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オホンッと、喉の調子を整えた菜穂子は、背筋をピンと伸ばして口を開く。
「まあ君、この前の祝賀会では八つ当たりしちゃってごめんなさい!」
言い終えたと同時に、菜穂子は額に膝がくっつきそうなほど深く頭を下げた。
ゆっくり三つ数えて顔を上げれば、ポカンとした真澄と目が合う。
「菜穂ちゃん……」
「うん?」
「俺に八つ当たりしたって言ってるが……」
「うん」
「さっぱりわからん」
でしょうね。それを今から説明するのだから。
そう心の中で呟いた菜穂子は、再び真澄の隣に座る。ちょっと彼の目を見て話すのは、恥ずかしいというより、気まずい。
「私ね、まあ君と結婚してからの生活が楽しいの。でも楽しい反面、私はどんな妻でいればいいのかわからなくってね……なんか自分を見失ってたんだ」
「そうか」
指をこねながら、たどたどしい説明をした菜穂子に、真澄は優しい声で相槌を打つ。
「今にして思えば……自分で考えてもわからないんだから、まあ君に訊くしかなかったんだけど、それができなかったの」
もし尋ねた結果、真澄から自分への不満が溢れてきたらと思うと怖くて行動に移せなかった。
予定より早く契約結婚を終了したいと告げられるのを、何より恐れていた。
真澄のことを好きだと自覚してしまった菜穂子からしたら、それは死ねと言われるようなものだった。
「祝賀会の時はね、自分で勝手に悩んでた時に”妻としての自覚がない”って言われて、ついカッとなって……あんなひどいことしちゃったんだ。ほんと、ごめん」
もう一度、菜穂子は深く頭を下げた。すぐに真澄の手が、頭の上に乗る。
「……まあ君?」
「さっきの仕返しだ」
そう言うや否や、真澄は両手でわしゃわしゃと菜穂子の頭を撫でまわす。
「ちょ、ちょっと……!」
「菜穂ちゃんの頭、ちっさ」
「脳みそが少ないって言いたいの!?」
「違う。可愛い」
「……っ!」
さらっと、ときめくことを言う真澄に、菜穂子の胸が軋む。でも、もう辛いとは思わない。
菜穂子が真澄のことを好きなのは事実だ。この気持ちは、変えられない。
自分の気持ちを、自分で否定することは、とても苦しい。だから菜穂子は、開き直ることにした。
恋など、事故のようなものだ。望む望まないに限らず、心の一番大事なところに居座ってしまう厄介なもの。
ならその気持ちを無理矢理追い出すより、大切にしよう。どうせ叶わぬ恋であっても──
「夫婦の形って、夫婦の数だけあって、どれが正解とか不正解かなんて誰かに決めてもらうことじゃないんだよね」
菜穂子の頭を好き放題に撫でていた真澄の手が、ピタリと止まった。
「私は、今からでも《《私たちだけ》》の夫婦の形を探したい」
契約終了まで、残り四か月。この提案は、意味のないものかもしれない。他に好きな人がいる真澄にとったら、迷惑なものかもしれない。
けれど、真澄は頷いてくれた。とてもとても綺麗な笑みを浮かべて。
「ああ。俺も、賛成だ。探していこう」
真澄の手が、菜穂子の頭から頬に移動する。
ゆっくり包み込むように押し当てられ、菜穂子は切なくなる。彼のこの行為は、愛からくるものじゃない。
でも抱える想いが違っても、向かう先は同じである。それだけで、もう十分幸せだ。
「じゃあ、仲直りってことでいい?」
おずおずと菜穂子が尋ねると、真澄はがっくりと項垂れた。菜穂子の目が、不安に揺れる。
「俺から……いや、俺のほうが悪かったのに……菜穂ちゃんにそこまで言わせてしまって悪かった」
「ううん、ぜんぜん」
「俺こそ、ずっと菜穂ちゃんを避け続けてごめん」
「もう、いいの。ちゃんと捕まってくれたし」
「最高のサプライズだった。感謝する」
「ふふっ、何度逃げても捕まえてあげるね」
「助かる。だがそうならないよう、俺も努力する」
生真面目に言った真澄は、菜穂子を見つめて誓いを立てるように深く頷いた。




