心を抱く。でも、それはいけない感情なのだと思う。

 愛すべき姪っ子には絶対に見せてはいけないもの、恥ずべきものだと自分に言い聞かせる。わたしは深呼吸をして自分の心を落ち着かせる。

 やがて圧倒的な差をつけて、杏奈はゴールテープを切る。

 杏奈は膝に手を置いてひと息つくと、笑顔を見せてクラスメイトの元に駆け寄る。

 そして彼女たちと抱き合って、勝利の喜びを分かち合う。

 そこには眩しい青春がある。麗奈はかつての自分とのギャップに目眩を感じる。

 麗奈は思わず下を向いてしまう。このまま彼女たちの姿を見ていると、涙が出てしまうかもしれない。しばらく歯を噛み締めた後、もう一度、深呼吸をして平静を取り戻す。

 その後も何レースか行われて、百メートル走は決勝戦を迎える。

 選手たちの中には杏奈もいる。真剣な表情で体をほぐしている。

 やがて、号砲と共に決勝戦が始まる。杏奈は陸上部の格好をした生徒と伯仲のレースを繰り広げる。麗奈は固唾を飲んでレースを見守る。

 杏奈はギリギリのところで陸上部の生徒に競り負ける。

 それでも、杏奈は清々しい笑顔を見せる。お互いの健闘を讃え合い、陸上部の生徒と抱擁を交わす。二人が繋いだ手を挙げると、会場には拍手が湧き起こる。

 麗奈は思わず涙を流す。わたしと違って、杏奈はなんて良い子に育ったのだろう。

 小さい頃から杏奈を見てきた麗奈には感慨が押し寄せる。

 姉夫婦が児童養護施設から子供を引き取ってきた時、正直なところ麗奈は不安だった。虐待を受けた子どもが、里親のもとで果たして真っ当に育つのか。

 その不安を吹き飛ばすかのように、杏奈は元気いっぱいな子になった。

 杏奈が自分のような歪んだ人間に育たなくて本当に良かったと麗奈は思う。

「良かったね、杏奈」と麗奈は心の中でメッセージを送る。杏奈の笑顔は絶えない。

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