山本源三郎は人生を語る ④
子供が生まれた時、私は大きな感動を覚えました。命の尊さを実感することになりました。
私は雪絵が出産する時、病室の隅で控えていました。雪絵が陣痛に苦しんでいるのを目の前にしながら、何もできない自分がもどかしかったことを覚えています。
医師や看護師が必死に処置をしているのをただ眺めていました。
雪絵は大声で泣く、元気な女の子を産みました。私は生命の誕生に感動して、思わず泣いてしまいました。雪絵は安心した穏やかな笑顔を見せていました。
私たちは女の子に菖蒲という名前をつけました。
というのも、菖蒲は雪絵と同じ五月五日生まれだったのです。菖蒲は邪気を払うと言われ、端午の節句に飾られる花です。
菖蒲は正義感の強い活発な子に育ちました。よく近所の男の子と喧嘩をしては打ち負かしてくるような子でした。まるで小さい頃の雪絵を見ているようでした。
そして菖蒲は写真を撮るのが好きでした。
菖蒲が興味津々だったので、私の古いカメラを譲ったのですが、それ以来、菖蒲はカメラを手放さなくなりました。
菖蒲は休みの日になると、いつもきれいな写真を撮ってきました。
子供の頃から菖蒲は写真を撮るのが上手だったので、私たちはいつも菖蒲が撮ってくる写真を楽しみにしていました。
菖蒲は中学生になると写真部に入りました。
菖蒲の写真の腕は確かだったようで、何度も賞を取りました。それを菖蒲は嬉しそうに報告してくれるのでした。
そして菖蒲は、いつしかカメラマンを志すようになっていました。
菖蒲は高校を卒業するとすぐにカメラマンの道に進みたかったようです。
しかし私には、進学したくてもできなかったという苦い過去がありました。なので菖蒲には大学に進学してほしいと思っていました。
私はその思いを菖蒲に伝えました。カメラマンになるのは、大学を卒業してからでも遅くはない。むしろ、大学での勉強がカメラマンとしての糧になるはずだと。
今にして思えば、それが正しかったのかどうか私には分かりません。
大学に進学した菖蒲は、いつの間にか戦場カメラマンを志していました。
大学で学びいくつかのボランティアを経験したことで、菖蒲の夢は自然を撮ることから戦場を撮ることに変わっていたのです。
私は戦争を直に経験しているので、その恐ろしさは身にしみて理解しています。
だから、菖蒲が戦場カメラマンを志したことには不安がありました。娘の身に大変なことが起こるのではないかと心配したのです。
しかし、菖蒲にはすでに立派な志がありました。
戦争の惨禍を伝えること。そして世界から少しでも戦争をなくすこと。
私には菖蒲を止めることはできませんでした。菖蒲の目には既に強い意志が宿っていたからです。この子はもう大人なのだと私は悟りました。
私たちは彼女を送り出すことにしました。
菖蒲は大学を卒業するとNPOに所属して、海外の紛争地帯を渡り歩くようになりました。菖蒲は一年のほとんどを海外で過ごしていました。
菖蒲が日本に帰ってくるのは、一年の中でほんのわずかな日数でした。
私たちは菖蒲が帰ってくると安心して嬉しくなり、いつも盛大にもてなしていました。菖蒲はそれをなんだか恥ずかしそうにしていたことを覚えています。
しばらくの間、菖蒲は何事もないかのように過ごしていました。
海外で危険な仕事をしているとは思わせないほど、菖蒲はいつも元気に帰ってきました。
私たちはいつしか、戦場カメラマンが危険な仕事だということを忘れていました。
しかし、やがて運命の日はやってきました。
私たちは残酷な現実に直面することになりました。
菖蒲のキャリアは十年を迎え、彼女は三十三歳になっていました。
菖蒲は中東のある国で取材をしていました。その国では、反政府ゲリラによる内紛が続いていました。菖蒲はあるボランティアグループに同行していました。
