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「え?……名前??」
「そう、名前」
それってどういう意味?と尋ねたいところだが、万が一勘違いだったら死ぬほど恥ずかしい。
「いやぁー、ちょっと年下に名前で呼ばれるのは……一応、ここ職場だし」
「プライベートならいいってことっすか?」
「いや、良くはないでしょう」
芸人顔負けの速さで否定してみたが、正直、航平の問いかけは告白なのか何なのかわかりにくい。
短い時間で悩んだ菜穂子は、とりあえずビジネスライクに接することにする。
「江上君さ、職場以外で私の名前を呼ぶ機会ってないと思うんだよね」
「まぁ、これまでは。でもこれからあるんじゃないんっすか?」
「え?どうして?」
「俺が誘いますから」
ああ、やっぱり勘違いじゃなかった。でも勘違いの方が良かった。
「私、好きな人がいるから仕事以外で江上君と出かけることはできないよ」
下心の有無を抜きにして、異性と出かけることが浮気になるかどうかは、その人の判断に委ねられる。
菜穂子は浮気だと思う。だって、真澄にそうされたら嫌だから。何より自分が、真澄以外の異性と歩いている姿を見られたくなんかない。
そんな気持ちを込めてきっぱりと宣言すれば、航平は肩をすくめた。”がっかり”というより”やっぱりそっか”と、言いたげに。
「漫画で読んだんっすよ。相手が仕事でヘロヘロになってる時に告白すると、まともに頭が動いてないから結構な確率でOKしてもらえるって」
「その漫画のタイトルって何?」
「教えませんよ。っていうか、早波さんの好きな人ってH&Mデジタルの社長ですよね?」
「っ……!な、内緒!!」
嘘が苦手な菜穂子は、慌ててパソコンのモニターで顔を隠す。でも、言葉に詰まった時点でバレバレである。
航平は「あーあ」と言いながら、首の後ろで手を組んだ。ギシッと椅子の背もたれが軋む音が事務所に響く。
「H&Mデジタルの社長ってさ、ゴリゴリに束縛強そう。だからってきり、祝賀会んとき……早波さんさ、あの社長にうんざりしてると思ったんですけどね」
「そんな風に見えたんだ」
「見えましたよ。だから俺なんかでも、早波さんに告白できるチャンスあるかなって思ってたんですけど。全然、俺の入る隙間なかったですね。っていうか好きな人いるって、片想いしている人が言う台詞ですよ?早波さんの場合、違くない?」
最後はタメ口になった航平に、菜穂子は「ははは……」と笑って誤魔化すことしかできない。片想いしてる事情なんて、言えるかっ。
とはいえ、菜穂子が抱えている状況など航平には、わかるわけがない。
それでも言えない事情があることは察してくれたようで「明日から変にぎこちない態度取ったりしないでくださいよ。年上なんですから」と気遣いの言葉をかけてくれる。
「うん。いつも通りにする。ありがとう、江上君」
「それって、告ってくれてありがとう的な?」
「それもちょっとだけあるけど、気まずくならないようにしてくれての”ありがとう”の方が大きいかな?」
「うわぁ、マジで脈ナシじゃん……俺」
頭をガシガシかきながら不貞腐れる航平は、すぐに自分よりもっと素敵な女性な彼女ができると思う。
ただそれを口にするのは、航平に対して失礼なような気がして、菜穂子は机の上を片づけ始める。まだ作業は残っているが、明日でも十分に間に合うはずだ。
「拗ねてるとこ悪いけど、私はそろそろ帰るね」
「あ、もう遅いし駅まで送りますよ」
パソコンを閉じようとする航平に、菜穂子は首を横に振る。
「ううん、大丈夫。遅いって言ってもまだ居酒屋が開いてる時間だし」
「居酒屋って……早波さん、オヤジっすか?」
ついさっき告白したくせに、航平は遠慮なく呆れ顔になっている。その切り替えの早さは、若さなのか、彼の見えない努力なのか。いや、きっと両方なのだろう。
だから菜穂子も、わざとらしくムッとした顔を作ってカバンを持つ。
「いいじゃん。居酒屋は人生のオアシスなんだよ。ま、流石に今日は寄らないけどね」
「……俺は浴びるほど酒を飲みたい気分ですよ」
「週末まで我慢だね。じゃ、お疲れさま」
「はい。お疲れ様です」
最後はいつも通りペコッとお辞儀をし合って、菜穂子は事務所を出た。
けれどその後──菜穂子は真澄の待つマンションに戻ることができなかった。




