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石黒杏奈と白木綾乃は知りたがり ①

 白木綾乃は本を読んでいて「ぐふっ」と声を漏らしてしまった。

 読んでいた小説が男女の濡れ場に突入したからだった。

 綾乃は慌てて教室を見回す。あたりに誰もいないことに安心する。

 指で丸メガネの位置を整えると、毛量が多くて目を覆ってしまう髪をかき分けて、もう一度本に視線を下ろす。

 綾乃は今まで恋愛をしたことがない。彼氏ができたことも告白されたこともない。

 だからこそ、綾乃は恋に興味津々だった。少しでも恋を知りたくて、綾乃は恋愛小説を手に取った。でも、綾乃には分からないことばかりで共感するのが難しかった。

 綾乃は教室の時計を見る。読書に熱中していて気がつくと夕方五時になっていた。全校生徒が下校しなければならない時間だ。

 綾乃は荷物の準備をして校舎を出る。そして、いろんな部室があるプレハブ小屋の前をうろうろする。綾乃はある人が部室から出てくるのを待っていた。

 綾乃は誰かと視線が合うことが怖くて、ずっと地面を見下ろしている。

 そんな綾乃の肩を叩いて、誰かが後ろから声をかける。

「お待たせ、綾乃! 一緒に帰ろう」

 綾乃が驚いて振り向くと、そこには石黒杏奈がいた。

 健康的に日焼けしたショートヘアの杏奈が笑顔でこちらを見ている。

 綾乃はつい自分の白い肌と見比べてしまう。杏奈と比べると、いかにも引きこもりの人間という感じがする。

「ま、待っていないよ。わたしもいま来たところ」

 綾乃は口元に笑みを浮かべてそう言う。杏奈を見るとなぜか頬が緩んでしまう。

 バスケ部の杏奈は大きなスポーツバッグを背負っている。

 杏奈が颯爽と体育館のコートで動き回っているところを綾乃は思い出す。

 その姿を隅っこから見ていて、いつもかっこいいと思うが、運動が苦手な綾乃はどうしても真似することができない。かっこいい杏奈のことが何だかうらやましくも思える。

 二人は並んで歩き出す。毎日一緒に帰ることが二人の習慣になっている。

 夙川沿いの並木道を歩いているところで綾乃が立ち止まり、地面を指さす。

「み、見てくれ。黒い蝶が倒れている」

「ほんとだねぇ。死んじゃったのかな?」

「き、気をつけて。実は生きていて急に動き出すパターンもある」

「あはは! そうだね。びっくりしちゃうよね」

 杏奈はそう言いながらも倒れている蝶に触ろうとする。

「や、やばい!」そう言って、綾乃は目を背けて身構える。

「大丈夫だよ、綾乃。もう死んじゃっているから、急に動き出すことはないよ」

「そ、そうなのか。なら安心だ」

 二人は黒い蝶を前にしゃがみ込む。動かなくなった蝶をじっと見つめている。

「どうして生き物は死んじゃうんだろうね」

 杏奈は寂しそうに声を漏らす。綾乃は杏奈の顔を見上げて言う。

「し、死ねない方がつらいんじゃないかな」

「そういうものなのかな。わたしは長生きしてみんなとずっと一緒にいたいけどね」

「そ、そうなのか……」と綾乃はつぶやく。

 人によって考え方は違うものなんだな。わたしは長生きなんかしたくないけれど。

 綾乃はひそかにそう思う。生きているだけで大変なことばかりなのに。

 そこで杏奈がとっぴもない提案をする。

「ねぇ、一緒に死んだ蝶の真似をしよう。そうすれば、どうして生き物は死ぬのか、その答えに近づけるんじゃないかな?」

「な、何を言っているんだ、杏奈。こんなに人がいっぱい歩いているところでか?」

「いいじゃん。どうせ誰も見ないよ」

 そう言って杏奈はスポーツバッグを肩から下ろし、手足を曲げて地面にあお向けになる。

 しょうがないから綾乃もその真似をする。並んで地面にあお向けになる。

