石黒杏奈の誕生日 ⑤
「綾乃、大丈夫?」と杏奈が声をかける。
「杏奈が手を握ってくれているから大丈夫だ」と綾乃が応える。
「無理はしないでね。つらくなったらすぐに言ってね」杏奈は心配そうに言う。
「うん、ありがとう」綾乃はそう言うが、額には冷や汗が浮かんでいる。
「お水はまだ余っているからね」
「じゃあ少しだけ頂こうかな」
そう言うと綾乃は、杏奈から受け取ったペットボトルの水を飲む。
「ありがとう。少しだけ落ち着いた」
「もう少しで着くからね、もうひと頑張りだよ」
そうしてロープウェーは星の駅に辿り着く。
ロープウェーを降りると、綾乃はその場で深呼吸をする。
「ふう、やっと降りられた。空気が新鮮で美味しい」
「山の上だからね」と杏奈は応える。「やっぱり人混みは苦手?」
「そうみたいだ」と綾乃は言う。「でも毎日満員電車に乗っているのに、どうして今日に限ってこんなにダメなんだろう?」
「慣れない環境だからじゃないかな?」と恵が言う。「だから余計に緊張して苦しくなるんじゃないかな」
「なるほど。それはあるかもしれない。そういえば杏奈と一緒に通学するのも、最初のうちは満員電車がしんどかったからというのが理由のひとつだ」
「今はもう大丈夫なの、満員電車?」と由佳が尋ねる。
「杏奈といればあんまりつらくないけど、一人ではまだ乗れないかもしれない」
「そうなんだ。それは大変だね」と由佳は悲しそうな表情をする。
「ありがとう。そう言ってくれると気が楽になる」
みんなは掬星台に移動する。ロープウェーの星の駅から徒歩一分のところにある。
展望台からは山と海に挟まれた神戸の美しい夜景が広がっている。
「すごい! 綺麗!」と杏奈が声を上げる。
「本当だね! すごく綺麗!」と由佳も言う。
「すごいなぁ。こんなに綺麗な景色が見れるなんて」と恵はつぶやく。
綾乃は黙ったまま夜景の感動に浸っている。
「ずっと見ていられるなぁ、この夜景」と杏奈が言う。
「そうだよねぇ、しばらくこの夜景を目に焼き付けたいな」と由佳が応える。
「みんなで写真を撮るか?」と恵が提案する。
「それはいいね! そうしよう!」と杏奈が応える。綾乃も静かに頷いている。
杏奈が右手でスマホをかざす。「はい、チーズ!」とみんなに声をかける。
みんなはお互いに密着して、神戸の夜景を背景に写真を撮る。
杏奈はスマホを持っていない方の左手をみんなの背後に伸ばしている。
由佳はウインクをしながら、顔の近くで両手をピースサインにしている。
恵は左手をジーンズのポケットに入れて、右手にグーサインを作っている。
綾乃はぎこちない笑顔を作って、恥ずかしそうに身を縮めている。
「オッケー!」と杏奈が言うと、みんなはそれぞれに体の緊張を解く。
「どんな写真になった?」と恵が尋ねる。
「見て! すごく綺麗に撮れたよ!」と杏奈が言う。
みんなは杏奈のスマホを覗き込む。
「おぉ!」とそれぞれに声を上げる。
「いいね! すごく素敵な写真!」と由佳が言う。
「本当だな。良い思い出になりそうだ」と恵が言う。
「良い。あとでその写真を送ってほしい。大切にする」と綾乃が言う。
「もちろん! これでまた大切な思い出が増えたね!」と杏奈が言う。
それから杏奈は夜景の写真を何枚か撮る。「やっぱり綺麗だなぁ」と杏奈が言う。
「夜景だけの写真もあとで送ってね」と由佳が言う。「もちろん!」と杏奈は応える。
そこで杏奈は振り返る。無言のまま、交互に由佳と恵の顔を見つめる。
「どうしたの?」と由佳が訊く。「顔に何かついているか?」と恵が言う。
「ねぇ、ちょっと移動してもいい? 実は、二人に話したいことがあるんだ」と杏奈が言う。
杏奈は夜景を背景にして、柵に寄りかかっている。
