石黒杏奈の誕生日 ④
「掬星台から見る夜景ってどんな景色なんだろうね?」と杏奈が言う。
「きっと綺麗なんだろうなぁ」と由佳が応える。
「楽しみだな」と恵が言う。
四人はバスに乗っている。
「ねぇ、一つ疑問なんだけどさ」と杏奈が切り出す。「どうして夜景が綺麗だって人間は感じるんだろうね?」
「どう言う意味だ?」と恵が返す。
「だって、夜景って人工物じゃん? もともと自然の中にあったものではないのに、どうしてわたしたちは夜景を綺麗だって感じることができるんだろうと思って」
「確かに。夜景は綺麗だって本能で感じるけど、どうしてそれができるんだろう」
「それって夜景だけじゃないよね。イルミネーションとか街の明かりもわたしたちは綺麗だと感じる。確かに、どうしてただの人工物を綺麗だと感じられるんだろう?」と由佳が言う。
「そ、それは似ているからじゃないのか? 自然の何かに」と綾乃が言う。
「どう言うこと?」と杏奈が尋ねる。
「例えば、夜景は星空と似ている。わたしたち人間は星空を綺麗だと感じる。だから、星空と似ている夜景も綺麗だと感じるんじゃないか?」
「それは確かに一理あるね。星空という自然と似ているから、夜景という人工物もわたしたちは綺麗だと感じる。でも、人間は高いビルとか大きな橋みたいな人間が設計した造形物にも美を感じるよね? テレビやスマホにシンプルな造形美を感じることもある。新幹線の流線形に美を感じることもある。もちろん絵画とか音楽といった芸術作品に美を感じることもあるし、場合によっては愛とか友情といった人間関係に美を感じることもある。そうすると、わたしは分からなくなってくるんだよね。果たして、美の正体って何なのだろう?」
「スマホで調べてみたぞ。対象物や現象が持つ調和、バランス、秩序などが感じられる状態を指し、人間の心を感動させ、快楽をもたらすもの、らしい」
「ありがとう、綾乃。なんか分かったような、よく分からないような感じだね」
「ネットにはこんなことも書いてあった。カントによると、美は対象に依存するのではなく、主観的な、すなわち判断する人の認識能力の働きの中に根拠がある。美とは何かの目的に合致するものではなく、それ自体で価値のあるもの、すなわち目的なき合目的性である」
「恵もありがとう。つまり自然の中に美というものが元々ある訳ではなくて、人間の認識の中に美が生まれるっていうことだよね。うーん、難しいな」
「美というものに理由がある訳ではなくて、美そのものに価値があるっていうことでしょう? だからこんなことを言うと元も子もないけど、美の正体は考えるものではなくて、美そのものを感じることが大切っていうことじゃない?」
「なるほど、由佳。そういうことね。どうもわたしには何でもかんでも理由を求めてしまう癖があって。美の理由を考えるのではなく、美そのものの価値を感じる。それが大切ということだよね。あまり難しいことは考えずに夜景を楽しむことにするよ」
「そ、それがいい。美それ自体の価値を感じる。そのことに意味がある。何だか勉強になった気がする。やっぱり難しいけど」と綾乃が言う。
「次が目的地じゃないか? 摩耶ケーブル下。そろそろ降りるぞ」
恵がそう言うと、すぐにバスが停まる。そしてみんなはバスを降りる。そのすぐ近くに摩耶ケーブルの駅がある。入り口の階段を登りながら、杏奈が言う。
「いよいよケーブルカーだ! ワクワクするね!」
「たしかに。ケーブルカーなんてめったに乗らないもんな」と恵が応える。
「ケーブルカーからも夜景が見えるのかなぁ」と由佳が言う。
「た、楽しみだ」と綾乃がつぶやく。待合のフロアに着いたところで杏奈が言う。
「すごい! 人がたくさんいるね。さすがにゴールデンウィークだ」
「め、めまいがしそうだ」綾乃が目を押さえて言う。表情は険しくなっている。
