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山本源三郎は人生を語る ②

 東京大空襲の後、私は福島の親戚に引き取られました。

 福島での生活は過酷なものでした。

 私は十分な食事を与えられず、働かされてばかりいました。親戚の子供はたくさんの食事をとり、学校に通っていましたが、私には望めないものでした。

 私はいつも伯母(つまり父の姉)に罵倒されていました。

「お前はノロマだ。役に立たない」と言われました。

 今になって考えると、五歳の子供に何ができるのかという話ですが、当時はひたすら申し訳なかったことを覚えています。

 伯母は私にこんなことも言いました。

「家族と一緒に死ねばよかったのに。そうすればあんたの面倒を見る必要はなかった」

 私は誰も味方のいない福島で、肩身の狭い思いをして暮らしていました。

 暴力を受けることは日常茶飯事でした。裸で折檻を受けるので、体中がアザだらけになっていました。私の体は常にどこかしらがヒリヒリと痛んでいました。

 今にして思えば、当時の私は虐待を受けていたのです。

 身体的虐待、精神的虐待、ネグレクト、性的虐待。その全てを受けていました。

 暴力を受け、罵倒され、食事は十分に与えられませんでした。

 性的虐待というのは、親戚一同の前で裸にされ、小さな性器を弄ばれることがありました。私は恥ずかしさを必死に噛み締めながらそれに耐えていました。

 私は福島で終戦を迎えました。玉音放送を聞いていたのですが、ラジオの音質が悪く、何を言っているのかさっぱり聞き取れませんでした。

 戦後も食糧難は続きました。私は栄養失調でガリガリに痩せ細っていました。皮膚はノミやシラミに食い荒らされ、ボロボロになっていました。

 体は餓鬼のように痩せて、手足が細く、下腹部だけが突き出ていました。回虫に寄生され、口や尻や鼻や至るところから大小の回虫が出てきました。

 やがて私は捨てられました。ある日、私は東京への連絡船に乗せられました。同行するはずだった伯母は「弁当を買いに行く」と言ったきり、帰ってきませんでした。

「お前は捨てられたんだよ」と船内の誰かに言われました。

 私は心細さと同時に解放感を抱いていました。これで地獄のようなあの家から逃げ出すことができる。私はそう思いました。

 私は無賃乗車で上野駅に辿り着きました。その地下道で私は寝泊まりをしました。他の孤児に混じり、ヤミ市で盗みをして食いつなぎました。

 逃げ足の遅かった私はやがて売人に捕まり、そこで暴力を受けました。傷だらけになった私は警察に引き渡され、そして孤児院に入ることになりました。

 孤児院にはたくさんの子供が収容されていました。食料は少なく、いじめや栄養失調が蔓延していました。体の弱かった私はすぐにいじめの標的になりました。

 他の子供たちから日常的に暴力を受け、私はいつしか死を覚悟していました。

 私はこの場所ですぐに死んでいくのだろう。本気でそう思っていました。実際、孤児院ではたくさんの子供たちが栄養失調や暴力で死んで行きました。

 しかし、私は幸運にも死ぬことなく、こうして今も生きています。

 それは、私を助けてくれる人が現れたからです。

 孤児院は私が入ってまもなく運営主体が変わりました。あるおばあさんが施設長になったのです。それから孤児院の環境は変わっていきました。

 そのおばあさんは裕福だったので、孤児院の食糧難は改善されていきました。

 そしていじめに対して厳しい罰則が設けられたことで、暴力は減っていきました。それでも陰でいじめは続きました。そのいじめから庇ってくれる人がいました。

 それが、施設長の孫である吉岡雪絵という女の子でした。

 彼女は私と同い年の五月五日生まれです。そう、杏奈さんと同じ誕生日である彼女がやがて私の妻となるのです。

 ですが、当時は夢にも思いませんでした。彼女とは生まれや育ちが違いすぎる。

 私は、雪絵がいじめから庇ってくれることには感謝していましたが、彼女に対して心を開くことはできませんでした。

 雪絵には両親がいませんでした。雪絵の父はおばあさんの跡を継ぎ、ある軍需会社の社長をしていました。

 しかし私と同じく東京大空襲に巻き込まれ、雪絵の両親は亡くなりました。田舎に隠居していたおばあさんの元に疎開していた雪絵は、空襲には巻き込まれずにすみました。

 その後、雪絵のおばあさんは東京に戻り、再び社長になりました。終戦を迎えるとその軍需会社をある総合商社に巨額で売り払いました。

 もともと裕福だった雪絵のおばあさんはそこで巨万の富を得ました。おばあさんは再び隠居するつもりだったのですが、ある時に孤児院の惨状を知ったそうです。

 そこで、おばあさんはいくつかの孤児院を買い取り、改革に乗り出しました。巨額の費用を投じて、孤児院の劣悪な環境を改善することにしたのです。

 そのうちの一つが私の暮らしていた孤児院でした。そうして私は、雪絵と出会うことになりました。

 雪絵は誰かがいじめられているのを見つけると、身を挺して庇いました。時には彼女自身が傷つくこともありましたが、雪絵は気にするそぶりを見せませんでした。

 栄養失調で体が小さかった私は、子供たちの中でよくいじめの標的になりました。それで、雪絵は私のことをよく助けてくれたのでした。

 私は雪絵の正義感を目の当たりにしていました。そしていつしか、彼女の芯の強さに憧れを抱くようになっていました。私は雪絵のことが好きになっていたのです。

 しかし、その想いは雪絵にはひた隠しにしていました。

 雪絵と私では身分が違いすぎる。私はみすぼらしい孤児で、彼女は裕福なお嬢様。彼女とはどうあっても一緒にはなれない。そもそも一緒になってはいけない。

 その自分に対する負い目が、雪絵に対して心を開けない原因となっていました。

 それでも雪絵は、私に向き合ってくれました。そっけない私の態度を気にせず、雪絵は私に声をかけ続けてくれました。

 今になって振り返ると、私はそんな雪絵の存在にとても救われていました。

 雪絵の明るさが、天涯孤独になった私の心を温めてくれていたのです。

 私は、雪絵と離れた後でそのことに気がつきました。

 中学校を卒業すると、私は製造業の会社に就職しました。その工場でガラス職人の見習いとして勤務することになりました。

 社会人になる私は孤児院を出ていくことになりました。

 勉強が好きだった私は進学したかったのですが、金銭的な余裕のない私はその気持ちをひた隠しにして就職することにしたのです。

 十五歳の私は雪絵と離れて暮らすことになりました。

 私はやがて孤独に追い詰められていきました。

 もともと他人に心を開くことが苦手な私は、孤児院に友達がいませんでしたが、工場に就職した後も一人として友達を作ることができませんでした。

 むしろ、口下手な私は工場内でもいじめられるようになりました。無視をされたり、仕事の邪魔をされたり、誰かのミスの濡れ衣を着せられたりしました。

 私にとっては読書だけが友達でした。

 そんな私は、やがて自分の人生に絶望するようになりました。

 天涯孤独で友達も恋人も家族もいない私に生きている意味などあるのだろうか。私が死んだところで悲しむ人など誰もいないのではないか。

 そう考えていた私は、やがて二十歳の誕生日になったら死ぬことを決意しました。

 私はいつか自分で命を断つ日を夢みて、それだけを希望に生きていました。

 そうして二十歳を迎えたその日、私は雪絵と再会することになるのです。

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