第46話 胎動する正義【ロンディネ視点】
処刑台までの道を、執行人に変身してアルエットと共に歩いた。足取りに迷いはなく、小石をぶつけられても動じない。死ぬのが怖くないと言っていた言葉は本当だったのだと確信するしかなかった。
処刑台の上で大司教のコルモランは、最期に残す言葉はあるかとアルエットに尋ねた。彼女は曇りのないガラス玉のような瞳で、小さく控えめに微笑んだままこう言った。
『ないよ、何も』
冤罪に近い状況で、大罪人として処刑されようとしているのに、そこには怒りも悲しみも憎しみもない。清廉潔白だと訴えることすらしない。諦念の滲んだ……清々しい横顔に、ロンディネは愕然とした。
どうしてあなたはいつもいつも、自分を粗末に扱うのかしら……!
何も求めず粛々と現実を受け入れていくアルエットの姿に、何も知らず平気で敵意を向けて攻撃する民衆に、なぜかロンディネの方が腹が立っていた。
* * *
アルエットたちは、トランチェレスティナの端にある小さな家を借りて潜伏している。処刑執行日から、すでに一週間が経過していた。
ロンディネは昨日から、サイラスと共にアルエットたちと合流した。今教会内で、聖女近衛騎士の信頼は地に落ちている。活動を制限され、ずっと待機を命じられているとサイラスは頭を抱えていた。エルシーは執務室に軟禁状態で、カーテンすらも閉め切られ、外から様子を覗うこともできない。
神託がどうなっているのかもわからず、アルエットの疑いを晴らす方法も手詰まりとなっている。
「今日で一週間だね。そろそろ何か打って出ないとまずいと思うよ。エルシーも軟禁状態で、心配だし……」
サイラスはエルシーの幼馴染であり、彼女に恋情を抱いている。教会にいるときも、ここに来てからもずっとそわそわとしていて、いつもの落ち着きがない。
「ここまで打てる手がないなら、やれることは一つしかないよ」
「やれることがあるならもっと早く提案して──」
フィンチは頬杖をつきながら、むしゃむしゃとワッフルを頬張っている。サイラスはフィンチの暢気な雰囲気が癇に障ったのか、珍しく声を荒らげながら詰め寄る。「うるさいな」と呟きながら、フィンチはサイラスの口にワッフルを二枚ねじ込んだ。
「人に当たる前に自分で考えろよ。思いついてない時点であんたの負けだからな」
サイラスはワッフルを飲み込んで冷静さを取り戻したのか、眼差しに深い疲労を滲ませてフィンチに謝罪した。
「やるなら、エルシー様の奪還だね。アルエットがいれば、神官共が何時間もかけて張った結界だろうと一瞬でぶち破れるし。あとはエルシー様に変身したロンディネが、結界を自力で破ったことにして近衛騎士たちにでも会いに行けばそれっぽく見える」
「そうすれば神託の検証に移行できますわね」
「でもそれ、誰か一人にでも見られたら終わりなんじゃない……?」
やりようはある。けれど、アルエットの言う通り、誰にも姿を見られずにというのが一番難しい。今エルシーの執務室の警備は常に厳戒態勢で、屋内外、昼夜を問わず四方八方に聖騎士が立っている。
部屋に再び沈黙が訪れたとき、何か軽いものがバサッと落ちる音がした。見ると、アルエットの足元に小さな手帳が落ちている。あの装丁は聖騎士に一冊支給されるもので間違いない。
そしてアルエットが拾い上げた途端、突然手帳が淡く光り輝き始める。その光は、日に透かした葉のような透明感のある美しい緑をしていた。
アルエットは手帳を開くと、中に挟まっていた一枚の葉を取り出す。少し丸みのある形の葉が光を放っており、光の源がこの葉であることを示していた。
「やっぱこれ私の手帳だ! なんでここに? 制服のポケットに入れてたのに、サイラスかロンディネが持ってきてくれたの?」
アルエットは処刑の際、制服から処刑用のボロへと着替えさせられていた。今は街で買ってきた服に着替えている。ロンディネは手帳を持ってきた覚えはなく、サイラスもまた持ってきていないと否定していた。
「すごいねぇ……世界樹の葉っぱってこんなふうに光るんだ」
「世界樹の葉ぁ!? あんたもしかして世界樹を千切ってくすねてきたの? 手癖悪すぎだろ……!」
「違う〜! 偶然落ちてきたのを拾っただけ。エルシーに聞いたら良いって言ったから、記念に持って帰ってきたやつなんだけど!」
「ホントかよ……」
フィンチの反応も無理はない。世界樹の落ち葉なんて、少なくともロンディネは一度も見たことがなかった。世界樹の葉の光は、今もなお小さく明滅している。まるで深呼吸をしているような緩やかなリズムだ。
『……て……だ……、……しは……の……』
今、微かに声のようなものが世界樹の葉から聞こえた。気のせいかとも思ったが、全員が目を見張って葉を見つめている。その声は次第に鮮明になっていく。
『助けて……誰か、わたくしは……世界樹の傍に……』
それは確かに、エルシーの……助けを求める声だった。理解した瞬間、全員が慌ただしく動き出す。シーニュがすぐに指示を出すと、各々武器を手に取り、出発の準備を全員で整えた。
* * *
ロンディネとシーニュはそれぞれ風術が扱えるため一人で敷布に乗り、フィンチが絨毯に風術が使えないアルエットとサイラスを乗せて飛ぶ。全員で全速力で世界樹の神殿へと最速で向かっていた。
草原の向こうにそびえ立つ巨大な世界樹を見つめながら、爽やかな秋の空気を切り裂いて飛ぶ。風に遊ばれて暴れる髪を鬱陶しく感じ、ロンディネは片手で梳いて後ろへと流した。
