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「えっと……僕、なんか変なこと言いましたか?」
沈黙に耐え切れなかったのか、周囲に問いかける航平の声は若干不機嫌だ。事務所内の空気が、更におかしくなる。
その空気に今度は、菜穂子が耐えられなくなった。
「あ、ええっと……江上君、変なことは言ってないよ。ただ驚いちゃっただけ」
「驚く?なんで?」
不思議そうな顔になる航平に、菜穂子は言葉が詰まる。正直、こっちのほうが「なんで?」と訊きたい。
稲富と渡辺も菜穂子と同じ気持ちのようで、困り顔になっている。
そんな中、所長だけは孫の成長を喜ぶ祖父のような顔になっていた。
「うんうん、江上君も大人になったねぇ。他人の頑張りを素直に認めることができるなんて」
「え?」
「はぁ?」
「はぁー!?」
所長の突拍子もない発言に、菜穂子たちは目を丸くする。これのどこが大人の態度なのか?どこを素直に認めているのか??
三人とも理解できない顔をしているが、江上はなぜか図星を刺されて照れた顔になる。
「今回のことでわかったけど、早波さんって発想力あるし、クライアントの望むイメージを正確に読み取れるし、変更依頼が多くても絶対にキレたりしないし、僕たちの意見もちゃんと先方に伝えてくれる。あとは専門的な知識があれば、アシスタント卒業して単独で仕事を受けれると思うんだよね」
饒舌になった航平は、本当に我がデザイン事務所の航平なのだろうかと、この場にいた誰もが思った。所長さえも。
そんな驚きを抱えながらも、菜穂子は真澄と離婚した後の自分を想像する。
これまでは、元の生活に戻るだけだと思っていたが、違う未来があることに胸がドキドキする。
「夜間で通える学校とか……調べてみます」
口に出してみて、菜穂子は変な気持ちになる。
自分の可能性が広がって嬉しいはずなのに、真澄と別れることに現実味を帯びてしまい、胸がほんの少しだけ苦しい。
「あら、早波さん、学校なんて行ってていいの?」
心配そうに顔を覗き込んできた稲富に、菜穂子は首を傾げる。事務所的に何か不都合があるのだろうか。
不安になる菜穂子だが、そういったジャンルではなかった。
「早波さん、昼間仕事して夜は学校ってなると、彼氏から嫌な顔されちゃわない?」
「っ……あ、これは……」
稲富から左の薬指にはめられた指輪をツンツンされ、菜穂子は焦る。
今日まで職場は多忙を極めていたので、指輪のことは誰にも触れてこなかった。事務所はアットホームだが、各自のプライベートにはいい意味で無関心だ。
そういった環境のせいで、菜穂子は完全に気を抜いていたが、ちゃんと気づかれていた。ただ結婚指輪ではなく、ペアリングと思われていたことは喜ぶべきなのだろうか。
「稲富さん、心配する気持ちはわかるけど、これ以上は早波さんが決めることだからね」
立場上、菜穂子がしれっと既婚者になったことを知っている所長は、菩薩のような顔で菜穂子に助け舟を出す。できた上司だ。
「所長も、稲富さんもありがとうございます。江上君もアドレスありがとう。ちゃんと後悔しないように考えてから決めます。えっと、かなり前向きに……」
彼氏の話題に触れないよう言葉を選びながら菜穂子は、二人に向け小さく頭を下げる。
そうすれば、なぜか渡辺から「スキルアップを邪魔する男なんて付き合う価値はないよ」というアドバイスが飛んできた。
耀太と付き合っていた頃なら有り難く受け取るが、今は上手に受け止めきれない。
自分でも戸惑うほど複雑な心を抱えた菜穂子は、また頭を下げて誤魔化すことしかできなかった。