「大丈夫?」杏奈が心配そうに尋ねる。「ちょっと休もうか?」と由佳も言う。
「だ、大丈夫だ。みんながいるから何とかなると思う」
「あまり無理しなくてもいいからな」と恵が背中をさすりながら声をかける。
「ありがとう。みんなのおかげで治まってきた。もう大丈夫だ」
「本当に? つらくなったらすぐに声をかけるんだよ。じゃあチケットを買ってくるね」
杏奈が一人でチケットの列に並び、他のみんなはベンチの近くで待機している。
たまたま一人分のスペースが空いていたので、綾乃はベンチに座っている。
「何かドリンクでも買ってこようか? そこに自動販売機があるし」と恵が言う。
「ありがとう。わたしは大丈夫。お水を持ってきている」と綾乃が応える。
「気分は大丈夫? いつもより顔色が悪い気がするけど」と由佳が尋ねる。
「心配してくれてありがとう。休んでいるからおそらく大丈夫だと思う。すまない。せっかく夜景を楽しもうというのに盛り下げるようなことになって」
綾乃は背を丸めて言う。それに対して恵は笑顔を見せて言う。
「何を言っているんだ。綾乃がいてこそのわたしたちじゃないか」
「そうだよ。綾乃がいるからわたしたちはこうして集まれたんだよ」と由佳も言う。
「綾乃がいないと楽しくないもん」チケットを買ってきた杏奈が声をかける。
「そうだ。みんながいてこそ楽しいんだ」と恵も言う。
「だから綾乃が負い目を感じる必要はないんだよ」と由佳が付け加える。
「ありがとう。本当にありがとう。こんなわたしを受け入れてくれて」
「こんなわたしなんかじゃないよ。綾乃はとっても素敵だよ」
杏奈が綾乃の肩に手を置く。顔を上げた綾乃は目が潤んでいる。
綾乃は背中のリュックサックから水のペットボトルを取り出すと一気に飲む。
「よし。もう大丈夫だ。そろそろケーブルカーに乗ろう」綾乃が立ち上がる。
「十八時四十分発だからもうすぐだな。もう他のお客さんは乗っている」
恵がそう言うと、杏奈がみんなに提案する。
「ケーブルカーの前で一枚だけ写真を撮ろう。写真を撮るための場所があるし」
杏奈が指を指したケーブルカーの前には、赤じゅうたんが敷かれたスペースがある。
「急いで撮ろう。時間がないからな」恵がそう言うとみんなは走って移動する。
「はい、チーズ!」杏奈がスマホをかざして写真を撮る。みんなは密着している。
「おっ! いい写真が撮れた! じゃあケーブルカーに乗ろう」と杏奈が言う。
「オッケー。写真はあとで見せてくれ」
恵がそう言うとみんなは走って階段を登り、ケーブルカーに乗り込む。
「それでは出発します。扉に気をつけてください」
駅員がそう言うと、四人を待っていたかのようにケーブルカーの扉が閉まる。
そしてケーブルカーはゆっくりと動き出す。
初めは周囲を山の木々に囲まれているが、やがて神戸の夜景が見えてくる。
「すごい! 夜景が綺麗だ!」杏奈が声を上げる。
「ほんとだ! すごい!」と由佳も声を上げる。
「綺麗だ……」恵はポツリと声を漏らす。綾乃は黙ったまま夜景に見入っている。
「杏奈は写真を撮らなくていいのか? 他のお客さんは撮っているぞ」と恵が訊く。
「展望台からの夜景の方が綺麗だろうからそこで撮る」と杏奈は応える。「ところで綾乃の気分は大丈夫?」
「ありがとう、杏奈。今は大丈夫だ。夜景を見たら少しだけ気持ちが晴れてきた」
「それはよかった。わたしの分のお水が余っているから、欲しくなったらいつでも言ってね」
「心配してくれてありがとう。あとで頂くよ。それにしても風が気持ちいいな」
「本当に。何だかそれだけで気持ちが洗われていく気がするよ」
やがてケーブルカーは虹の駅に着く。そこからロープウェーに乗り換える。
ロープウェーは人混みが多く、杏奈はしっかりと綾乃の手を握っている。
ロープウェーからも夜景が見える。みんなは「おぉ!」と感嘆の声を漏らす。