世界樹の葉はすでに光らなくなっていた。アルエットはそれを心配そう見つめたあと、手帳に挟んで服のポケットにしまい込んでいた。
『世界に、救世主が降臨しました。皆、彼を信じ、崇めなさい。彼は必ず、幸福に暮らせる楽園へと導いてくれます』
突然空にエルシーの声が響き渡り、降ってくる。晴れ渡る秋晴れの空にいつもと違うところは一つも見受けられない。
「エルシーの声!?」
「何が起こっていますの?」
「世界樹は神樹と繋がり、世界を守っていると言われている。神殿にいるなら、世界樹を介してエルシー様は語りかけているのかもしれない」
戸惑っている自分やアルエットとは対照的に、シーニュは表情一つ変えず落ち着きを払っている。世界樹を介してとはどういうことなのか、そんなことが果たして可能なのだろうか。
「なるほどなー。だから世界樹の葉からもエルシー様の声がしたってわけか」
「納得してる場合じゃない。今の天の声……あんなこと、エルシーは言わない……!」
フィンチの予測が合っているのなら、助けを求める声と天の声、どちらが本物なのか。サイラスの勘を信じるなら、助けを求める方が本物で、天の声が偽物ということになる。けれど、結論を出すにはまだ時期尚早だ。こちらは何が起きているのかほとんど把握できていないのだから。
『迷える仔羊たちよ……わたくしの声を聞きなさい。わたくしの声に従いなさい。ただ身を任せれば、幸せを享受することができるでしょう』
再び天から声が響くと、今度は目眩と共に軽い吐き気のようなものを催す。とっさに口元に手を当て、ゆっくりと深呼吸した。
今、何かに頭の中を撫でられたような……奇妙な感覚がしましたわ……
「うげーっ! なんだよ今の!? ゲロ吐くかと思った……」
「俺も感じたよ。これもあの声のせいなのか?」
「どうやらあたくしたちだけのようですわね。シーニュとアルエットの涼しい顔が羨ましいですわ」
反応を見るに、吐き気を感じたのはフィンチとサイラスとロンディネだけのようだ。おそらくシーニュとアルエットは加護の効果で影響を受けていない。
何度も天の声を聞かされたらどんな影響が出てくるかわからない。フィンチとシーニュが飛行速度を一段階上げる。これについていくのは、自身の魔力量や制御力では相当集中が必要だ。
「申し訳ありませんけど、『変身』の加護は解除させていただきますわ。飛ぶ方に集中させてもらいますわよ? よろしくて?」
「構わない。君の加護には助けられた。ありがとう」
騎士団長命令なのだから、別に感謝など言わなくてもいいのに。それを一々口にするのが、シーニュの美点であり面白いところだとロンディネは思う。
「礼には及びませんわ! さぁ、参りますわよ!」
ロンディネは加護を解除し、集中力と魔力を結集して二人の後を追った。
* * *
しばらくして世界樹の神殿に到着し、降り立つ。それまでに三度天から声が降った。その声は頭の中や胸の奥をざわつかせ、薄気味悪い感覚を抱かせる。そして回数を重ねるごとに、強くなっていた。
全員で神殿に突入し、最奥の世界樹のある広間へと到達する。その奥の世界樹の手前、高座にある石作りの玉座にエルシーは座っていた。エルシーは目の前の台座にある透明の玉──世界樹の実と呼ばれている宝玉に両手を添えている。
何より異様なのは、彼女の体を玉座に縛りつけるように、木の蔦のようなものが絡みついていることだった。エルシーの虚ろな目は神託が下りたときの“空色”をしており、瞬き一つせず正面へと向いている。薄い笑みと共に虚空をぼんやりと見つめるエルシーは、まるで精巧に作られた彫刻のようだった。
壁際には神官や聖騎士が整然と並び立ち、エルシーの傍らには一人の神官が立っていた。その顔は、ロンディネもよく知る人物だ。
「エルシー……! 蔦でぐるぐる巻きじゃん……今私が取ってあげるからね。メサンジュも隣で突っ立ってないで、取ってあげなよ。痛そうだと思わないの?」
誰もがこの異様な光景に呑まれ、警戒で口を閉ざす中、真っ先に声を上げたのはアルエットだった。場にそぐわない暢気な声だが、さすがにこの異様さに気づいて、あえて言っているのだろう。
それはある意味、エルシーの傍らに立つ神官──メサンジュへの最後通牒でもあった。ここで協力すれば戻れる。けれどもし対立すれば……衝突は避けられない。それも、命のやりとりをするような衝突になる。
「止まりなさい。近づくことは許可しておりませんよ、アルエット殿」
メサンジュの声に応じ、神官と聖騎士がエルシーとメサンジュを庇い立てるように立ち塞がる。神官や聖騎士たちもどこか空虚な瞳をしており、そこに明確な意思のようなものを感じられなかった。
「エルシー……この世で最も愚かな仔羊たちに教えて差し上げなさい。私たちが創り上げる世界の素晴らしさを」
メサンジュがエルシーの肩に静かに手を添えると、素直に応じて口を開く。その澄んだ空色の瞳に体ごと吸い込まれていくような、奇妙な感覚に支配される。
『彼は神の声を神託として伝えてくださる救世主です。偽りはなく、嘘はなく、痛みはなく、苦しみもない。誰もあなたを傷つけない……幸福で正しい世界に導いてくださいます。信じなさい……信じなさい……』
清廉潔白のエルシー……彼女が罪を犯すわけがない。どこまでも慈悲深く、救いを与える存在。
エルシー様は、あたくしたちを救うために導こうとしていらっしゃる……?
