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菜穂子が前向きな返事をしたのに納得したのか、航平はそれからすぐに紙コップの中身を飲み干して帰り支度を始める。
稲富と渡辺も子供がいる身なので、航平に続くように空になった紙コップを片付けた。
「それじゃ、お先に失礼しまーす」
「私も失礼します」
「俺も帰ります」
出入り口に向かう3人に、菜穂子と所長は「お疲れ様」と声をかけて見送る。
途端に事務所がしんとなり、菜穂子は所長をチラリと見る。
「所長、さっきはありがとうございました」
「ん?なんのことかわかんないけど、どういたしまして。早波さんも、今日はもうお帰り。事務所は僕が締めとくから」
にこにこ顔でとぼけてくれる所長は、本当に自慢の上司である。
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて、今日はこれで失礼します」
紙コップをゴミ箱に捨てた菜穂子は、すぐ後ろにあるポールハンガーから自分のコートを取って、袖を通す。
狭い事務所は何かと不便だが、早く帰り支度ができることだけは有り難い。
カバンを持った菜穂子は、忘れものがないか机の上を確認してから所長にペコリと頭を下げた。
「お先に失礼しまーす」
「はい、お疲れ様」
ひらひら手を振る所長に手を振り返しながら、菜穂子は事務所を後にした。
「……ぅぅ……寒いっ!」
外に出た途端、菜穂子はぶるりと身を震わせる。
2月も終わりだというのに、春の気配は一向に感じられない。
「こんな日は、おでんでと熱燗だよなぁー……」
コタツもあれば完璧だが、あいにく真澄と一緒に暮らしているマンションには、そういう庶民のアイテムはない。
きっとコタツを置きたいと言えば真澄は嫌な顔をしないで、許可してくれるだろう。
しかし許してくれるといっても、あのマンションは真澄が暮らす家でもある。好き勝手に模様替えするわけにはいかない。
まして自分は、今年の秋に出ていく身だ。実家にはコタツが既に2つあるから、今から購入しても置き場所に困ってしまう。
「まあ君は、使わないだろうし……」
正月2日目に、真澄は約束通り菜穂子の実家に来てくれた。タラバガニを抱えて。
瞬きする間に殻だけになっていくタラバガニを見て「もっと用意すれば良かった」と悔しそうな顔をしてくれた。
早波家の居間は和室だ。毎年、コタツを出して、食事時やそうじゃない時でも家族が集う。
そこに真澄がいるのは、不思議な光景だった。けれど真澄は、両親とにこやかに会話をし、恭司の弄りに対して洗練された冗談で応じ、お腹が目立ち始めた孝美を気遣い、ウサギのモコを見て「どこよりも可愛い」と褒めてくれた──まるで《《本当に結婚した》》妻の実家に遊びに来たかのように。
でも真澄はコタツに入っていても、一度も足を崩すことはなかった。
礼儀正しいとも、一線を引いてるとも言える真澄の姿に、菜穂子は一抹の寂しさを覚えてしまった。
だが、その感情を認めたくなくて「きっとコタツが苦手なんだ」と思い込むことにした。