 二人ともスカートの下にジャージを履いているから、パンツが見えることはない。

「ど、どうだ? 死んだ蝶の気持ちになれたか?」

 綾乃は横を向いて杏奈に話しかける。

 通行人がこちらを見ていることは気にしないようにする。

 杏奈は「うーん」と考えてから言う。

「よくわかんないなぁ。でも、何だかむなしい気持ちになってくるね」

 それは今の謎な状況のせいではないのか? 心の中で綾乃はツッコむ。

 曲げていた手足を地面に下ろして、杏奈は空を見上げながら言う。

「わたしが死んだらどうなるんだろう? ちょっとでも何かを残せるのかな」

「し、死んだら全てがおしまいだ。でも、それが良いんじゃないかとわたしは思う」

「そうなんだ。綾乃にはわたしの知らない物事がきっと見えているんだろうね」

 伸びをしながら杏奈は言う。その表情は何だか悲しそうにも見える。

「そ、そんなことない。わたしこそ知らないことだらけだ。そんな自分が嫌になる」

「そうなの? 綾乃は今のままでとっても素敵な人だけどな」

 杏奈は突如としてそういうことを言えてしまう人間なのだ。

 綾乃は嬉しさと恥ずかしさで顔を赤らめてしまう。

「そ、そろそろ起き上がらないか? 通行人たちがこちらを見ている」

「そうなの? じゃあ起き上がるか。よいしょ」

 そう言って杏奈はゆっくりと起き上がる。

 綾乃はさっさと起き上がって背中についた草を落とす。ようやく恥ずかしい時間が終わったとひと安心する。

 それから二人は、西宮北口駅の近くにあるファミレスに立ち寄る。

「わ、わたしはポテトフライとドリンクバーをください」と綾乃が店員に注文する。

「じゃあね……わたしはチョコバナナパフェとドリンクバーにします!」

 杏奈は手をあげて注文する。

「ご注文、承りました」と言って店員が去ると、綾乃はウーロン茶を、杏奈はメロンソーダをそれぞれ取ってくる。

「あいかわらず甘いものが好きだな」

「まぁね、甘いものを食べるだけでわたしは幸せいっぱいだからさ!」

 杏奈は満面の笑顔でメロンソーダを吸い上げる。

「それにしても、なんで甘いものを食べると幸せを感じるんだろうね?」

「か、考えてみるか?」と綾乃が言う。

「そうしよう!」と杏奈は綾乃の方に身を乗り出す。

「とりあえず、ググってみた。甘いものを食べると、セロトニンというホルモンが脳内に分泌されるらしい」

「綾乃、そういうことじゃないんだよ。わたしは自分で考えることが好きなの。すぐに答えが知りたい訳じゃないの」

「わ、わかっている。あくまで話のきっかけとして提示してみたんだ」

「そういうことなら。わたしはね、甘いものは神さまから人類へのおくりものだと思っているんだ。生きていてくれてありがとう。甘いものをたくさん食べて幸せになれってね」

「それは甘いものを食べることを正当化したいだけじゃないのか?」

「違うよ。それは断じて違う、綾乃さん。わたしは人類の神秘、世界の真理を語っているの。甘いものを正当化したいんじゃない。そもそも正しいことなんだよ。それを証拠に人類は糖分を摂らないと低血糖で倒れてしまう」

「で、でも世の中には糖尿病という言葉もあるぞ。甘いものの摂りすぎは体を壊す」

「大丈夫! わたしはその分、たくさん運動しているからね」

 杏奈は満面の笑顔でピースサインを綾乃に見せる。

「それは確かにそうかもしれないが……甘いものはほどほどにした方がいい」

「綾乃、せっかく甘いものを頂いている時にそんな無粋なことは言わないの。わたしはいま、人類の義務として幸せを感じているんだ。生まれてきた以上、わたしたちは幸せにならないといけないんだよ。そしてほら、神さまからのおくりものが届いたよ」

