山本源三郎は人生を語る ①
私は四人兄弟の三番目として生まれました。十歳年上の兄と七歳年上の姉、そして生まれたばかりの赤ん坊である妹がいました。
昭和二十年、終戦の年のことです。私は当時五歳でした。
兄は学徒動員で近くの軍需工場で働いていました。
姉は学童疎開の学年でしたが、卒業を控えて田舎から帰ってきたばかりでした。
父は郵便局員でした。兵役に就いていたこともありましたが、体調を崩して、内地に戻ってきていました。母は育児に追われる専業主婦でした。
三月九日の夜は灯火管制の元、家族団欒で過ごしていました。
その日の夕食は珍しく煮豆が出ました。その甘さに私は舌鼓を打っていました。頬が落ちるほど甘くておいしかったことを覚えています。
私は食事の後、いつものように家族よりも先に布団に入りました。心地のいい眠りでした。その日までは戦争中でありながら平穏な日常を送っていたのです。
しかし三月十日の深夜零時すぎ、私は父に大きな声で叩き起こされました。
「起きろ! 逃げるぞ!」父親はそう言いました。
目を覚ました時、巨大な地響きのような音が響いていました。それはアメリカ軍による空襲の音だったのですが、その時の私には知る由もありませんでした。
私はぼんやりとした頭のまま、赤ん坊の妹を背負った母に手を引かれて、外に出ました。
そこで私は驚きました。深夜なのに町がとても明るいのです。
私はその理由にすぐに気がつきました。町の四方を炎が取り囲んでいたのでした。
そして上空をたくさんのB29が飛行していました。
それまでにもB29は何度も東京に来ていたのですが、その日は遥かに低い高度を飛行していました。まるでB29が目の前にあるかと錯覚するほどでした。
B29は無数の焼夷弾の雨を落としていきました。あたり一帯が既にガソリンの匂いで充満していました。そこでようやく町に空襲警報が鳴り始めました。
私たちは逃げ始めました。しかし、すぐに足止めを食らうことになりました。どちらに逃げようとしても、あらゆる方向の道に火柱が立ち昇っていました。
私たちは立ち往生しました。その間にもB29からの焼夷弾は降り注いできます。
そこで私は、衝撃的な光景を目にしました。
焼夷弾のうちの一発が、父の首を貫通したのです。
父の頭は吹き飛ばされ、父の体はその場に倒れ込みました。母は悲鳴を上げながら父の元に駆け寄りました。兄と姉も同じように父の元に駆け寄りました。
妹を背負っていた母は、父の元に駆け寄る時に私の手を離しました。それで私は、家族の姿を少し離れたところから見ていました。
すると突然、目の前に巨大な火柱が立ちました。私はその火柱で家族と分断される形になりました。私は炎の熱さを顔面に感じながら、呆然と立ち尽くしていました。
そこで私は目にしました。
赤ん坊の妹がかぶっていた赤い毛糸の帽子が、火柱の中に揺らめいているのを。
火柱の中をよく見ると、そこにはたくさんの人々と荷物の塊がありました。
そして私は、赤ん坊を背負った母の面影を目にしました。その近くには兄と姉の面影もありました。その面影は救いを求めるように、こちらへ手を伸ばしていました。
今になって考えると気のせいだったのかもしれませんが、私は炎の中に家族が苦しんでいる面影を見たのです。
それが私の目にした家族の最期の姿でした。
その光景を、今でも私はよく夢に見ます。夢の中で母が、そして兄や姉が私に助けを求めてくるのです。私はその手を取れないことに強烈なもどかしさを感じています。
その夜の出来事が、私の人生で最初の記憶となっています。
私はその記憶と共に、今までの人生を生きてきました。それは、私が死ぬまで続くものだと思っています。
目の前で家族を失ったあと、私は一人で逃げなければなりませんでした。その時の私には、家族との別れを悲しんでいる余裕はありませんでした。
とにかく死にたくない。その思いだけが私を突き動かしていました。
私は一人で逃げました。小さな体で火柱の横をすり抜けると、私は風上に向かって一目散に走りました。
その夜は北西から強風が吹いており、その風が炎の勢いを増していました。風下に向かって炎が広がるのを目にした私は、風上に向かって逃げることにしたのです。
気がつくと私は隅田川にかかる大きな橋に辿り着いていました。
橋は双方の入り口から人の波が押し寄せ、たくさんの人々と荷物で身動きが取れなくなっていました。多くの人たちが川に逃げれば安全と考えたようです。
私は人混みに流されるように、橋の中央に進んで行きました。
このままでは橋の上で立ち往生してしまうと悟った私は、人混みの中をかき分けて橋の欄干にたどり着き、決死の覚悟で川に飛び込みました。
後から知ったことですが、橋の上で立ち往生していた人々はB29の標的となり、たくさんの人が亡くなったそうです。
私は川に飛び込むとすぐにイカダにしがみつきました。当時の隅田川にはたくさんのイカダが設置されていました。
私はイカダにしがみつきながら周囲を見渡しました。すると、既にたくさんの死体が川面に浮いているのが分かりました。
そしてたくさんの人々が荷物を抱えたまま力尽き、川底に沈んで行きました。荷物をなぜか最期まで手放さずに死んでいく人が多かったのです。
私はイカダの上によじ登りました。イカダの上にもたくさんの人がいました。私はたくさんのイカダを伝って、川の東岸に辿り着きました。
今にして思えば、それも私にとって幸運の一つでした。
もし私が川の西岸に逃げていたら、私は炎に呑まれていたと思うのです。焼夷弾の炎は最終的に、隅田川の西岸を焼き尽くしたのですから。
河岸に辿り着いた私は、そこで衝撃的な光景を目にしました。
B29が川面の人々を狙い撃ちして、機銃掃射を始めたのです。B29から放たれた弾丸の雨は、イカダの上で身を寄せていた人々を薙ぎ倒していきました。
撃たれた人は川の中に沈んで行きました。その光景を私は唖然としながら眺めていました。
私はあまりの衝撃で何も考えられなくなっていました。
その時、私はB29の操縦手の表情をはっきりと見ました。彼は自分の撃った弾丸が人々に当たると、喜びで興奮するかのように表情をニヤニヤとさせていました。
私は強烈な身震いをしたことを覚えています。戦争とはかくも残酷なものなのか。私の幼い心にその光景は恐怖を焼き付けていきました。
機銃掃射が終わった後も、人々は倒れていきました。北西からの強風に煽られて炎が川面を走り、イカダの上の人々を呑み込んでいくのです。
私はあまりの熱さに息が詰まりそうになったのを覚えています。
その後、一人の女の子が川を泳いできました。
私はそこでかすかな希望を抱きました。よかった、まだ生きている人がいる。私はその女の子を引き上げようとしました。
でも、私はそこで絶望に打ちひしがれました。泳いできたと思っていた女の子は、よく見ると川を流されてきた小さな死体だったのです。
私はその場で力なく座り込んでしまいました。そしてしばらく膝を抱えて、目の前の現実を否定するかのように顔を伏せていました。
空襲は二時間半で終わりを迎えました。
そのわずかな時間に約十万人が亡くなったと聞いています。
私はいつの間にか眠っており、気がつくと朝になっていました。
私は町をさまよい歩きました。東京は一面が焼け野原となっていました。そして道には黒い炭となった死体の山が無数に積み上がっていました。




