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石黒杏奈の誕生日 ⑥

 杏奈は自分の幼少期についてほとんど覚えていない。

 でも断片的なイメージだけは何故か記憶に残っている。

 杏奈はアパートの一室で泣いている。その理由は分からない。

 それでも母親に助けを求めていることは確かだった。杏奈は切実に母親の助けを必要としている。それなのに母親は杏奈のことを見向きもしない。

 杏奈は母親にすがりつく。「お願い、わたしの話を聞いて!」と言って。

 母親は冷たい目で一瞥した後、杏奈の体を突き飛ばす。

「うるさい。あんたに構っている暇なんかないの」

 そして母親は部屋を出ていく。去り際に母親は言葉を吐き捨てる。

「あんたなんか生まれて来なければよかった」

 鍵を閉める音が冷たく部屋に響く。そこで杏奈は涙を流す。

 そうか、わたしなんて生まれてこなければよかったんだ。

 杏奈は部屋の隅でうずくまる。今まで母親に受けてきた暴力の傷が疼く。

 暴力の傷は多くが目立たない背中に刻まれている。

 手で叩かれた跡だけじゃない。鞭で打たれた跡やタバコを押し付けられた跡もある。

 その傷は今でも杏奈の体に残っている。それを綾乃は黙って受け入れてくれる。

 ある日、知らない大人たちが部屋にやってくる。母親は半狂乱になっている。

「あんたたち何しにきたの! 娘は絶対に渡さないわよ!」

 杏奈は怖くなって、母親にしがみつく。普段は母親に拒絶されるのに、この日だけは杏奈のことを抱きしめてくれる。そのことを杏奈は嬉しく思う。

 しかし、杏奈は母親から引き離される。スーツを着た女性が杏奈を抱きしめる。

 そのまま、杏奈は白い車に連れて行かれる。母親は他の大人たちに取り押さえられている。大声で泣きながら杏奈の方に手を伸ばしている。

 それが杏奈にとって母親を見た最後の姿だった。

 杏奈はとても寂しかった。同時にとても安心していた。

 母親と離れてしまうことはとてもつらかった。母親にもっと愛されたかった。

 でも、杏奈は子供心に分かっていた。母親とこのまま一緒にいても、愛されることはない。むしろ母親と一緒にいることがつらくなっていくだけだ。

 わたしにはこれから新しい生活が始まるのだ。未来への期待感がどこかにあった。

 だから杏奈は、大人たちに連れて行かれることをすぐに受け入れた。

 杏奈はそうして児童養護施設で暮らし始めた。杏奈が五歳の頃だった。

 杏奈は施設に馴染めなかった。他の子供たちと仲良くしたいと思うけれど、施設の子供たちは杏奈に心を開いてくれなかった。

 と言うより、施設の子供たちは誰にも心を開けなくなっていた。

 杏奈はとても寂しかった。でも、杏奈には彼らの気持ちがよく分かった。

 誰かに心を開いても、結局は傷つけられるだけだ。その思いが杏奈にもあった。

 だから、当時の杏奈はとても孤独だった。

 いつも一人で空想の世界に浸っていた。空想の世界だけが自由にいられる場所だった。

 まもなく杏奈は新しい両親に引き取られた。初めて新しい両親に出会った時、杏奈はとても緊張していた。同時にとても甘えたい気持ちになっていた。

 初めてわたしの話を聞いてくれるかもしれない人たちだった。

 だから杏奈はそれまでの孤独を取り返すように、新しい両親に思いっきり甘えた。

 彼らはそれを笑顔で受け入れてくれた。それが杏奈には嬉しかった。

 でも、杏奈には何かが足りなかった。

 新しい両親は、杏奈に生まれて初めて愛というものを実感させてくれた。それなのに杏奈の孤独は癒えることがなかった。

 どうしてなのか理由は分からなかった。新しい両親はこれ以上ないほどの愛を杏奈に注いでくれた。それはいくら感謝しても足りないものだった。

 なのにどうしてわたしはこんなにも満たされないのだろう。

