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「……な……なほ……菜穂ちゃん……!」
真澄から名を呼ばれた菜穂子は、はっと我にかえる。
「大丈夫か?」
「え?あ……うん……ちょっと緊張して……」
気遣う真澄の視線がなんだか辛くて、菜穂子は襟を整えるふりをしながら俯く。と同時に襖が開き、真澄の母親──美佐枝が姿を現した。
「遅くなってごめんなさいね」
きれいな所作で真澄の父親の隣に座った美佐枝は、嘘を吐いたことなどおくびにも出さずニコニコと上品な笑みを浮かべている。
「持永殿がお見えになったそうだが?」
「ええ。お時間がないのでお車越しに、ご挨拶に来てくださいましたわ」
「そうか、そうか。なら後でお礼を言っておかんとな」
「略式のあいさつですから、礼状は不要とのことでしたわ」
美佐枝は、嘘を吐いてるとは思えない滑らかな口調で、隣に座っている真澄の表情がどんどん険しくなっていく。
菜穂子も真澄の隣に座っているが、彼の放つ怒りオーラでビリビリ痛い。
これは、まずい。菜穂子だって美佐枝に言いたいことが山ほどあるが、それよりも真澄の眉間の皺を取るほうが先決だ。
「……まぁ君、まぁ君」
使用人たちが、客人たちにビールを注いでいる今がチャンスとばかりに、菜穂子は真澄の名を呼びながら、膝に手を置く。
「っ……!?な、ど……どうした?」
小さく息を呑んで真澄は、菜穂子に目を向ける。
「……眼力ヤバくなってるからブレーキかけて」
「……無理だ。これでも怒鳴りつけたいのを我慢してるんだぞ?」
「……そっか。偉い、偉い……ってなるわけないよ……!」
なんとか機嫌を直してほしい菜穂子と、更に不機嫌さが増す真澄。
小声での会話は、他の人には聞こえないせいか、その光景は誤解を生むものでしかなかった。
「ま、持永殿のことは後にしよう。お熱い二人を待たせちゃいかんからな」
真澄の父親の地声は無駄に大きく、真澄を宥めていた菜穂子はギョッとした。
「え、あ、あの……」
「では新年の宴を始めよう。今年は息子の真澄の結婚報告も兼ねてるから、皆、たくさん食べて、飲んで、二人を祝ってくれたまえ。では──乾杯!」
菜穂子が違うと否定する間もなく、真澄の父親は勝手にグラスを持ち上げてしまった。
客人たちを始め、美佐枝も幹久も次々とグラスを掲げる中、空気を壊してでも誤解を解く度胸がない菜穂子は、渋々ながらグラスを持ち上げる。
真澄は一番最後に、グラスを持ち上げた。
「……まぁ君、ごめんなさい」
客人達の張りのある掛け声に、菜穂子の声はかき消されてしまったが、真澄の眉間に刻まれていた皺は消えていた。
──とりあえず、良かったことにしよう。
今日の菜穂子に与えられた使命は、存在感の薄い妻を演じきること。
可もなく不可もない評価を得るための宴は、まだまだ始まったばかりだ。
気を引き締めないと、と菜穂子は一気飲みしたい衝動を堪えて、ビールを一口だけ飲む。
隣に座る真澄は、ノンアルコールのビールのはずなのにグラスに口すらつけていなかった。
「まぁ君、ノンアルビールも苦手なの?」
「ああ。酒の匂いがしっかりするからな」
「……そっか。じゃあ……」
「おい……!」
ザワザワし始めた一瞬の隙をついて、菜穂子は真澄のグラスに入ったノンアルコールのビールを一気飲みした。
「ごちそうさま」
「……ありがとう。助かった」
あからさまに安堵の表情を浮かべた真澄は、きっと酒の席で苦労したことがあるのだろう。
そんな真澄のために、菜穂子は近くにいた使用人に冷たいお茶を用意させる。
「グラスが空だと、お酒入れられちゃうかもしれないから……」
お節介だったかなと、菜穂子は不安げな口調で言い訳をする。
「ありがとう。菜穂ちゃん……」
小さな声で礼を言われ、強い力で手を握られ──菜穂子は、まだ酔ってないはずなのに身体がふわふわしてしまった。