『サイラス、フィンチ、ロンディネ……わたくしに従いなさい』
自身の穢れを認識し、彼女の圧倒的善性の前に平伏す。彼女が正しくて、間違っているのは自分の方だったのかもしれない。そんな恐怖と畏怖が綯い交ぜになってこみ上げる。
「気を強く持て、ロンディネ」
シーニュの声と背中に触れた手の感触に、ハッと一気に空気が肺に入り、感覚が冴える。気づくと意思に反し、跪いて頭を垂れていた。あまりにも自然で、無自覚で、血の気が引く。
「ロンディネ殿はシーニュ殿を信頼しておられるようですね。『絶対正義』を反射し、エルシーの心を支配しようとした罪人とも知らず……実に滑稽なことです」
「シーニュは何も言わなかったけどさぁ、薄々そんな気はしてたよね。でも普通に考えたら、あんたの方がイカれてることくらいわかるっての。僕を見下したこと、後悔させてやるからな!」
「神託を与える救世主……? どうせ加護の力か何かで、エルシーを騙しただけに決まってる……!」
動揺しかけたロンディネの弱さを打ち破るように、フィンチとサイラスが何かを振り切るように吼える。そのまま二人は戦闘態勢へと移行した。
『おやめなさい』
エルシーの感情のこもらない声が響いた瞬間、フィンチとサイラスの体が凍りついたように硬直する。エルシーの声を聞いてしまうと、反射的に自分が間違っている気分になる。
冷水を浴びせられたように体が萎縮し、親に叱られる子供のようになってしまう。きっとそれは『絶対正義』である、「清廉潔白で罪を犯さないエルシー」という究極の善を目の前にしてしまった影響なのだろう。
「ふふ……エルシーを傷つけたのは君たちの方ですよ? それでよく正義面できますね、虫唾が走ります。もう一度よく考えてごらんなさい。『絶対正義』に影響されて追い詰めたのは誰ですか? 反射の事実を黙って失望させたのは誰ですか? エルシーの心を救っていたのは、私が授けた“神託”だけではありませんか」
メサンジュは朗々と語り、エルシーの力でこちらを封じ込められていることに対して満足しているのか、口元が深く弧を描く。
『受け入れなさい。そうすれば、救いが得られるでしょう』
体が思うように動かない。エルシーの声が頭の中で反芻され、思考がまとまらなくなっていく。ロンディネは膝をつき、心が蝕まれて消えていくような気持ち悪さに胸元を握りしめた。唾を呑み込み、肩で息をしながら、重い頭をなんとか上げて意識を保つ。
「エルシーを心から愛せるのは、この世に私だけです。さぁエルシー、私と君が導く世界の素晴らしさを、ゆっくりじっくり……彼らの身に刻んで、説いて差し上げましょうか」
まるで私物に触れるように堂々と、メサンジュの指先がエルシー頭を慈しむように撫でる。狡猾で独善的な眼差しが、穏やかに細められていく。そしてその指先が、頬へと滑り落ちようとして──
「はぁ? キッショ……」
冷たい氷の中に、激しい炎を宿したような声。沼の中に沈んでいくように重かった体が軽くなり、力が戻ると同時に、声の主……アルエットを見た。
呆れと軽蔑を滲ませた苦笑を容赦なく向けながら、その目には「これ以上何も踏みにじらせない」という研ぎ澄まされた殺意が宿っている。
雨上がりの空のような淡い青の瞳は、メサンジュを焼き殺さんばかりに燦然と輝いていた。