 そんな言葉にできない心の渇きを潤してくれたのが、綾乃との出会いだった。

 杏奈は新しい両親に引き取られてすぐ東京から兵庫に引っ越した。新しい母親の仕事の都合だった。そして兵庫の幼稚園に入ることになった。

 新しく入った幼稚園で、杏奈は綾乃と出会った。

 綾乃は当時から人と関わるのが苦手だった。綾乃がいつも一人でいるのを杏奈は見ていた。そこに杏奈は何か通じ合うものを感じた。

 この子となら仲良くなれるかもしれない。杏奈はそう直感した。

 杏奈は思い切って綾乃に声をかけた。児童養護施設のことがあるので、話しかけるのに勇気が必要だった。

 でもその頃には、杏奈にも友達がいた。幼稚園の子たちは児童養護施設の子たちと違って、すぐに心を開いてくれた。だから杏奈は綾乃にも勇気を出すことができた。

 杏奈が最初に話しかけた時、綾乃はどこか怯えているようだった。話そうとしても、言葉がうまく出てこないようだった。

 それでも、杏奈は綾乃のそばにいた。綾乃が話してくれるのをゆっくりと待った。

 杏奈はそれまでに綾乃のことを見ていて、綾乃がとても優しい子であることを知っていた。だから綾乃とはどうしても仲良くなりたかった。

 初めて綾乃が杏奈に話をしてくれた時、杏奈はとても嬉しかった。

「わ、わたしは、杏奈ちゃんと仲良くなりたい」

 綾乃の声は震えていた。一所懸命に話そうとしてくれるのが伝わった。それだけで杏奈は涙が流れるほど嬉しかった。杏奈は綾乃を抱きしめた。

「知ってた? わたしはもう綾乃ちゃんのことが大好きなんだよ」

 綾乃は最初、杏奈の言葉に戸惑っているようだった。それでも、すぐに綾乃は杏奈のことを受け入れてくれた。

「あ、ありがとう。わたしなんかと友達になってくれて」

 綾乃は泣きながらそう言った。杏奈は、綾乃の涙で肩が濡れるのを感じた。

 杏奈は孤独だった。同時に綾乃も孤独を抱えていた。

 綾乃は杏奈に打ち明けた。誰かに自分の気持ちを受けとめて欲しかった。

 自分には家族がいないこと。今の両親は本当のお父さんとお母さんではないこと。

 本当のお母さんは事故で亡くなってしまったこと。本当の父親はどこにいるのか分からないこと。新しい両親はとても大切にしてくれること。

 でも、本当の家族がいなくて寂しいと思ってしまうこと。

 綾乃が一所懸命に話すのを、杏奈は精一杯に受け止めた。

 そして杏奈も、綾乃に自分のことを打ち明けた。

 自分にも家族がいないこと。母親には虐待されていたこと。母親から引き離されて児童養護施設にいたこと。父親はどこにいるか分からないこと。

 自分にも新しい両親ができたこと。新しい両親はとても可愛がってくれること。

 でも、心の中にはいつも孤独があったこと。綾乃といると、不思議とその気持ちがなくなること。このままずっと綾乃と一緒にいたいと思っていること。

 杏奈がそう話すと、綾乃は涙を流して杏奈のことを抱きしめてくれた。

 杏奈はこの時、綾乃と心が通じ合えた気がして嬉しかった。

 今になるまで、杏奈は当時の記憶をほとんど忘れかけていた。幼少期の記憶を思い出す必要がないほど毎日が充実していたからかもしれない。

 しかし、自分の生い立ちを由佳や恵に打ち明けようと決めて、当時のことを話しているうちに自然とその記憶は蘇ってきた。

 その記憶には痛みが伴った。母親からの虐待や、児童養護施設での孤独。

 それらは事実としての知識はあったけれど、その詳細な記憶については心の奥底に蓋をしてきた。そうしないと生きていけないほどつらい記憶だったから。

 その記憶を思い出した杏奈は、みんなの前でたくさんの涙を流した。そんな杏奈をみんなは静かに受け止めてくれた。みんながいてくれて良かったと杏奈は思った。

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