「話したいことがある」と綾乃も頷きながら言う。
「いいよ。どこに移動しようか?」と由佳が訊く。
「遠慮なく何でも話してくれ」と恵が言う。
「ありがとう。じゃあ、あそこに行こう」と杏奈は向こう側に指をさす。
四人は展望台の人混みから離れて、一本の大きな木の下に行く。
「ここだと誰かに話を聞かれることはないだろうね」と恵が言う。
「うん。杏奈が話しやすいように話してくれたらいいからね」と由佳が言う。
「ありがとう。実は、由佳や恵に言いたくてもなかなか言えないことがあったんだ。二人を傷つけることではないと思うんだけど、それでもなかなか言い出しづらくて。それでも、二人はわたしたちの親友だから、やっぱり知っておいてほしいなって思うんだ。家でさっき綾乃とも相談して、今日のうちに二人に話すことに決めたんだ」
杏奈は目を閉じて小さく深呼吸をする。そしておもむろに口を開く。
「実は、わたしたちは孤児なんだ」
そこで杏奈はひと息をつく。綾乃は同意するように大きく頷く。
由佳と恵は表情を変えず、黙って杏奈の話の続きを待つ。
「わたしたちは二人とも両親と暮らしているけど、血が繋がった本当のお父さんとお母さんではないんだ。わたしたちが小さな子どもだった時、それぞれの両親に引き取られているんだ。わたしは東京で生まれて、綾乃は名古屋で生まれたんだ。それからわたしたちは兵庫にやってきて、五歳の頃に幼稚園で出会ったんだ」
杏奈はそこでまたひと息をつく。緊張して少しだけ声が震えているのが分かる。
「当時の記憶はぼんやりしているけれど、幼少期のわたしは生物学上の母親に虐待されていたんだ。それで児童相談所に保護されて、今のお父さんとお母さんに引き取られたんだ。綾乃は幼少期に本当のお母さんを交通事故で失くしているんだ。それで綾乃はお母さんのお兄さんとその奥さんに引き取られたんだ。それが綾乃の今のお父さんとお母さん。ちなみにわたしたちの生物学上の父親については何も分からないままだ」
そこで杏奈の頬に涙が流れる。みんなの間にしばらく無言の時間が流れる。
やがて恵が口を開く。恵はまっすぐに杏奈を見つめている。
「大切なことを話してくれてありがとう。わたしたちを親友だと思ってくれて、その上でこんなにも大切なことを打ち明けてくれたことが、わたしは嬉しい」
「わたしも嬉しい。二人が話しづらかったことを、こうして話してくれるくらいの仲になれたことがわたしは嬉しい。二人の生い立ちを含めて、わたしは杏奈と綾乃のことが大好きだよ」
由佳もそう言う。
「ありがとう。そう言ってくれてホッとした。こんな話をしたら二人に気を遣わせるかもしれないと思って、言い出しづらかったんだ。でも、わたしたちの大切な生い立ちのことを、二人にはどうしても知っておいてほしかったんだ」と杏奈は言う。
「わたしも生い立ちのことを、二人にはどうしても知っておいてほしかった。由佳と恵は親友だからこそ、二人には隠し事をしたくはなかった。ありのままのわたしたちを受け入れてほしかったんだと思う」と綾乃も言う。
「二人の生い立ちがどうであろうと、それでわたしたちの関係が変わる訳じゃないよ。わたしたちは杏奈と綾乃が大好きだし、これからもわたしたちは一緒にいるよ」
恵がそう言うと、由佳も付け加えるように口を開く。
「むしろ今までより杏奈と綾乃のことが愛おしく思えるようになった。わたしも二人とずっと一緒にいたい。二人とずっと笑い合っていたい。これからもよろしくね!」
みんなは頬を寄せてくっつき合う。そして楽しそうに笑い声を上げる。
「いつまでもみんなで一緒にいようね!」と杏奈が言う。
「絶対にそうしよう」と綾乃が応える。笑顔の時間はいつまでも続いていく。




