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真澄の女性遍歴が気になるとはいえ、幹久の忠告とは裏腹に平穏な日々が続いている。
デザイン事務所は一度は受注が減ったけれど、すぐに持ち直してくれた。それに比例するように、所長の体型もふくよかに戻ってくれた。
『所長の体型ってさ、うちの事務所のバロメーターだよね』
お腹の肉が邪魔して落ちた書類を取るのに難儀している所長を見ながら、しみじみと稲富はそう呟き、渡辺は更に所長を太らせるべくハイカロリーな間食を絶えずストックしている。
それを傍観する航平と、良い事務所で働けて良かったと喜ぶアルバイトの美都。職場が盗作疑惑をかけられたことなど嘘のようだ。
──ああ、平和だなぁ……。
しみじみと心の中で呟く菜穂子だが、日を追うごとに寂しさが募っていく。
真澄との契約は、あと1か月。離婚の話はどちらも口に出していないが、彼がその話題に触れないということは、変更する気はないということだ。
あれほど大切にしてくれたというのに、冷たいものである。でも、仕方がない。そういう契約だったのだから。
離婚をゴネるのは、真澄が軽蔑していた女性と同じになる。
それだけは絶対に避けたい菜穂子は、最後まで《《いつも通りの自分》》でいようと心に誓っている。
*
「早波さんってさ、H&Mカンパニーの社長と付き合ってるんですか?」
急な案件で残業中の菜穂子に、航平は唐突にそんな質問をぶっこんだ。
「な、なに?ど、ど、どうしたの??急に……そんなこと……!」
我ながら取り乱し過ぎだとわかっているが、カタカタと震えるマウスを持つ手が止められない。
「どうしたって、気になったから訊いただけっすよ。何、そんな慌ててるんですか?」
「だって、急にそんなこと」
「こういう質問って、前もってお伺いを立てるもんすか?普通、そんなことしないですよ?」
待て待て待て。それ以前に、普通は二人っきりの事務所でこんな質問をしたりしない。
そう言い返したい菜穂子だが、パソコンのモニター越しにじっと見つめてくる航平は、とても真剣な表情で思わず息を吞む。
「えっと……私の勘違いっていうか、自惚れだったら笑ってほしいんだけど、さ」
「はい」
「江上君さ、私のこと……職場の同僚じゃない目で見てたり……する?」
なんか、自分で言ってみて、菜穂子は恥ずかしくなった。
自分ごときが、なんて身の程知らずなことを問うてしまったのだろう。
しかし、祝賀会で好青年にジョブチェンジした航平は、その日限りだと宣言していたけれど、今日までそのキャラを維持している。
その理由を菜穂子は「社会人としての身だしなみ」として受け止めていた。でも、もし違っていたとするなら──
「俺、早波さんのこと、菜穂子って呼びたいんですよね」
恥ずかしげもなくそんなことを言った航平は、冗談ではなく本気の目をしていた。