ある日、菖蒲が同行するグループは、政府軍のスパイとされて襲撃を受けました。
ボランティアスタッフは、その多くが殺されました。拳銃で撃たれ、火炎放射器で焼かれ、あるいは殴る蹴るの暴力を受けました。
そして菖蒲は反政府ゲリラに人質として拉致されました。反政府ゲリラは日本政府に身代金を要求しました。彼女を解放して欲しければ百万ドルを用意しろと。
日本政府はその要求を拒否しました。テロには屈しない。身代金を払えば、反政府ゲリラの資金源となり、紛争が長引いてしまう。それが日本政府の理屈でした。
日本政府は身代金なしで菖蒲を解放するよう、反政府ゲリラと交渉を重ねました。しかし、交渉は失敗に終わりました。
ある日、世界中に菖蒲の動画が拡散されました。
菖蒲は反政府ゲリラに陵辱された挙句、拳銃で殺されました。
その衝撃は世界中に広がりました。
その頃、日本国内では自己責任論が叫ばれていました。菖蒲は危険を承知していながら自分の意思で現地に赴いたのだから、政府が助ける理由はない。
しかしその動画が拡散されると、自己責任論なんて最初からなかったかのように誰もが沈黙しました。日本国民たちはその悲惨な事件を忘れようとしたのです。
私たちは絶望の底に叩き落とされました。私たちは両親という大切な家族を戦争で亡くしていました。そして戦争は私たちの大切な娘である菖蒲も奪ったのです。
戦争は私たちの人生を歪めました。それは紛れもない事実です。
私たちは戦争を憎みました。しかし憎んだところで菖蒲は帰ってきません。私たちは絶望に打ちひしがれながら日々を送らざるを得ませんでした。
そんな私たちの心を癒してくれたのは、私たちの孫でした。
私たち夫婦には菖蒲のほかに息子が一人いました。桔平という名前で菖蒲の三歳下でした。桔平は心の優しい男に育ってくれました。
私たちが絶望に打ちひしがれているのを見た桔平は、私たちを心配してくれたのか、一緒に暮らし始めました。それは私たちにとって、とてもありがたいことでした。
桔平には一人娘がいました。芽依という名前でした。
芽依が生まれたのは菖蒲が亡くなる前年でした。一歳の芽依を連れて、桔平は私たちの家にやってきてくれたのです。桔平の奥さんは涼華と言いました。
私たちは涼華さんの子育てを手伝いながら、芽依の面倒を見ることで少しずつ心が癒されていきました。
私たちはよく芽依の遊び相手になりました。芽依はいつも元気に遊んでいました。私たちにとって、いつしか芽依と過ごすことが生きがいになっていました。
涼華さんも気さくで笑顔が素敵な方だったので、私たちは涼華さんのこともいつしか第二の娘として大切にするようになっていました。
そしてもうひとつ私たちの心を癒してくれたのが、犬のタロウでした。
芽依が小学生になった時に、雪絵がたまたま訪れたペットショップで一目惚れしたのです。私たちに懐いてくれるタロウとの時間はかけがえのないものになりました。
やがて芽依は十歳になりました。その頃から雪絵は体調を崩し始めました。
心配した私や涼華さんは雪絵を病院に連れていきました。雪絵には膵癌が見つかりました。すでに肺にも転移していました。余命は半年といわれました。
雪絵は緩和ケア病棟のある療養病院に入院しました。
私たちは芽依を連れて、毎日のように病院に通いました。
癌はすでに雪絵の身体を広く蝕んでいましたが、芽依の笑顔がそれを癒してくれていたようでした。雪絵はそれから一年以上も生きることができました。
今、私は桔平たちと一緒に暮らしていません。桔平がアメリカに転勤になったからです。
桔平たちは私もアメリカについてくるように言いました。しかし私は、雪絵と暮らしたこの家を出ていく気にはなれませんでした。
桔平たちはアメリカに三年ほど勤めて、また日本に帰ってくると聞いています。
だから私は、桔平たちが帰ってくるのをここで待っているつもりです。