 店員さんがチョコバナナパフェとポテトフライを持ってきた。

「わぁ、おいしそう! 幸せを頂きます!」

 そう言って杏奈はパフェにかぶりつく。口のまわりがクリームで真っ白になる。

 綾乃はくぐもった笑い声を出す。

「ふふ、サンタクロースのおじいさんみたいだ」

「わたしは人類に幸せを届けるサンタ杏奈さんなのだ!」

「何を訳の分からないことを言っているんだ?」

「ふん。真理は時に常人の目には見えないものなのだ」

「わ、わかったから食べろ。わたしはポテトフライで幸せを感じるから」 

 二人は電車に乗って家に帰る。幼稚園からの幼馴染なのでお互いの家は近い。

 二人の家は雲雀丘花屋敷駅の近くにある。杏奈と綾乃は電車の座席に並んで座っている。

「チョコバナナパフェおいしかったぁ!」とお腹を抱えて杏奈が言う。

「確かにおいしそうだった。わたしも一口もらえばよかった」

 綾乃は猫背で身を縮めている。

「お腹いっぱいになったら、眠たくなってきちゃった」と杏奈が言う。

「だ、大丈夫か? 晩ごはんは食べられるのか?」

「それは大丈夫! その頃にはとっくにお腹が空いているよ」

「ちょっと眠るか? 着いたら起こすぞ」

「いいの? じゃあ、綾乃の肩をちょっと借りるかな」

 そう言って杏奈は綾乃の肩に頭を預ける。綾乃は嬉しさと照れ臭さが入り混じった気持ちになる。杏奈がそうやって気を許してくれていることが綾乃は嬉しい。

「ねぇ」と綾乃に寄りかかりながら杏奈は言う。

「どうした?」と綾乃は尋ねる。

「最近、学校は楽しい?」と杏奈は聞き返す。

「い、いきなりどうした。まぁ、そこそこ楽しいぞ。杏奈がいるからな」

 綾乃はそう言うと少しだけ顔が赤くなる。

「なら、よかった」と杏奈は言う。そして綾乃に手を重ねる。

「わたしね、綾乃が楽しそうにしてくれるだけでとっても嬉しいんだ」

「そ、そうか。それは何よりだ」綾乃も何だか嬉しくなる。

「クラスではひとりぼっちで寂しくなってない?」

「ひとりぼっちではあるが寂しくはない。ずっと本を読んでいるからな」

「そう……クラスにも友達ができたら良いんだけど」杏奈は寂しそうに言う。

「ありがとう。でも、わたしは杏奈がいれば十分だ」

「綾乃がそう思ってくれるならいいか。わたしは絶対に綾乃の手を離さないよ」

「今日はどうした? や、やけに嬉しいことを言ってくれるな」

「何となくそんな気分になってね。ねぇ、今日はわたしの家に来ない?」

「いいのか? 杏奈がいいのならぜひ行きたい」

「じゃあ、そうしよう!」そう言うと杏奈は頭を起こした。

「あ、やっぱり眠たいや」と杏奈はすぐにまた綾乃に頭を預ける。

「た、たくさん寝ろ。部活で疲れているだろうからな」綾乃は杏奈に呼びかける。

 気がつくと杏奈は小さく寝息を立てている。綾乃は杏奈の寝顔を見て笑顔になる。

 やがて乗り換えの宝塚駅に着く。「着いたぞ」と綾乃は杏奈の頭にふれる。

「ん、着いた? 降りなきゃだね」そう言って、杏奈は伸びをする。

 綾乃が荷物を持って立ち上がると、杏奈も「よいしょ」とゆっくり立ち上がる。

「おばあさんかよ」と綾乃はツッコむ。

「そうだよん。わしゃ、おばあちゃんじゃ」杏奈は杖をつく真似をする。

 そして二人は電車を降りる。たくさんの人の間を抜けてホームを移動する。

 電車を乗り換えると、二人は座席に並んで座る。疲れがあって、二人はあまり話さない。

 綾乃はうつむきながら考え事をして、杏奈は車窓から外を眺めている。

 しばらくすると、杏奈は黙って綾乃の肩に頭を預ける。そしてそのまま目を閉じる。

 綾乃は杏奈の呼吸の動きを感じる。そしてずっしりとした頭の重さを感じる。

 杏奈は生きているんだなと実感する。そしてそのことが何だか不思議に思える。

 もし杏奈がいなかったら、自分はどうなっていたのだろう。

 それは綾乃にはうまく想像できないことだった。

 自分が今こうして元気に登校しているのは間違いなく杏奈のおかげだ。杏奈がいなかったら自分が生きているかどうかも定かではない。大げさではなくそう思う。

 綾乃はふと泣きそうになる。杏奈がこうして自分の隣にいることの奇跡を思う。

 わたしは幸せ者だと綾乃は思う。綾乃にとって杏奈はいちばん大切な存在だ。

 綾乃は上を向いて涙を必死にこらえる。こんなところで泣く訳にはいかない。

 やがて電車は雲雀丘花屋敷駅に到着する。「着いたよ」と綾乃は杏奈に声をかける。

 杏奈は目を開けると「おはよう」と言って、眠そうに目をこする。

 そして二人は立ち上がって電車を降りる。二人は並んで杏奈の家まで歩いていく。

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